Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第17章・皇帝家族の殺害」の試訳のつづき。
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 第四節/ニコライとAlexandra のEkaterinburg への移送④。
 (18) Ekaterinburg は、その日の朝早くに、皇帝家族が乗る列車が走行中だと知らされた。
 その日の遅くにAvdeev からの電報によって、Iakovlev の策略についてだけ知った。
 〔Ekaterinburg〕ソヴェト幹部会は、Iakovlev は「革命に対する裏切り者」だと宣告し、彼を「法の外」に置いた。
 この趣旨の電報が、あらゆる方向へと発せられた(注37)。
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 (19) この情報を受けて、Iakovlev の列車がKulomzino 交差点に着く前に止めようと、Omsk は、軍事部隊を派遣した。その交差点で、列車は、西に方向を変え、Omsk を回避して、Cheliabinsk へ向かうことができた。
 自分の任務を誠実に履行していないと責任追及されていることを知って、Iakovlev は、Liubinskaia 駅で列車を止めさせた。
 モスクワと連絡をとろうと、機関車を切り離して第四の客車に乗ってOmsk へと進んだ。三つの客車は護衛たちに残してきた。
 このことが起きたのは、4月28-29日の夜間だった。
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 (20) Iakovlev のSverdlov との会話の内容は、Bykov による、きわめて怪しい二次的資料によってのみ知られている。
 「(Iakovlev は)Sverdlov を電話に呼び出し、旅程を変更せざるを得なかった状況を説明した。
 モスクワからは、ロマノフ家をEkaterinburg へ連れていき、Ural 地方ソヴェトへと引き渡せ、との提議(proposition, predlozhenie)があった。」(脚注1)(注38)
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 (脚注1) 文書記録を利用したある歴史家の最近の説明によると、Iakovlev はSverdlov と会話したが、後者はEkaterinburg に連絡し、おそらくは皇帝家族の安全の「保障」を要請した。Ekaterinburg は、囚人たちについて責任をもつことが許される、という条件のもとで、この保障を与えた、と言われている。Ioffe, Sovetskaia Rossiia, No.161/9,412(1987年7月12日), p.4.
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 この叙述は、ほとんど確実に、虚偽だ。三つの理由がある。
 第一に、Iakovlev は「旅程を変更」しておらず、Sverdlov が以前の会話のあいだに指示したのと同じように動いていた。
 第二に、全ロシア[ソヴェト]中央執行委員会の有力な議長とレーニンが信任している者は、より下位の活動家に対して「提議」しようとはせず、「命令」するだろう。
 第三に、かりにSverdlov が実際に、Iakovlev に対して皇帝家族をEkaterinburg ソヴェトに引き渡すことを望んでいたとすれば、翌日の、Iakovlev と現地ボルシェヴィキの間のEkaterinburg での激論は生じなかっただろう。
 最ももっともらしい説明は—推論にすぎないけれども—、こうだ。
 Sverdlov はIakovlev に対して、Ekaterinburg のソヴェトと論争を始めることを避けるように、また彼は前皇帝を誘拐しようとしているとの疑いに終止符を打つために、Ekaterinburg を経てモスクワへと進むように、言った。
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 (21) Sverdlov と会話したあとIakovlev は、鉄道運転者に対して、方向を逆にするよう命令した。
 夜に起きたこうした全てのあいだ、ニコライとその家族は眠っていた。
 4月29日の朝に目覚めて、ニコライは、列車が西へと走っていることに気づいた。このことは、モスクワへと移送されているとの従前の考えの正しさを確認するものだった。
 Alexandra は、Ialevkovから与えられた情報に依っていそうだが、日記にこう記した。「Omsk のソヴェトは我々をOmsk に通させようとはしない。我々を日本に連れていこうとする者がいるとすると、怖いものだ。」
 ニコライは、その日にこう書いた。「みんな、とても気分が良い」。
 こうして、彼らを苦しめる者の手によって外国に送られるという予想は嬉しいものではなかったけれども、ロシアのかつての都、今のボルシェヴィズムの主要な砦へと連れていかれることは、彼らの気分を高めた。
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 (22)  彼らは、Omsk とEkaterinburg の間の850キロを、ときどき停まりながら、一昼夜をかけて進んだ。
 平穏無事だった。
 Iakovlev は、前皇妃は痛ましいほど臆病で、車両に見知らぬ人がいなくなるまで何時間も洗面室へ行くのを待ち、廊下に誰もいないことを確認するまで座席にとどまった、と思い出す(注39)。
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 (23) 4月30日午前8時40分、列車はEkaterinburg 中央駅に入った。
 そこには多数の敵意に満ちた群衆が集まっていた。Iakovlev にその責任を熟考するよう圧力をかけるべく、この地域のボルシェヴィキによって集められていたようだ。
 列車がそこにあった3時間、乗客は離れることを禁止された。そして、その間の事態は、混乱に包まれていた。
 Iakovlev は、Ekaterinburg では安全でないという理由で、ニコライとAlexandra を引き渡すのを拒んだ、と思われる。
 ニコライの日記によると、こうだ。
 「我々は駅で3時間待った。大きな紛議が、この地の人民委員と我々の間で起きていた。前者が、最後には勝った。」
 ニコライは単純に、どの駅で降ろすかに関して論争が行なわれた、と考えた。正午の直後に、二級の商業車庫地である第二Ekaterinburg 駅へと列車が移行させられたからだ。
 Alexandra はより十分に分かっていて、日記にこう書いた。「Yakovlev は、Ural 地方ソヴェトへと我々を引き渡なければならなかった」。
 Iakovlev と現地の人民委員のあいだの対立は、実際には、一行をモスクワへと行かせるかどうか、に関してだった。
 Iakovlev は、おそらくはモスクワ〔政府・党中央〕が介入した後で、論争に敗れた。
 モスクワは、Ekaterinburg のボルシェヴィキたちと敵対したくなかった。そして、いずれにせよ、ロマノフ一族の扱い方について、確固たる方針がなかった。
 いつかの将来にある前皇帝の審判まで、安全にEkaterinburg に彼らをとどめておくことは、レーニンやSverdlov にとって、決して悪い妥協ではなかった、と十分に言えるだろう。
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 (24) 第二Ekaterinburg 駅に列車が入ると、Iskovlev は、Beloborodov にとっての罪人に変わった。彼から、この案件に関する責任から解除する、という手書きの文書を受け取ったのだ(注40)。
 Iakovlev は、おそらく群衆の暴力から皇帝家族を守るために、護衛を要求した(注41)。
 モスクワへと出発する前に、彼は、Ekaterinburg ソヴェトに自分の行動について説明しなければならなった。これは満足を得たようだ(注42)。
 モスクワにいる上司の目から見て彼は間違ったことを何らしなかった、ということは、つぎのことで示されている。すなわち、彼は一ヶ月のちにSamara の赤軍部隊の長に、さらに続いて、東部(Ural)戦線の第二赤軍の司令官に、任命された(脚注2)
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 (脚注2) A. P. Nena rokov, Vostochnyi front, 1918(Moscow, 1969), p.54, p.72, p.101. その年ののちに白軍へ走ったあと、彼はチェコの諜報機関に逮捕された。中国へと逃亡し、ソヴィエト同盟に戻り、逮捕された。Solobetskii の強制収容所でいくらかを過ごした後で釈放され、NKVD(ソ連内務人民委員部)のある収容所の司令官に任命された。しばらくのちに再逮捕され、処刑された。私はこうした情報を、ソヴィエトの作家、Vladimir Kashits 氏に負うている。
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 (25) 午後3時、ニコライ、Alexandra とMaria は、Beloborodov とAvdeev に付き添われて、二台の無蓋車で、市の中心まで連れていかれた。これらには、Alexandra が「完全武装」の兵士たちで満たされたと描写した、貨物自動車が従っていた。
 Avdeev によると(注43)、Beloborodov はニコライに対して、モスクワの〔全国ソヴェト〕中央執行委員会は、ニコライとその家族を来たるべき前皇帝の審判まで拘留すると命じた、と告げた。
 車は、大きい、漆喰で塗られたIpatev の邸宅で停まった。この家は、所有者が一日前に空けていた。そして、ボルシェヴィキが今では「特殊任務の家」と呼ぶ屋敷だった。
 皇帝とその家族は、ここから生きて出ることはできないことになる。
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 第四節の全体が、終わり。