Richard Pipes, The Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第17章・皇帝家族の殺害」の試訳のつづき。
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 第四節/ニコライとAlexandra のEkaterinburg への移送①。
 (01) 1918年4月22日、モスクワからの密使、Vasilii Vasilevich Iakovlev が、Tobolsk に姿を現した。
 長いあいだ神秘的な人物で、イギリスの諜報員と疑われもしたが、彼は最近に、本当の名前はKonstantin Miachin という。古くからのボルシェヴィキだと特定された。
 1886年にOrenburg の近くで生まれ、1905年に社会民主党に加入し、多数のボルシェヴィキによる強奪(「収用」)に参加した。
 1911年に偽名(Iakovlev)で出国して、ベルギーで電気技師として働いた。
 二月革命のあとでロシアに戻った。
 1917年十月、〔ペテログラード〕軍事革命委員会の一員で、第二回全国ソヴェト大会の代議員になった。
 1917年12月、チェカの役員に任命された。
 立憲会議の解散にも、関与した(注18)。
 要するに、彼は、試練済みの、信頼されるボルシェヴィキだった。
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 (02) Iakovlev-Miachin は、その使命の最終的な目的について、口を噤んだ。共産党の文献資料も、寡黙でありつづけた。
 しかし、彼の任務は、ニコライと、もし実行可能ならば、彼の家族を、前皇帝が審判を受けるべきモスクワへと送り込むことだった、と確実に言うことができる。
 このことは、状況上の証拠資料から確定することができる。すなわち、常識はこう指し示している。政府は、モスクワからほとんど2000キロ離れたTobolsk へ、そこから近くのEkaterinburg までだけ皇帝家族に随行させるために、密使を派遣しはしなかっただろう。とくに、Ekaterinburg のボルシェヴィキは、皇帝家族を監禁状態に置くことに熱心だったのだから。
 だが、この趣旨の直接的な証拠資料もある。これは、Tiumen 出身の政治委員でPerm Guberniia の中央執行委員会の議長だったN. Nemtsov によって与えられた。
 Nemtsov は、4月にIakovlev の訪問を受けた、彼は42人の「モスクワ派遣員」と一緒に現れた、として、こう詳述する。
 「[Iaklevは]私に、ニコライ・ロマノフのTobolsk からの『退去』とモスクワへの移送についての命令書を提示した。
 命令書には、人民委員会議議長、Vladimir Ilich Lenin の署名があった。」(脚注1)
 ロマノフ一族に関する情報全てに対するきわめて厳しい検閲を何とか免れたこの証言は、Iakovlev はロマノフ家族をEkaterinburg へ移送せよとの命令を受けていたのか、それとも誘拐して安全圏に送り込む白軍の工作員だったのか、等の憶測に終止符を打った。
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 (脚注1) Krasnaia niva, No.27(1928), p.17. Avdeev, KN, No.5(1928), p.190 は、Iakovlev がレーニンからの命令書を携帯したことを確認している。Koganitskii によると(PR, No.4, 1922, p.13)、Iakovlev はニコライをモスクワに移送せよとの命令を受けており、このことは、疑念をもった現地ボルシェヴィキがモスクワと連絡して正しいものと確認した。
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 (03) Tobolsk への途中で、Iakolev はUfa で止まって、Goloshchehko と逢った。
 Iakovlev は命令書を示し、追加の人数を求めた。
 そこから、直接にEkaterinburg を通ってではなく、Chelyabinsk やOmsk を迂回して、Tobolsk へと向かった(注19)。
 彼がそうしたのは、ニコライを確保したがっているEkaterinburg が自分に成功させる責任がある使命を挫折させる、という怖れがあったからだったように見える。
 実際に、彼がTobolsk へ向かっているあいだに、Ekaterinburg は、前皇帝を「生きているか死んでいるか」はともかく持ち帰るための一隊の兵士を派遣して、彼に先行しようとしていた。
 Iakovlev は、この派遣隊にほとんど追いつき、二日後にTobolsk に着いた(注20)。
 彼には150人の騎兵でなる警護団があった。そのうち60人は、Goloshchekin から提供されていた。
 この一団は、機銃砲で武装していた。
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 (04) Iakovlev は、2日間をTobolsk で過ごし、情勢を知った。
 地方連隊と会い、未払いの給与を払って、気に入られた。
 知事の居宅内の状況も、知った。
 Alexis が重病であることを、知った。
 1912年の秋以降は血友病の症状を示さなかった皇帝の子息は、4月12日に自ら打ち傷を作り、それ以来ベッドを出られなくなっていた。
 彼はひどく痛み、両脚は膨らんで、麻痺した。
 Iakovlev は二度、前皇帝の居宅を訪問し、子息はモスクワまでの危険な旅行に耐えられる状態にはない、と確信した。
 (「聡明で、きわめて神経質な職人で技師」というのが、彼についてのAlexandra の印象だった。)
 四月は、Ural 地方を旅行するには最悪の時季だった。その頃までに雪が解けて橇や荷車の動きを邪魔し、かつ海運のために川を自由に利用できるわけでもないからだ。
 4月24日、Iakovlev は、モスクワと電話で連絡を取った。彼は、ニコライだけを移送し、当分は家族は残しておくように、指示された(注21)(脚注2)
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 (脚注2) 安全確保のため、Iakovlev とクレムリンとの間の連絡は、前皇帝とその家族を「商品」と言及して行なわれた。モスクワの官僚はIakovlev に、「荷物の主要部分だけ運ぶ」ように伝えた。Iakovlev, Ural, No.7(1988), p.160.
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 (05) このときまで、Iakolev は皇帝家族に対して丁寧で、ほとんど慇懃ですらあったので、随行の兵士やTobolsk 連隊には疑念が巻き起こっていた。
 ボルシェヴィキが「血のニコライ」と握手をするまでにへり下るのは、きわめて疑わしい、と彼らは感じた(注22)。
 新しい指示を受けたあとでもIakolev は礼儀正しくしていたが、官僚に変わった。
 彼は4月25日の朝に、知事の居宅の指揮者であるKobylinskii に対して、前皇帝を移送させなければならない、と言った。どこへかを言おうとしなかったけれども、行先はモスクワだと口を滑らしたようだ。
 彼は「聞き手」に、その日の午後2時に予定されている、と要請した。
 知事の居宅に着いて、彼はニコライがAlexandra、Kobylinskii と一緒にいるのに気づいて困惑した。
 彼は立ち去るよう求めたが、Alexandra は、そのままとどまるのに同意されているかのように振る舞った。
 ニコライに対して、こう言った。翌日早くに一緒に出立せよと、中央執行委員会から指令を受けている、と。
 彼の受けた命令は最初は家族全員とともにニコライを召喚することだったが、Alexis の病状を考慮して、ニコライだけを移送するのが新しい指令になっていた。
 Iakovlev の知らせに対するニコライの反応については、二つの種類の記録がある。
 翌月にIzvestiia が掲載したIakovlev へのインタビュー記事によると、ニコライはたんにこう尋ねた。「どこへ連れて行くのか?」。
 しかし、Kobylinskii はこう思い出す。ニコライは、彼らしくない言い方なのだが、「私はどこへも行かない」と言った。
 Kobylinnskii によると、Iakovlev は、さらにこう反応した。
 「そうしないで下さい。私は命令を実行しなければならない。
 貴方が拒めば、実力を行使するか、それとも任務遂行を諦めるかのどちらかをしなければならない。
 その場合には、より人間的でないことをする誰かと私は交替させられるでしょう。
 安心して下さい。貴方の生活を気遣います。
 独りで旅行するのが嫌なら、誰でも好みの者を連れていって構いません。
 明日の朝4時、我々は出発します。」(注23)
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 第四節②へつづく。