Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
「第17章・皇帝家族の殺害」の試訳のつづき。
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第八節/モスクワによる殺害決定とチェカ②。
(07) Iurovskii がIpatev 邸に責任をもったあと最初にしたのは、警護者による窃盗をやめさせることだった。
窃盗は、安全確保の観点からして危険だった。窃盗をする警護者は、チェカの連絡網の外で、囚人たちへの、および彼らからの文書を運ぶよう、さらには彼らが逃亡するのを助けるようにすら、贈賄されることがあり得た。
職務の最初の日に、彼は、皇帝家族が所有している貴重品を全て提出させた(彼は知らなかった、女性たちが下着の中に縫い込んだものを除く)。
彼は目録を作成したあとで、宝石類を封印された箱の中に入れ、家族がそれを持ちつづけるのを許した。但し、毎日、点検した。
Iurovskii はまた、家族の荷物が保管されている物置に鍵を付けた。
つねに他人を良いように考える性格のニコライは、こうした措置は家族のために行なわれた、と信じた。
「(Iurovskii と助手たちは)我々の家で起きた不愉快な出来事について説明した。彼らは我々の持ち物の紛失に言及した。…
Avdeev には部下たちが物置のトランクからという窃盗するのを阻止できなかったという責任があることについて、彼に気の毒だった。…
Iurovskii と助手たちは、どのような種類の者たちが我々を囲んで警護し、窃盗をしているかを、理解し始めた。」(脚注1)
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(脚注1) Alexandra の日記によると、Iurovskii は7月6日に、窃盗された時計をニコライに返却した。
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(08) Alexandra の日記によって、7月4日に内部警護者が新しい要員と交替したことが確認される。
ニコライは、新しい彼らはラトビア人だと思った。また、警護者の班長も、Solokovの尋問に対して同じように答えた。
しかし、当時は「ラトビア人」という言葉は、緩やかに親共産党の全ての外国人を指していた。
Solokov は、Iurovskii が新しい要員の10人のうち5人とドイツ語で話した、ということを知った(注69)。
彼らが戦争捕虜のハンガリー人だったことに、ほとんど疑いはない。ある者はMagyars (マジャール人)で、ある者はマジャール化したドイツ人だった(脚注2)。
彼らは、チェカ本部から移って来て、American ホテルに居住した(注70)。
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(脚注2) Sokolov は、Ipatev 邸の壁にハンガリー語での言葉があるのに気づいた。「Verhas Andras 1918 VII/15e—örsegen」(Andras Verhas 1918年7月15日—警護者)。Houghton Archive, Harvard Uni., Sokolov File, Box 3.
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(09) これは、処刑部隊だった。
Iurovskii は、彼らに低層階を割り当てた。
彼自身はIpatev 邸に引っ越さず、妻、母親、二人の子どもたちと一緒に住むのを選んだ。
指揮官の部屋へは、彼の助手のGrigorii Petrovich Nikulin が入った。
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(10) 7月7日、レーニンはEkaterinburg に指示して、Ural 地方ソヴェトの議長のBeloborodov にクレムリンと直接に電信連絡をすることを認めた。
「事態の異常な重要性にかんがみて」そのような連絡方法をとることについての、Belonorodov の6月28日の要請に対して、レーニンが行なった反応だった(注71)。
Ekaterinburg がチェコ軍団の手に落ちた7月25日まで、軍事問題およびロマノフ家の運命に関するその市とクレムリンとの間の全ての連絡は、この電信の方法で、しばしば暗号を用いて、行なわれた。
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(11) Goloshchekin は、殺害のための保障を得て、7月12日にモスクワから帰った。
その同じ日、彼はソヴェト執行委員会に対して、「ロマノフ家の処刑に関する中央当局の態度」に関して報告した。
彼は、モスクワはもともとは前皇帝を審判にかけるつもりだったが、戦線の場所が近接していることを考慮して、これを実行することをやめた、そしてロマノフ家は処刑されるものとすると決めた、と言った(注72)。
ソヴェト執行委員会は、モスクワの決定に対してゴム印を捺した(注73)。
今では、その後と同じく、Ekaterinburg が処刑についての責任を引き受けた。皇帝家族がチェコ軍団の手に落ちるのを阻止するための非常措置だ、と見せかけることによって(脚注3)。
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(脚注3) Iurovskii は、1920年に書かれ、だがようやく1989年に公にされた回想録で、ロマノフ家の「絶滅」(extermination, istreblenie)に対する暗号の命令を7月16日にPerm から受けた、と語った。Perm は、モスクワがUral 地方の通信センターとして用いた州都だった。彼によると、最終的な処刑命令は、同じ日の午後5時にGoloshchekin によって署名された。Ogonek, No.21(1989), p.30.
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(12) 翌日の7月15日、Iurovskii の姿が、Ekaterinburg の北にある森で見られた。
彼は、遺体を処理する場所を探していた。
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(13) 皇帝家族は、何も疑っていなかった。Iurovskii は厳格な手順を維持しており、細心な態度で、皇帝家族の信頼すら獲得していた。
ニコライは、6月25日/7月8日にこう書いた。「我々の生活は、Iurovskii のもとで、いかなる点でも変わらなかった」。
実際に、いくつかの点では、彼らの生活は良くなった。今では修道女から全ての物を提供されていたからだ。但し、その一部はAvdeev の警護者によって盗まれた。
7月2日、作業員が唯一の空いた窓に鉄柵を取り付けた。これもまた、皇帝家族は異様だと感じなかった。Alexandra は、「いつものように、昇ることに疑問はなかったし、見張り番と接触することもそうだった」と記した。
今ではチェカはニセの逃亡計画を放棄していたが、Iurovskii は、本当に逃亡する機会を与えなくなかった。
7月14日日曜日、彼は、聖職者が来てミサの儀式を行なうのを許した。
聖職者が去るとき、彼は、皇女の一人が「ありがとう」とつぶやくのを聞いた(注74)。
7月15日、若干の医学的知識をもっていたIurovskii は、寝たきりのAlexis と、彼の健康について議論しながら、時間を過ごした。
彼はその翌日に、Alexis に卵を持って来た。
7月16日、二人の女性が清掃するためにやって来た。
彼女たちはSokolov に、家族は健全な精神状態にあると思えた、皇女たちはベッドを整えるのを手伝った際に笑った、と語った。
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(14) この頃ずっと、皇帝家族はまだ、救出者から連絡が来るのを望んでいた。
ニコライの、6月30日/7月13日付の、日記への最後の記入はこうだった。
「我々には、外部からの報せがない」。
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第八節、終わり。
「第17章・皇帝家族の殺害」の試訳のつづき。
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第八節/モスクワによる殺害決定とチェカ②。
(07) Iurovskii がIpatev 邸に責任をもったあと最初にしたのは、警護者による窃盗をやめさせることだった。
窃盗は、安全確保の観点からして危険だった。窃盗をする警護者は、チェカの連絡網の外で、囚人たちへの、および彼らからの文書を運ぶよう、さらには彼らが逃亡するのを助けるようにすら、贈賄されることがあり得た。
職務の最初の日に、彼は、皇帝家族が所有している貴重品を全て提出させた(彼は知らなかった、女性たちが下着の中に縫い込んだものを除く)。
彼は目録を作成したあとで、宝石類を封印された箱の中に入れ、家族がそれを持ちつづけるのを許した。但し、毎日、点検した。
Iurovskii はまた、家族の荷物が保管されている物置に鍵を付けた。
つねに他人を良いように考える性格のニコライは、こうした措置は家族のために行なわれた、と信じた。
「(Iurovskii と助手たちは)我々の家で起きた不愉快な出来事について説明した。彼らは我々の持ち物の紛失に言及した。…
Avdeev には部下たちが物置のトランクからという窃盗するのを阻止できなかったという責任があることについて、彼に気の毒だった。…
Iurovskii と助手たちは、どのような種類の者たちが我々を囲んで警護し、窃盗をしているかを、理解し始めた。」(脚注1)
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(脚注1) Alexandra の日記によると、Iurovskii は7月6日に、窃盗された時計をニコライに返却した。
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(08) Alexandra の日記によって、7月4日に内部警護者が新しい要員と交替したことが確認される。
ニコライは、新しい彼らはラトビア人だと思った。また、警護者の班長も、Solokovの尋問に対して同じように答えた。
しかし、当時は「ラトビア人」という言葉は、緩やかに親共産党の全ての外国人を指していた。
Solokov は、Iurovskii が新しい要員の10人のうち5人とドイツ語で話した、ということを知った(注69)。
彼らが戦争捕虜のハンガリー人だったことに、ほとんど疑いはない。ある者はMagyars (マジャール人)で、ある者はマジャール化したドイツ人だった(脚注2)。
彼らは、チェカ本部から移って来て、American ホテルに居住した(注70)。
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(脚注2) Sokolov は、Ipatev 邸の壁にハンガリー語での言葉があるのに気づいた。「Verhas Andras 1918 VII/15e—örsegen」(Andras Verhas 1918年7月15日—警護者)。Houghton Archive, Harvard Uni., Sokolov File, Box 3.
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(09) これは、処刑部隊だった。
Iurovskii は、彼らに低層階を割り当てた。
彼自身はIpatev 邸に引っ越さず、妻、母親、二人の子どもたちと一緒に住むのを選んだ。
指揮官の部屋へは、彼の助手のGrigorii Petrovich Nikulin が入った。
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(10) 7月7日、レーニンはEkaterinburg に指示して、Ural 地方ソヴェトの議長のBeloborodov にクレムリンと直接に電信連絡をすることを認めた。
「事態の異常な重要性にかんがみて」そのような連絡方法をとることについての、Belonorodov の6月28日の要請に対して、レーニンが行なった反応だった(注71)。
Ekaterinburg がチェコ軍団の手に落ちた7月25日まで、軍事問題およびロマノフ家の運命に関するその市とクレムリンとの間の全ての連絡は、この電信の方法で、しばしば暗号を用いて、行なわれた。
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(11) Goloshchekin は、殺害のための保障を得て、7月12日にモスクワから帰った。
その同じ日、彼はソヴェト執行委員会に対して、「ロマノフ家の処刑に関する中央当局の態度」に関して報告した。
彼は、モスクワはもともとは前皇帝を審判にかけるつもりだったが、戦線の場所が近接していることを考慮して、これを実行することをやめた、そしてロマノフ家は処刑されるものとすると決めた、と言った(注72)。
ソヴェト執行委員会は、モスクワの決定に対してゴム印を捺した(注73)。
今では、その後と同じく、Ekaterinburg が処刑についての責任を引き受けた。皇帝家族がチェコ軍団の手に落ちるのを阻止するための非常措置だ、と見せかけることによって(脚注3)。
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(脚注3) Iurovskii は、1920年に書かれ、だがようやく1989年に公にされた回想録で、ロマノフ家の「絶滅」(extermination, istreblenie)に対する暗号の命令を7月16日にPerm から受けた、と語った。Perm は、モスクワがUral 地方の通信センターとして用いた州都だった。彼によると、最終的な処刑命令は、同じ日の午後5時にGoloshchekin によって署名された。Ogonek, No.21(1989), p.30.
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(12) 翌日の7月15日、Iurovskii の姿が、Ekaterinburg の北にある森で見られた。
彼は、遺体を処理する場所を探していた。
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(13) 皇帝家族は、何も疑っていなかった。Iurovskii は厳格な手順を維持しており、細心な態度で、皇帝家族の信頼すら獲得していた。
ニコライは、6月25日/7月8日にこう書いた。「我々の生活は、Iurovskii のもとで、いかなる点でも変わらなかった」。
実際に、いくつかの点では、彼らの生活は良くなった。今では修道女から全ての物を提供されていたからだ。但し、その一部はAvdeev の警護者によって盗まれた。
7月2日、作業員が唯一の空いた窓に鉄柵を取り付けた。これもまた、皇帝家族は異様だと感じなかった。Alexandra は、「いつものように、昇ることに疑問はなかったし、見張り番と接触することもそうだった」と記した。
今ではチェカはニセの逃亡計画を放棄していたが、Iurovskii は、本当に逃亡する機会を与えなくなかった。
7月14日日曜日、彼は、聖職者が来てミサの儀式を行なうのを許した。
聖職者が去るとき、彼は、皇女の一人が「ありがとう」とつぶやくのを聞いた(注74)。
7月15日、若干の医学的知識をもっていたIurovskii は、寝たきりのAlexis と、彼の健康について議論しながら、時間を過ごした。
彼はその翌日に、Alexis に卵を持って来た。
7月16日、二人の女性が清掃するためにやって来た。
彼女たちはSokolov に、家族は健全な精神状態にあると思えた、皇女たちはベッドを整えるのを手伝った際に笑った、と語った。
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(14) この頃ずっと、皇帝家族はまだ、救出者から連絡が来るのを望んでいた。
ニコライの、6月30日/7月13日付の、日記への最後の記入はこうだった。
「我々には、外部からの報せがない」。
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第八節、終わり。



























































