Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
「第17章・皇帝家族の殺害」の試訳のつづき。
--------
第11節/遺体の処理。
(01) Ekaterinburg のボルシェヴィキは、ロシア人は殉教者の遺体に奇蹟的な力を認めるのを知っていて、またロマノフ家への崇拝が発生するのを阻止しようと気にかけて、遺体の全ての痕跡を破壊することに傾注するに至った。
Iurovskii とその助手のErmakov がその目的のために選んだ場所は、Ekaterinburg から15キロ北にあるKiptiaki 村の近傍の森だった。Ekaterinburg の北部は沼地、泥炭地ばかりで、放棄された鉱山もある、という地域だった。
--------
(02) 中心部から数マイル走って、遺体を乗せたトラックは、荷車をもつ25人の男たちの一党と出会った。
「彼らは労働者(ソヴェト、その執行委員会等々のメンバー)で、Ermakov が集めていた。
彼らは叫んだ。『なぜ彼らを死なせて運んでいるのか?』
彼らは、自分たちがロマノフ家の処刑を任された、と考えていた。
彼らは、遺体を荷車へ移し始めた。…
すぐに(犠牲者の)ポケットを探索し始めた。
ここでも私は、射殺という威嚇で脅迫し、警護をするよう命じた。
Tatiana、Olga、Anastasia は何らかの特殊なコルセットを身につけていることが判った。
遺体を裸に剥くことが決定された。—ここでではなく、埋める予定の場所で。」
彼らが、ほとんど3メートルの深さにある放棄された金鉱跡に到着したのは、午前6-7時だった。
Iukovskii は、死体の衣服を脱がせ、埋めよ、と命令した。
「彼らが少女の一人の衣服を脱がせ始めたとき、コルセットの一部が銃弾で裂かれているのを見た。ダイヤモンドがgash にあった。
やつらの眼が輝いた。全員にやめさせる必要があった。…
彼らは遺体の衣服を脱がせ、それらを焼却し始めた。
Alexandra(前皇妃)は亜麻布に縫い込まれたネックレスで成る真珠のベルトを着けているのが分かった。
(少女たちはみんな、首にRasputin の絵と彼の祈祷文のある御守りをつけていた。)
ダイヤモンドが集められた。半pud(8キログラム)の重さがあった。…
貴重品を鞄に詰めたあと、遺体にあった残りの物は焼かれた。
死体そのものは、鉱山の中へと降ろされた。」(注82)
6人の女性の遺体に対してどのような侮辱が行なわれたかは、読者の想像に委ねなければならない。この作業に加わった警護者の一人は、のちにこう言って自慢した、とするにとどめよう。「皇妃の—をsqueeze したので自分は安らかに死ねる」(注83、「—」は原文ママとの記述あり(試訳者))。
--------
(03) この場所は、現地の農民には、一本の幹から成長した大きな四本の松の木があったことから、<四人兄弟>として知られていた。
Solokov がロマノフ家の遺体を見つけるために数ヶ月のあいだ掘ったのは、まさにこの場所だった。
彼は多くの物的資料を見つけた。—イコン、ペンダント、ベルト留め具、めがね、コルセット締め具。これらは全て、皇帝家族の一員の持ち物だと特定された。
切断された指も、見つかった。きつく嵌められていた指輪を取り除く際に切られた、皇妃のものだと考えられた(脚注)。
一組の入れ歯は、Botkin 博士のものだと識別された。
彼らは、イヌのJemmy を焼却する手間をかけなかった。その犬の腐敗した死体は、立て坑で見つかった。
皇妃が持っていた10カラットのダイヤモンドは、見逃すか偶然に落とすかした。これは夫からの贈り物で、草の中にあった。
----
(脚注) だが、ニコライのものである可能性もあった。Alexandra は7月4日に、全ての宝石類を渡せとするIurovskii の要求に関連させて、夫の婚約指輪は外れないだろう、と記していた。
--------
(04) しかしながら、犠牲者の遺体はどこにも見つからなかった。そして、長年にわたって、皇帝家族の何人か、またはほとんどですら、虐殺を免れて生き残っているのではないか、という推測を生むことになった。
この謎が解消されたのは、〔1989年に〕Iurovskii の回想録が出版されることによってだった。この書物はまた、遺体は一時的にのみ「四人兄弟」に埋められた、ということを明らかにした。
--------
(05) Iurovskii は、「四人兄弟」鉱床は深さが浅すぎて墓場を隠すことができない、と考えた。
彼は調査するために中心部に帰り、モスクワへと至る道の途中にもっと深い鉱床が存在することを知った。
すみやかに、大量の灯油と硫酸を携えて戻った。
7月18日の夜、付近の道路を閉鎖したあと、Iurovskii の部隊は、チェカの派遣部隊に助けられて、遺体を掘り出し、トラックに乗せた。
彼らはモスクワ街道を進んだが、トラックが途中で泥に嵌まって動かなくなった。
埋葬が、近くの浅い墓場で行なわれた。
犠牲者たちの顔と身体に硫酸が注がれ、墓場は土と小枝で覆われた。
その埋葬場所は、1989年まで知られないままだった。
————
第11節、終わり。
「第17章・皇帝家族の殺害」の試訳のつづき。
--------
第11節/遺体の処理。
(01) Ekaterinburg のボルシェヴィキは、ロシア人は殉教者の遺体に奇蹟的な力を認めるのを知っていて、またロマノフ家への崇拝が発生するのを阻止しようと気にかけて、遺体の全ての痕跡を破壊することに傾注するに至った。
Iurovskii とその助手のErmakov がその目的のために選んだ場所は、Ekaterinburg から15キロ北にあるKiptiaki 村の近傍の森だった。Ekaterinburg の北部は沼地、泥炭地ばかりで、放棄された鉱山もある、という地域だった。
--------
(02) 中心部から数マイル走って、遺体を乗せたトラックは、荷車をもつ25人の男たちの一党と出会った。
「彼らは労働者(ソヴェト、その執行委員会等々のメンバー)で、Ermakov が集めていた。
彼らは叫んだ。『なぜ彼らを死なせて運んでいるのか?』
彼らは、自分たちがロマノフ家の処刑を任された、と考えていた。
彼らは、遺体を荷車へ移し始めた。…
すぐに(犠牲者の)ポケットを探索し始めた。
ここでも私は、射殺という威嚇で脅迫し、警護をするよう命じた。
Tatiana、Olga、Anastasia は何らかの特殊なコルセットを身につけていることが判った。
遺体を裸に剥くことが決定された。—ここでではなく、埋める予定の場所で。」
彼らが、ほとんど3メートルの深さにある放棄された金鉱跡に到着したのは、午前6-7時だった。
Iukovskii は、死体の衣服を脱がせ、埋めよ、と命令した。
「彼らが少女の一人の衣服を脱がせ始めたとき、コルセットの一部が銃弾で裂かれているのを見た。ダイヤモンドがgash にあった。
やつらの眼が輝いた。全員にやめさせる必要があった。…
彼らは遺体の衣服を脱がせ、それらを焼却し始めた。
Alexandra(前皇妃)は亜麻布に縫い込まれたネックレスで成る真珠のベルトを着けているのが分かった。
(少女たちはみんな、首にRasputin の絵と彼の祈祷文のある御守りをつけていた。)
ダイヤモンドが集められた。半pud(8キログラム)の重さがあった。…
貴重品を鞄に詰めたあと、遺体にあった残りの物は焼かれた。
死体そのものは、鉱山の中へと降ろされた。」(注82)
6人の女性の遺体に対してどのような侮辱が行なわれたかは、読者の想像に委ねなければならない。この作業に加わった警護者の一人は、のちにこう言って自慢した、とするにとどめよう。「皇妃の—をsqueeze したので自分は安らかに死ねる」(注83、「—」は原文ママとの記述あり(試訳者))。
--------
(03) この場所は、現地の農民には、一本の幹から成長した大きな四本の松の木があったことから、<四人兄弟>として知られていた。
Solokov がロマノフ家の遺体を見つけるために数ヶ月のあいだ掘ったのは、まさにこの場所だった。
彼は多くの物的資料を見つけた。—イコン、ペンダント、ベルト留め具、めがね、コルセット締め具。これらは全て、皇帝家族の一員の持ち物だと特定された。
切断された指も、見つかった。きつく嵌められていた指輪を取り除く際に切られた、皇妃のものだと考えられた(脚注)。
一組の入れ歯は、Botkin 博士のものだと識別された。
彼らは、イヌのJemmy を焼却する手間をかけなかった。その犬の腐敗した死体は、立て坑で見つかった。
皇妃が持っていた10カラットのダイヤモンドは、見逃すか偶然に落とすかした。これは夫からの贈り物で、草の中にあった。
----
(脚注) だが、ニコライのものである可能性もあった。Alexandra は7月4日に、全ての宝石類を渡せとするIurovskii の要求に関連させて、夫の婚約指輪は外れないだろう、と記していた。
--------
(04) しかしながら、犠牲者の遺体はどこにも見つからなかった。そして、長年にわたって、皇帝家族の何人か、またはほとんどですら、虐殺を免れて生き残っているのではないか、という推測を生むことになった。
この謎が解消されたのは、〔1989年に〕Iurovskii の回想録が出版されることによってだった。この書物はまた、遺体は一時的にのみ「四人兄弟」に埋められた、ということを明らかにした。
--------
(05) Iurovskii は、「四人兄弟」鉱床は深さが浅すぎて墓場を隠すことができない、と考えた。
彼は調査するために中心部に帰り、モスクワへと至る道の途中にもっと深い鉱床が存在することを知った。
すみやかに、大量の灯油と硫酸を携えて戻った。
7月18日の夜、付近の道路を閉鎖したあと、Iurovskii の部隊は、チェカの派遣部隊に助けられて、遺体を掘り出し、トラックに乗せた。
彼らはモスクワ街道を進んだが、トラックが途中で泥に嵌まって動かなくなった。
埋葬が、近くの浅い墓場で行なわれた。
犠牲者たちの顔と身体に硫酸が注がれ、墓場は土と小枝で覆われた。
その埋葬場所は、1989年まで知られないままだった。
————
第11節、終わり。



























































