Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
「第17章・皇帝家族の殺害」の試訳のつづき。
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第七節/チェカによる救出作戦の捏造②。
(08) (1918年)6月22日、明らかにニコライの返書に反応して、作業員が皇帝夫妻の寝室の窓を点検した。
その翌日、作業員たちが喜んだことに、二重窓が外され、換気用窓枠が入れられていた。息苦しく熱い上層階に新鮮な空気を入れるためだった。
囚人たちは、外に寄り掛かるのを禁じられた。娘たちの一人が頭を外に出しすぎたとき、警護者の銃の火が噴いた。
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(09) 6月25日、第二の秘密の伝言が届き、三つめは6月26日に来た。
これらの手紙が皇帝家族に届いたことに争いがないのは、ニコライの日記による。彼は不用意にも6月14日(27日)の日付にこう書いた。
「我々は最近、次から次に、二通の手紙を受け取った。それらは、誰か献身的な者によって神隠しされる準備をするよう、我々に助言している!」
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(10) 第二の手紙は、心配しないよう説得していた。救出は何のリスクもなく実行される、と。
皇帝家族は数十人の武装警護者に囲まれていることを考えれば、かりに策略者が望むように捕囚者の気持ちを和らげることが許されたのだとしても、これは、驚くべき請け負いだった。
そしてこれは、その真正さに関するきわめて大きな疑問を生じさせる。
この手紙はこう述べた。窓の一つは壊されていることが「絶対に必要だ」と。—これは実際に、指揮者によって2日前に、そうなされた。
Alexis が歩けないことは「問題を複雑にした」が、「大きすぎる面倒ではなかった」。
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(11) ニコライはこの手紙に対して、6月25日に、ある程度のも長さの返書を書いた。
彼は手紙の発送者に対して、窓の一つが二日前に実際に空いた、と教えた。
皇帝家族だけではなくBotkin 博士や侍従たちも救出することが、絶対的要請だった。
「彼らが我々に負担をかけたくなく、彼らが我々に従った後で自発的に国外追放になって我々を残したくないと思うとすれば、我々は何と浅ましいことだろう」。
ニコライはまた、物置に保管している二つの箱の運命についても、関心を表明した。小さな箱はAF(Alexandra Fedorovna)No.9 と貼り紙され、大きな箱は「No.13 N. A.」と指定され(Nicholas Alexandrovich)、後者に「古い手紙と日記」が入っていた。
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(12) 第三の手紙は、追加の情報を求めていた。
差出人は、残念ながら、全員を救出するのは不可能かもしれない、と書いた。
その者は、6月30日までに「作戦行動の詳細な計画」を提供すると約束し、家族に対して、合図(これに関する叙述はなかった)に関して敏感になるよう指示した。合図を知るや否や、玄関に続くドアにバリケードを築き、彼らが何とか入手したロープを使って、空いている窓から下に降りることとされていた。
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(13) その夜(6月26-27日)、約束された救出の企てを予期して、Alexis は、両親の部屋へ移動した。
家族は、就寝しなかった。
ニコライは、「我々は不安な夜を過ごし、衣服を着けたままで徹夜した」と記した。
しかしながら、合図は来なかった。
「待つことと不確実さは、身を切られるように辛かった」。
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(14) 何が起きたことでチェカがその計画を放棄したのかを、決定することはできない。
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(15) つぎの夜、ニコライとAlexandra は、警護者の会話を偶然に聞いて、逃げようという考えを捨てた。
Alexandra は、6月28日にこう書いた。「我々はその夜に、部屋の下にいる見張り番の様子を聞いた。我々の窓をつねに監視せよ、と特別に言われていた。—我々の窓が開いていたので、再びきわめて疑い深くなった。」
このことは、ニコライにつぎの行動をさせた、と見られる。すなわち、誘拐されることに反対していないが逃亡する気持ちになっていないという趣旨の、本意ではない覚書を手紙の発送者に伝えること。
「<中略>(フランス語文。脚注に英語化されているので参照。)」(脚注)
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(脚注) 「我々は<逃亡>するのを望まないし、そうすることもできない。
力ずくで誘拐されることだけができる。我々をTobolsk から移したのは、実力だったように。
したがって、我々からの<いかなる積極的な援助も>あてにしてはいけない。
指揮官には多数の協力者がおり、彼らは頻繁に交替させられ、不安になっている。
彼らは我々捕囚者とその生活を注意深く警護している。それは我々には良いことだ。
我々は、彼らが我々を理由として被害を受けるのを望まないし、我々のために行動する君たちを理由としてそうなるのも望まない。
とりわけ、お願いだから、血を流すな。
君たち自身で、彼らに関する情報を取得せよ。
ハシゴなくして窓から下に降りるのは不可能だ。
降りた後でも、指揮者の部屋から我々の部屋の窓が開いているのが見えるため、大きな危険がまだある。低層階の機関砲は中庭から入ってくる者を狙える。
(削除印付き—だから、我々を誘拐しようという考えは捨てよ。)
もし我々を見守っているなら、君たちは、緊急の現実的な危険がある<場合には>、いつでも我々を救いに来ることができる。
外で何が起きているのか、我々は完璧に知らない。新聞も手紙も受け取っていない。
窓を開けることが許された後で、監視は強化され、頭を窓の外に出すことすら禁止された。そうすれば、顔に銃弾を受けるリスクがある。」
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(16) この段階で、見せかけだけの救出作戦は、頓挫した。
皇帝家族は、しかしなおも、四つめおよび最後の秘密連絡を受けた。それらの文書は、7月4日以降に書かれたはずだった。その日にAvdeev と交替した新しい指揮者に関する情報を求めるものだったからだ。
これらは、チェカによる粗雑な捏造文書だった。その文書は、皇帝家族に対し、友人の「DとT」—明らかにDolgorukii とTatishchev—はすでに「救出された」と保障していたが、実際には、二人は6月に処刑されていた。
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(17) こうした経験をしたあと、ニコライと子どもたちの外貌は変化した。Solokov〔委員会〕での目撃証人は彼に、皇帝家族は「疲れ果てて」いると見えた、と語った(注63)。
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第七節、終わり。
「第17章・皇帝家族の殺害」の試訳のつづき。
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第七節/チェカによる救出作戦の捏造②。
(08) (1918年)6月22日、明らかにニコライの返書に反応して、作業員が皇帝夫妻の寝室の窓を点検した。
その翌日、作業員たちが喜んだことに、二重窓が外され、換気用窓枠が入れられていた。息苦しく熱い上層階に新鮮な空気を入れるためだった。
囚人たちは、外に寄り掛かるのを禁じられた。娘たちの一人が頭を外に出しすぎたとき、警護者の銃の火が噴いた。
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(09) 6月25日、第二の秘密の伝言が届き、三つめは6月26日に来た。
これらの手紙が皇帝家族に届いたことに争いがないのは、ニコライの日記による。彼は不用意にも6月14日(27日)の日付にこう書いた。
「我々は最近、次から次に、二通の手紙を受け取った。それらは、誰か献身的な者によって神隠しされる準備をするよう、我々に助言している!」
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(10) 第二の手紙は、心配しないよう説得していた。救出は何のリスクもなく実行される、と。
皇帝家族は数十人の武装警護者に囲まれていることを考えれば、かりに策略者が望むように捕囚者の気持ちを和らげることが許されたのだとしても、これは、驚くべき請け負いだった。
そしてこれは、その真正さに関するきわめて大きな疑問を生じさせる。
この手紙はこう述べた。窓の一つは壊されていることが「絶対に必要だ」と。—これは実際に、指揮者によって2日前に、そうなされた。
Alexis が歩けないことは「問題を複雑にした」が、「大きすぎる面倒ではなかった」。
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(11) ニコライはこの手紙に対して、6月25日に、ある程度のも長さの返書を書いた。
彼は手紙の発送者に対して、窓の一つが二日前に実際に空いた、と教えた。
皇帝家族だけではなくBotkin 博士や侍従たちも救出することが、絶対的要請だった。
「彼らが我々に負担をかけたくなく、彼らが我々に従った後で自発的に国外追放になって我々を残したくないと思うとすれば、我々は何と浅ましいことだろう」。
ニコライはまた、物置に保管している二つの箱の運命についても、関心を表明した。小さな箱はAF(Alexandra Fedorovna)No.9 と貼り紙され、大きな箱は「No.13 N. A.」と指定され(Nicholas Alexandrovich)、後者に「古い手紙と日記」が入っていた。
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(12) 第三の手紙は、追加の情報を求めていた。
差出人は、残念ながら、全員を救出するのは不可能かもしれない、と書いた。
その者は、6月30日までに「作戦行動の詳細な計画」を提供すると約束し、家族に対して、合図(これに関する叙述はなかった)に関して敏感になるよう指示した。合図を知るや否や、玄関に続くドアにバリケードを築き、彼らが何とか入手したロープを使って、空いている窓から下に降りることとされていた。
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(13) その夜(6月26-27日)、約束された救出の企てを予期して、Alexis は、両親の部屋へ移動した。
家族は、就寝しなかった。
ニコライは、「我々は不安な夜を過ごし、衣服を着けたままで徹夜した」と記した。
しかしながら、合図は来なかった。
「待つことと不確実さは、身を切られるように辛かった」。
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(14) 何が起きたことでチェカがその計画を放棄したのかを、決定することはできない。
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(15) つぎの夜、ニコライとAlexandra は、警護者の会話を偶然に聞いて、逃げようという考えを捨てた。
Alexandra は、6月28日にこう書いた。「我々はその夜に、部屋の下にいる見張り番の様子を聞いた。我々の窓をつねに監視せよ、と特別に言われていた。—我々の窓が開いていたので、再びきわめて疑い深くなった。」
このことは、ニコライにつぎの行動をさせた、と見られる。すなわち、誘拐されることに反対していないが逃亡する気持ちになっていないという趣旨の、本意ではない覚書を手紙の発送者に伝えること。
「<中略>(フランス語文。脚注に英語化されているので参照。)」(脚注)
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(脚注) 「我々は<逃亡>するのを望まないし、そうすることもできない。
力ずくで誘拐されることだけができる。我々をTobolsk から移したのは、実力だったように。
したがって、我々からの<いかなる積極的な援助も>あてにしてはいけない。
指揮官には多数の協力者がおり、彼らは頻繁に交替させられ、不安になっている。
彼らは我々捕囚者とその生活を注意深く警護している。それは我々には良いことだ。
我々は、彼らが我々を理由として被害を受けるのを望まないし、我々のために行動する君たちを理由としてそうなるのも望まない。
とりわけ、お願いだから、血を流すな。
君たち自身で、彼らに関する情報を取得せよ。
ハシゴなくして窓から下に降りるのは不可能だ。
降りた後でも、指揮者の部屋から我々の部屋の窓が開いているのが見えるため、大きな危険がまだある。低層階の機関砲は中庭から入ってくる者を狙える。
(削除印付き—だから、我々を誘拐しようという考えは捨てよ。)
もし我々を見守っているなら、君たちは、緊急の現実的な危険がある<場合には>、いつでも我々を救いに来ることができる。
外で何が起きているのか、我々は完璧に知らない。新聞も手紙も受け取っていない。
窓を開けることが許された後で、監視は強化され、頭を窓の外に出すことすら禁止された。そうすれば、顔に銃弾を受けるリスクがある。」
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(16) この段階で、見せかけだけの救出作戦は、頓挫した。
皇帝家族は、しかしなおも、四つめおよび最後の秘密連絡を受けた。それらの文書は、7月4日以降に書かれたはずだった。その日にAvdeev と交替した新しい指揮者に関する情報を求めるものだったからだ。
これらは、チェカによる粗雑な捏造文書だった。その文書は、皇帝家族に対し、友人の「DとT」—明らかにDolgorukii とTatishchev—はすでに「救出された」と保障していたが、実際には、二人は6月に処刑されていた。
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(17) こうした経験をしたあと、ニコライと子どもたちの外貌は変化した。Solokov〔委員会〕での目撃証人は彼に、皇帝家族は「疲れ果てて」いると見えた、と語った(注63)。
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第七節、終わり。



























































