Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
「第17章・皇帝家族の殺害」の試訳のつづき。
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第九節/殺害(1)。
最近まで、1918年7月16-17日の夜にIpatev 邸で起きた血の事件については、ほとんど全部が、Solokov 委員会が集めた証拠資料にもとづいていた。
ボルシェヴィキは7月25日に、Ekaterinburg をチェコ軍団に明け渡した。
チェコ人とともにEkaterinburg に入ったロシア人は、急いでIpatev 邸へと向かった。そこには誰もおらず、乱雑なままだった。
7月30日、皇帝家族の運命を決定するために調査が始まった。しかし、調査者たちが真剣な努力をしないままで、貴重な数ヶ月が経った。
翌1919年1月、Kolchak 提督は、調査を指揮させるべくM. K. Diterikhs 将軍を任命した。だが、Diterikhs には必要な資質がなく、2月に、シベリアの法律家であるNicholas Solokov と交替させられた。
その後2年間、Solokov は揺るぎない決意でもって、全ての目撃証人や全ての資料上の手がかりを追い求めた。
1920年にロシアから逃亡することを余儀なくされたとき、彼は、調査の諸記録を携帯して持ち出した。
この諸資料とそれらによって彼が書いた論文は、Ekaterinburg の悲劇に関する第一の証拠資料を提供している(脚注1)。
最近にIurovskii の回想録が出版された。これは、警護者たちの主任だったP. Medvedev や、Solokov が尋問した追加的な証人の宣誓供述書を、補足し、拡充している。
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(脚注1) Solokov 委員会の調査記録の複写文書—タイプ打ちの7フォルダ—は、Harvard のHughton 図書館の預託物だ。これらは最初は、Solokov に同行した、ロンドンの<The Times>紙の特派員のRobert Wilton が所有していた。そのうち三つある原本の運命は、Ross, Gibel’, p.13-17 で論じられている。Ekaterinburg 事件の追加的な証拠資料は、Diterikhs, Ubiistvo tsarskoi sem’i の中にある。
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第10節/殺害(2)①。
(01) 皇帝家族は、7月16日をふつうに過ごした。
Alexandra の日記の最後の書き込みによると、それは彼らが床に就いた午後11時頃のものだが、彼らには、何か異様なことが起こりそうだとの予感が全くなかった。
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(02) Iurovski は、一日じゅう忙しかった。
遺体を焼却して埋める場所を選別したあと—Koptiaki 村の近傍の放棄された鉱山跡—、Ipatev 邸の正門そばの垣根の中にFiat 製トラックが駐車できるよう調整した。
夕闇が迫る頃、Medvedev に対して、警護者が回転銃を取り外すよう求めた。
Medvedev は、Nagan タイプの回転銃—ロシアの将校への標準的な配布物で、各々7発撃つことができた—を12丁集め、指揮者の部屋へ持っていった。
午後6時、Iurovskii は、台所から料理人見習いのLeonid Sednev を呼び出し、家の外に出した。その際、この少年が叔父である侍従のIvan Sednev に会ことができるよう皇帝たちが心配している、と言った。
Iurovskii は嘘をついていた。叔父のSednev は数週間前にチェカによって射殺されていたからだ。
だが、そうであっても、これはこの時期での彼の唯一の人間的行為だった。この少年の生命は、救われた。
午後10時頃、Medvedev に対して、警護者にロマノフはその夜に処刑される、射撃音を聞いても驚くな、と伝えるよう言った。
深夜に着く予定のトラックが、一時間半遅れた。それで、処刑も遅れた。
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(03) Iurovskii は午前1時半にBotkin 博士の目を醒させ、他の者を起こすよう求めた。
市内で騒擾が発生している、皇帝家族の安全のために低層階に移動する必要がある、と説明した。
この説明は、納得させるものであったに違いない。Ipatev 邸の居住者たちは、街路からの射撃音をしばしば聞いていたからだ。前の日にAlexandra は、夜間に一台の大砲や数丁の回転銃の発射音を聞いた、と記していた(脚注2)。
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(脚注2) いくつかの説明によると、皇帝家族はIpatev 邸から安全な場所へ移動させられる、と言われていた。しかし、この説明は、彼らは一緒に持っていっただろう物品が全くないまま部屋を離れたという事実と矛盾している。物品の中には、Alexandra が旅行中に決して離さなかったイコン(ikon)も含まれている。Doterikhs, Ubiistvo, I, p.25.
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11人の囚人たちが洗面し、衣服を着るのには、30分かかった。
午前2時頃、彼らは階段を降りた。
Iurovskii が、先頭になって導いた。
つぎに続いたのは、腕にAlexis を抱いたニコライだった。二人とも軍用服と帽子を着用していた。
ついで、皇妃と娘たちが続いた。Anastasia はKing Charles spaniel 犬のJeremy と一緒だった。そのあとは、Botkin 博士。
Demidova は、二個の枕を運んだ。その一つには、宝石箱が隠されていた(注76)。
彼女の後ろは従者のTrup、料理人のKharitonov だった。
皇帝家族は知らなかったが、10人の処刑部隊—そのうち6人はハンガリー人、残りはロシア人—が、隣の部屋にいた。
Medvedev によると、家族は「危険を予期していないかのごとく、静かだと見えた」
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(04) 皇帝家族らの行列は内部階段の最後で中庭に入り込み、左に曲がって低層階へと降りた。
彼らは、家の反対の端へと連れていかれた。そこは以前は警護者たちが占めていた部屋で、5メートルの幅、6メートルの奥行きがあった。その部屋からは、全ての家具が除去されていた。
窓が一つあった。半月の形をし、外壁の高いところにあり、格子の柵が付いていた。そして、開いたドアが一つだけあった。
反対側に第二のドアがあって、収納空間につづいていたが、鍵がかかっていた。
その部屋は、袋小路にあった。
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(05) Alexandra は、なぜ椅子がないのか、と不思議に思った。
Iurovskii は、いつも親切であるように、二個の椅子を持ち込むよう命令した。その一つにニコライがAlexis を座らせ、もう一つにAlexandra が座った。
残りの者たちは、並ぶよう言われた。
数分後、10人の武装部隊と一緒に、Iurovskii が再び部屋に入ってきた。
つづく光景を、彼はこう叙述した。
「一同が入ったとき、私はロマノフたちに、彼らの親戚がロシアに反抗する攻撃を続けていることを考慮して、Ural のソヴェトは彼らを射殺する決定を下した、と告げた。
ニコライは、部隊に背を向けて、家族と向かい合った。
そして、まるで気を取り直したように、身体を向き直して、「何?」、「何?」と尋ねた。
私は急いで自分が言ったことを繰り返し、部隊に対して、準備するよう命じた。
その一員たちは、射撃する者があらかじめ指定され、血が大量に溢れるのを避け、また迅速に死に至らしめるために、直接に心臓を狙うよう指示されていた。
ニコライはもう何も言わなかった。
彼はもう一度、家族に向かい合った。
他の者たちは、取り乱して、抗議の叫びを発した。
それが、数秒間だけ続いた。
そして、射撃が始まり、二、三分つづいた。
私はその場で、ニコライを殺した。」(注77)
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(06) 皇妃Alexandra と彼女の娘の一人には辛うじて十字を切る時間があったことが、目撃証人によって知られている。彼女らも、すぐに死んだ。
部隊の全員が回転銃の予備銃弾を空にしたほどの、激しい射撃だった。Iurovskii によると、銃弾は壁から床へとはね返り、霰のように部屋じゅうを跳んだ。
少女たちは、絶叫した。銃弾を浴びて、Alexis は椅子から落ちた。
Kharitonov 〔料理人〕は「座り込んで、死んだ」。
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第10節②へとつづく。
「第17章・皇帝家族の殺害」の試訳のつづき。
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第九節/殺害(1)。
最近まで、1918年7月16-17日の夜にIpatev 邸で起きた血の事件については、ほとんど全部が、Solokov 委員会が集めた証拠資料にもとづいていた。
ボルシェヴィキは7月25日に、Ekaterinburg をチェコ軍団に明け渡した。
チェコ人とともにEkaterinburg に入ったロシア人は、急いでIpatev 邸へと向かった。そこには誰もおらず、乱雑なままだった。
7月30日、皇帝家族の運命を決定するために調査が始まった。しかし、調査者たちが真剣な努力をしないままで、貴重な数ヶ月が経った。
翌1919年1月、Kolchak 提督は、調査を指揮させるべくM. K. Diterikhs 将軍を任命した。だが、Diterikhs には必要な資質がなく、2月に、シベリアの法律家であるNicholas Solokov と交替させられた。
その後2年間、Solokov は揺るぎない決意でもって、全ての目撃証人や全ての資料上の手がかりを追い求めた。
1920年にロシアから逃亡することを余儀なくされたとき、彼は、調査の諸記録を携帯して持ち出した。
この諸資料とそれらによって彼が書いた論文は、Ekaterinburg の悲劇に関する第一の証拠資料を提供している(脚注1)。
最近にIurovskii の回想録が出版された。これは、警護者たちの主任だったP. Medvedev や、Solokov が尋問した追加的な証人の宣誓供述書を、補足し、拡充している。
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(脚注1) Solokov 委員会の調査記録の複写文書—タイプ打ちの7フォルダ—は、Harvard のHughton 図書館の預託物だ。これらは最初は、Solokov に同行した、ロンドンの<The Times>紙の特派員のRobert Wilton が所有していた。そのうち三つある原本の運命は、Ross, Gibel’, p.13-17 で論じられている。Ekaterinburg 事件の追加的な証拠資料は、Diterikhs, Ubiistvo tsarskoi sem’i の中にある。
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第10節/殺害(2)①。
(01) 皇帝家族は、7月16日をふつうに過ごした。
Alexandra の日記の最後の書き込みによると、それは彼らが床に就いた午後11時頃のものだが、彼らには、何か異様なことが起こりそうだとの予感が全くなかった。
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(02) Iurovski は、一日じゅう忙しかった。
遺体を焼却して埋める場所を選別したあと—Koptiaki 村の近傍の放棄された鉱山跡—、Ipatev 邸の正門そばの垣根の中にFiat 製トラックが駐車できるよう調整した。
夕闇が迫る頃、Medvedev に対して、警護者が回転銃を取り外すよう求めた。
Medvedev は、Nagan タイプの回転銃—ロシアの将校への標準的な配布物で、各々7発撃つことができた—を12丁集め、指揮者の部屋へ持っていった。
午後6時、Iurovskii は、台所から料理人見習いのLeonid Sednev を呼び出し、家の外に出した。その際、この少年が叔父である侍従のIvan Sednev に会ことができるよう皇帝たちが心配している、と言った。
Iurovskii は嘘をついていた。叔父のSednev は数週間前にチェカによって射殺されていたからだ。
だが、そうであっても、これはこの時期での彼の唯一の人間的行為だった。この少年の生命は、救われた。
午後10時頃、Medvedev に対して、警護者にロマノフはその夜に処刑される、射撃音を聞いても驚くな、と伝えるよう言った。
深夜に着く予定のトラックが、一時間半遅れた。それで、処刑も遅れた。
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(03) Iurovskii は午前1時半にBotkin 博士の目を醒させ、他の者を起こすよう求めた。
市内で騒擾が発生している、皇帝家族の安全のために低層階に移動する必要がある、と説明した。
この説明は、納得させるものであったに違いない。Ipatev 邸の居住者たちは、街路からの射撃音をしばしば聞いていたからだ。前の日にAlexandra は、夜間に一台の大砲や数丁の回転銃の発射音を聞いた、と記していた(脚注2)。
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(脚注2) いくつかの説明によると、皇帝家族はIpatev 邸から安全な場所へ移動させられる、と言われていた。しかし、この説明は、彼らは一緒に持っていっただろう物品が全くないまま部屋を離れたという事実と矛盾している。物品の中には、Alexandra が旅行中に決して離さなかったイコン(ikon)も含まれている。Doterikhs, Ubiistvo, I, p.25.
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11人の囚人たちが洗面し、衣服を着るのには、30分かかった。
午前2時頃、彼らは階段を降りた。
Iurovskii が、先頭になって導いた。
つぎに続いたのは、腕にAlexis を抱いたニコライだった。二人とも軍用服と帽子を着用していた。
ついで、皇妃と娘たちが続いた。Anastasia はKing Charles spaniel 犬のJeremy と一緒だった。そのあとは、Botkin 博士。
Demidova は、二個の枕を運んだ。その一つには、宝石箱が隠されていた(注76)。
彼女の後ろは従者のTrup、料理人のKharitonov だった。
皇帝家族は知らなかったが、10人の処刑部隊—そのうち6人はハンガリー人、残りはロシア人—が、隣の部屋にいた。
Medvedev によると、家族は「危険を予期していないかのごとく、静かだと見えた」
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(04) 皇帝家族らの行列は内部階段の最後で中庭に入り込み、左に曲がって低層階へと降りた。
彼らは、家の反対の端へと連れていかれた。そこは以前は警護者たちが占めていた部屋で、5メートルの幅、6メートルの奥行きがあった。その部屋からは、全ての家具が除去されていた。
窓が一つあった。半月の形をし、外壁の高いところにあり、格子の柵が付いていた。そして、開いたドアが一つだけあった。
反対側に第二のドアがあって、収納空間につづいていたが、鍵がかかっていた。
その部屋は、袋小路にあった。
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(05) Alexandra は、なぜ椅子がないのか、と不思議に思った。
Iurovskii は、いつも親切であるように、二個の椅子を持ち込むよう命令した。その一つにニコライがAlexis を座らせ、もう一つにAlexandra が座った。
残りの者たちは、並ぶよう言われた。
数分後、10人の武装部隊と一緒に、Iurovskii が再び部屋に入ってきた。
つづく光景を、彼はこう叙述した。
「一同が入ったとき、私はロマノフたちに、彼らの親戚がロシアに反抗する攻撃を続けていることを考慮して、Ural のソヴェトは彼らを射殺する決定を下した、と告げた。
ニコライは、部隊に背を向けて、家族と向かい合った。
そして、まるで気を取り直したように、身体を向き直して、「何?」、「何?」と尋ねた。
私は急いで自分が言ったことを繰り返し、部隊に対して、準備するよう命じた。
その一員たちは、射撃する者があらかじめ指定され、血が大量に溢れるのを避け、また迅速に死に至らしめるために、直接に心臓を狙うよう指示されていた。
ニコライはもう何も言わなかった。
彼はもう一度、家族に向かい合った。
他の者たちは、取り乱して、抗議の叫びを発した。
それが、数秒間だけ続いた。
そして、射撃が始まり、二、三分つづいた。
私はその場で、ニコライを殺した。」(注77)
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(06) 皇妃Alexandra と彼女の娘の一人には辛うじて十字を切る時間があったことが、目撃証人によって知られている。彼女らも、すぐに死んだ。
部隊の全員が回転銃の予備銃弾を空にしたほどの、激しい射撃だった。Iurovskii によると、銃弾は壁から床へとはね返り、霰のように部屋じゅうを跳んだ。
少女たちは、絶叫した。銃弾を浴びて、Alexis は椅子から落ちた。
Kharitonov 〔料理人〕は「座り込んで、死んだ」。
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第10節②へとつづく。



























































