Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
「第17章・皇帝家族の殺害」の試訳のつづき。
————
第四節/ニコライとAlexandra のEkaterinburg への移送③。
(10) 一行は予定どおり出発し、<tarantassy>(四輪馬車、シベリアでは<koshevy>として知られる)で進んだ。二頭または三頭の馬が牽引する、長い、バネのない四輪車だ。
35人の護衛たちが随行していた。
先頭にはライフルで武装した2人の男が乗り、2個の機関砲と2人のライフル武装者が乗る車が続いた。
その次が、ニコライと、前皇帝のそばに座ることにこだわったIakovlev を運ぶ<tarantass>だった。
その後ろが2人のライフル武装者、Alexandra とMaria が乗る四輪馬車で、それにさらにライフル武装者が続いた。
一行の中には、家族医師のEvgenii Botkin 博士、Court Martial のAlexander Dolgorukii 皇子と3人の侍従たちが、含まれていた。
Alexandra はお気に入りの娘のTatiana に、息子と2人の妹たちの世話を任せてきた。
Iakovlev は、川が氷結しなくなるとすぐに—二週間以内と予期された—、子どもたちは両親に加わることができる、と約束した。
彼は、最終目的地を秘密にしたままだった。前皇帝夫妻は、Tiumen に連れていかれている、ということだけ知っていた。そこは、230キロ離れた、最も近い鉄道路線の結節点だった。
--------
(11) Tiumen への道路は酷い状態だった。冬の後で轍がいっぱいで、部分的には汚泥がぬかるんでいた。
Tobolsk を出立してから4時間後、Irtysh 川の浅瀬を渡った。馬は、氷のような水に嵌まりつつ苦労して進んだ。
半分くらい進んだIevlenko で、彼らはTobol 川の中に入った。川の水が氷となって浮かんでいて、木の厚板に乗って歩いた。
Tiumen の直前で、Tura 川を横切った。一部は脚で、一部は小船で。
Iakovlev は、途上ずっと馬の中継を管理していた。交替しての中継の回数は、最小限に抑えられた。
ある地点でBotkin 博士が気分が悪くなり、回復してもらうために彼らは2時間、小休止した。
第一日の夕方、出立後16時間、Bochalino に到着した。そこで、夜を過ごすための調整が行なわれた。
Alexandra は、休憩する前に、こう書き留めた。
「Marie は四輪馬車に。ニコライは人民委員Yakoblev と一緒に。
寒く、暗く、風が強い。馬を替えたあと8時にIrtish 川を渡り、12時にある集落に着いて、冷たい提供物と一緒に茶を飲んだ。
道路は完璧に酷かった。凍った地面、泥、雪、馬の胃に入る水。恐ろしく揺れて、身体じゅうが痛い。
4回めの馬の取替えの後で、車体にあるポールがなくなった。それで、別の車によじ登って乗り込まなければならなかった。
5回めの馬替え…。
8時にYeblenko に着いた。以前は村の店だった家で夜を過ごした。
一つの部屋で3人で寝た。我々はベッドで、Marie は床の上のマットレスで。…
Tiumen からどこへ行くのか、誰も言わない。モスクワだと想像している者もいる。
川が通れあの子が元気なら、すぐに子どもたちは我々と同行することになっている。」(30)
Iakovlev は途中で、Alexandra に子どもたちに手紙を投函することや電報を打つことを許した。
停まったある所で、農民が近づいてきて、ニコライはどこに連れていかれるのかと尋ねた。
モスクワだと答えられたとき、その農民は、「王に栄光あれ。…モスクワへ。今やここロシアにもう一度秩序が生まれる」と反応した(注31)。
--------
(12) 一行に随行する護衛たちは、Iakovlev が丁重に前皇帝と接しているために、ますます彼への疑念を募らせた。
彼らは、なぜニコライが上機嫌であるのかを理解できず、Iakovlev は東部シベリアへ、あるいは日本にすらへとニコライを神隠ししようとしているのでないかと、不思議に思い始めた。
彼らは、途中に配置されていた巡視者を通じて、Ekaterinburg に対する懸念を伝えた。
--------
(13) 4月27日午前4時、事件もなく一晩が過ぎて—予期された待ち伏せ攻撃は実行されなかった—、旅が再開した。
一行は正午に、Pokrovskoe で停まった。
シベリアに数千とある中のこの村は、Rasputin の故郷だった。
Alexandra は、こう記した。「旧友の家の前で長くとどまった。窓から外を見ている彼の家族や友人を見た」。
--------
(14) Iakovlev によれば、ニコライは運動と新鮮な空気で元気になっているように見えたが、Alexandra は「寡黙で、誰にも話しかけず、誇り高く、接近し難いように振る舞った」(注32)。だが、二人とも、彼にはきわめて印象的だった。
彼はのちに、ある報道記者にこう語った。「この人たちの謙虚さに感心した。何も不平を言わなかった。」(注33)
--------
(15) 混乱している証拠資料から決定できるかぎりでだが、Iakovlev は、できるだけ早くEkaterinburg に着き、そこを早く後にして、モスクワへ向かうことを意図していた。
しかし、彼は、Ekaterinburg を通って安全に彼の責任を履行できるかについて、いっそう不安になった。
つぎのことを知ったならば、さらにいっそう警戒しただろう。彼の一行が後半の歩みを始めていた頃、Ekaterinburg ソヴェトからの人民委員が技師のNicholas Ipatev の家にやって来て、Ipatev の家はソヴェトの必要のために収用される、48時間以内に退去せよ、と伝えた(注34)。その家は、Voznesenskii 大通りとVoz-nesen 通りの角にあった。
Ekaterinburg は、ロマノフ一族について、自分たちの案をもっていた。
--------
(16) Iakovlev の一行は、4月27日午後9時に、Tiumen に着いた。
そこでただちに、騎兵部隊に囲まれた。騎兵部隊は鉄道駅まで随行した。駅には、一台の機関車と四台の乗客車が待っていた。
Iakovlev は、皇帝家族、職員たち、持ち物の移動を監視した。
そのときにNemtsov が現われ、ロマノフ家関係者が眠りに就いているとき、二人の人民委員は電信局へ向かった。
Hughes 装置を使って、Iakovlev はSverdlov に対して、現地のボルシェヴィキの意図に関する懸念を伝え、皇帝家族をUfa 地方の安全な場所に移動させることの許可を求めた。
5時間の会話の末、Sverdlov はこの提案を拒否した。
しかしながら、Sverdlov は、Iakovlev が直接にではなくEkaterinburg を通って移動することには同意した。但し、Tobolsk へ同じその月に彼が通ったのと同じ遠回りの—つまり、Omsk、Chelia binsk 、Samara を通る—行路によってだった。
Iakovlev は、彼の計画を隠すために、駅長に対して、列車をEkaterinburg の方向へ向かわせ、次の駅で新しい機関車を付け、方向を転換させて、全速力でTiumen を通過してOmsk の方向へ走らせるよう、指令した(注35)。
4月28日、日曜日の午前4時半、皇帝家族を乗せた列車はEkaterinburg へと向かい、そして方向を転換させた。
Iakovlev は、説明として、Zaslavskii の同僚のAvdeev に対して、Ekaterinburg は列車を突然に攻撃するつもりだ、との情報を得ている、と伝えた(注36)。
--------
(17) 朝に目覚めたとき、ニコライは、列車が東に向かって走っていることに、驚きをもって気づいた。
彼は、日記にこう書いて不思議がった。「Omsk の後で、どこへ連れていくつもりなのか? モスクワへ、それともVladivostok へ?」(脚注)
Iakovlev は、言おうとしなかった。
Maria は護衛たちとの会話を始めたが、彼女の美しさと魅力をもってしても、彼らから何かを引き出すことができなかった。
彼らもまた、知らなかったのだろう。
----
(脚注) 1918年のニコライの日記は、以下。KA, No.1/26(1928), p.110-p.137.
————
第四節④へとつづく。
「第17章・皇帝家族の殺害」の試訳のつづき。
————
第四節/ニコライとAlexandra のEkaterinburg への移送③。
(10) 一行は予定どおり出発し、<tarantassy>(四輪馬車、シベリアでは<koshevy>として知られる)で進んだ。二頭または三頭の馬が牽引する、長い、バネのない四輪車だ。
35人の護衛たちが随行していた。
先頭にはライフルで武装した2人の男が乗り、2個の機関砲と2人のライフル武装者が乗る車が続いた。
その次が、ニコライと、前皇帝のそばに座ることにこだわったIakovlev を運ぶ<tarantass>だった。
その後ろが2人のライフル武装者、Alexandra とMaria が乗る四輪馬車で、それにさらにライフル武装者が続いた。
一行の中には、家族医師のEvgenii Botkin 博士、Court Martial のAlexander Dolgorukii 皇子と3人の侍従たちが、含まれていた。
Alexandra はお気に入りの娘のTatiana に、息子と2人の妹たちの世話を任せてきた。
Iakovlev は、川が氷結しなくなるとすぐに—二週間以内と予期された—、子どもたちは両親に加わることができる、と約束した。
彼は、最終目的地を秘密にしたままだった。前皇帝夫妻は、Tiumen に連れていかれている、ということだけ知っていた。そこは、230キロ離れた、最も近い鉄道路線の結節点だった。
--------
(11) Tiumen への道路は酷い状態だった。冬の後で轍がいっぱいで、部分的には汚泥がぬかるんでいた。
Tobolsk を出立してから4時間後、Irtysh 川の浅瀬を渡った。馬は、氷のような水に嵌まりつつ苦労して進んだ。
半分くらい進んだIevlenko で、彼らはTobol 川の中に入った。川の水が氷となって浮かんでいて、木の厚板に乗って歩いた。
Tiumen の直前で、Tura 川を横切った。一部は脚で、一部は小船で。
Iakovlev は、途上ずっと馬の中継を管理していた。交替しての中継の回数は、最小限に抑えられた。
ある地点でBotkin 博士が気分が悪くなり、回復してもらうために彼らは2時間、小休止した。
第一日の夕方、出立後16時間、Bochalino に到着した。そこで、夜を過ごすための調整が行なわれた。
Alexandra は、休憩する前に、こう書き留めた。
「Marie は四輪馬車に。ニコライは人民委員Yakoblev と一緒に。
寒く、暗く、風が強い。馬を替えたあと8時にIrtish 川を渡り、12時にある集落に着いて、冷たい提供物と一緒に茶を飲んだ。
道路は完璧に酷かった。凍った地面、泥、雪、馬の胃に入る水。恐ろしく揺れて、身体じゅうが痛い。
4回めの馬の取替えの後で、車体にあるポールがなくなった。それで、別の車によじ登って乗り込まなければならなかった。
5回めの馬替え…。
8時にYeblenko に着いた。以前は村の店だった家で夜を過ごした。
一つの部屋で3人で寝た。我々はベッドで、Marie は床の上のマットレスで。…
Tiumen からどこへ行くのか、誰も言わない。モスクワだと想像している者もいる。
川が通れあの子が元気なら、すぐに子どもたちは我々と同行することになっている。」(30)
Iakovlev は途中で、Alexandra に子どもたちに手紙を投函することや電報を打つことを許した。
停まったある所で、農民が近づいてきて、ニコライはどこに連れていかれるのかと尋ねた。
モスクワだと答えられたとき、その農民は、「王に栄光あれ。…モスクワへ。今やここロシアにもう一度秩序が生まれる」と反応した(注31)。
--------
(12) 一行に随行する護衛たちは、Iakovlev が丁重に前皇帝と接しているために、ますます彼への疑念を募らせた。
彼らは、なぜニコライが上機嫌であるのかを理解できず、Iakovlev は東部シベリアへ、あるいは日本にすらへとニコライを神隠ししようとしているのでないかと、不思議に思い始めた。
彼らは、途中に配置されていた巡視者を通じて、Ekaterinburg に対する懸念を伝えた。
--------
(13) 4月27日午前4時、事件もなく一晩が過ぎて—予期された待ち伏せ攻撃は実行されなかった—、旅が再開した。
一行は正午に、Pokrovskoe で停まった。
シベリアに数千とある中のこの村は、Rasputin の故郷だった。
Alexandra は、こう記した。「旧友の家の前で長くとどまった。窓から外を見ている彼の家族や友人を見た」。
--------
(14) Iakovlev によれば、ニコライは運動と新鮮な空気で元気になっているように見えたが、Alexandra は「寡黙で、誰にも話しかけず、誇り高く、接近し難いように振る舞った」(注32)。だが、二人とも、彼にはきわめて印象的だった。
彼はのちに、ある報道記者にこう語った。「この人たちの謙虚さに感心した。何も不平を言わなかった。」(注33)
--------
(15) 混乱している証拠資料から決定できるかぎりでだが、Iakovlev は、できるだけ早くEkaterinburg に着き、そこを早く後にして、モスクワへ向かうことを意図していた。
しかし、彼は、Ekaterinburg を通って安全に彼の責任を履行できるかについて、いっそう不安になった。
つぎのことを知ったならば、さらにいっそう警戒しただろう。彼の一行が後半の歩みを始めていた頃、Ekaterinburg ソヴェトからの人民委員が技師のNicholas Ipatev の家にやって来て、Ipatev の家はソヴェトの必要のために収用される、48時間以内に退去せよ、と伝えた(注34)。その家は、Voznesenskii 大通りとVoz-nesen 通りの角にあった。
Ekaterinburg は、ロマノフ一族について、自分たちの案をもっていた。
--------
(16) Iakovlev の一行は、4月27日午後9時に、Tiumen に着いた。
そこでただちに、騎兵部隊に囲まれた。騎兵部隊は鉄道駅まで随行した。駅には、一台の機関車と四台の乗客車が待っていた。
Iakovlev は、皇帝家族、職員たち、持ち物の移動を監視した。
そのときにNemtsov が現われ、ロマノフ家関係者が眠りに就いているとき、二人の人民委員は電信局へ向かった。
Hughes 装置を使って、Iakovlev はSverdlov に対して、現地のボルシェヴィキの意図に関する懸念を伝え、皇帝家族をUfa 地方の安全な場所に移動させることの許可を求めた。
5時間の会話の末、Sverdlov はこの提案を拒否した。
しかしながら、Sverdlov は、Iakovlev が直接にではなくEkaterinburg を通って移動することには同意した。但し、Tobolsk へ同じその月に彼が通ったのと同じ遠回りの—つまり、Omsk、Chelia binsk 、Samara を通る—行路によってだった。
Iakovlev は、彼の計画を隠すために、駅長に対して、列車をEkaterinburg の方向へ向かわせ、次の駅で新しい機関車を付け、方向を転換させて、全速力でTiumen を通過してOmsk の方向へ走らせるよう、指令した(注35)。
4月28日、日曜日の午前4時半、皇帝家族を乗せた列車はEkaterinburg へと向かい、そして方向を転換させた。
Iakovlev は、説明として、Zaslavskii の同僚のAvdeev に対して、Ekaterinburg は列車を突然に攻撃するつもりだ、との情報を得ている、と伝えた(注36)。
--------
(17) 朝に目覚めたとき、ニコライは、列車が東に向かって走っていることに、驚きをもって気づいた。
彼は、日記にこう書いて不思議がった。「Omsk の後で、どこへ連れていくつもりなのか? モスクワへ、それともVladivostok へ?」(脚注)
Iakovlev は、言おうとしなかった。
Maria は護衛たちとの会話を始めたが、彼女の美しさと魅力をもってしても、彼らから何かを引き出すことができなかった。
彼らもまた、知らなかったのだろう。
----
(脚注) 1918年のニコライの日記は、以下。KA, No.1/26(1928), p.110-p.137.
————
第四節④へとつづく。



























































