Richard Pipes, Russian Revolution 1899-1919 (1990).
 「第16勝・村落への戦争」の試訳のつづき。
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 第六節/“貧民委員会“①。
 (01) 既述のとおり、この貧民委員会が意図していたのは、敵の陣営内部で「第五列」〔潜在破壊者〕として機能することで、赤軍と調達派遣隊を助けるだろうと考えられた。
 レーニンは、最も窮乏した村落住民の経済的不満に乗っかって活動することで、彼らを富者に対抗して結集させ、そして、衝突させて、ボルシェヴィキの村落への政治的な侵入を可能にしようとした。
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 (02) レーニンの期待は、二つの理由で、失望に変わった。
 ロシアの村落の現実の構造は、彼が出発点に置いたものとは何ら似ていなかった。つまり、農民の四分の三は「貧民」だとする彼の認識は、全くの幻想だった。
 「土地のないプロレタリアート」という村落の貧民の中核部分は、中央ロシアでは村落人口の多くて4パーセントだった。残りの96パーセントは、「富者」が入り混じった「中層農民」だった。
 かくしてボルシェヴィキには、村落で階級を扇動する現実的な社会基盤が欠けていた。
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 (03) さらに悪いことに、その4パーセントですら、協力しようとしなかった。
 当局によりまたは外部地域の農民から威嚇された場合に、農民たちは仲間内で言い争うことも多かったが、彼らは団結を固めた。
 このような場合、富農、中農、貧農は、一つの家族になった。
 あるエスエルの言葉によると、こうだ。
 「食料派遣隊が村落に現われても、もちろん、食料を獲得しなかった。
 何を遂行するのか?
 彼らは、クラクから君たちの言う土地なき農民までからなる、統合前線を作り、都市部の村落に対する、見せかけだけの闘争を行なった。」(注106)
 無謀にも仲間の農民たちに反抗する情報屋になった農民は、体制側が約束した報償を得ることを期待していたのだが、社会的な死の、さらには肉体的な死すらの、証明書に自ら署名することになった。食料派遣隊が撤退した瞬間、そのような情報屋は、かりに殺されなくとも、地域共同体から追放された。
 このような状況では、「貧農」を「富農」に対する「容赦なき」階級戦争に駆り立てるという考えは、全く非現実的だった。
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 (04) レーニンはこうした事実を知らなかったか、政治的配慮を優先して無視することを選んだかのいずれかだった。
 Sverdlov が5月に認めたように、ボルシェヴィキ政府は田園地帯では弱く、「内戦を煽る」ことでのみその地方に徐々に浸透することができた。
 もともと都市部で発生したソヴェトは、農民のあいだでは人気がなかった。村落集会という、自治の伝統的な形態を模倣したものにすぎなかったからだ。
 1918年の夏、ほとんどの村落地域にはソヴェトがなかった。存在する地域では、エスエルの支持者である、率直な農民または村落知識人の指導のもとで、表面的にだけ機能していた。
 レーニンは、このような状態を変えようと決意した。
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 (05) 貧民委員会の表向きの目的は、食料派遣隊や赤軍部隊が隠蔵された穀物を発見するのを援助することだった。
 しかし、本当の使命は、信頼できる都市部の共産党員の指揮を受け、政府の諸指令に厳格に忠実に行動する、新しい村落ソヴェトの核として役立つことだった。
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 (06) Ispolkom(全国ソヴェトの執行委員会〔形式上はソヴナルコム=政府の上位機関—試訳者〕)は、5月20日に、この貧民委員会、あるいは<kombedy>の設立について討議し、6月11日、ロシア全土でのこれの設置を布令した(注107)。
 この議題がIspolkom の討議に付されたとき、メンシェヴィキと左翼エスエルからの激しい批判があった(注108)。これを、多数派のボルシェヴィキが抑えた。
 政府は、村落の貧民の「組織と食料供給に関する布令」を発した。この布令は、全てのvolost’ と大村落(selo)での、現存するソヴェトと並びかつソヴェトの監督を受ける、貧民委員会の設置について定めた。この委員会は地方農民と新しい移住者によって構成されるが、後者からは、「悪名高いクラク、富者」、穀物その他の産物の余剰を保有する家族の長、商業および工業用の施設の所有者、労働者を雇用する者、は排除された。
 委員会の任務は、赤軍部隊と調達派遣隊が隠蔵食料の場所を突き止め、それを没収するのを助けることだった。
 これらの協調を確保するため、kombedy 〔貧民委員会〕構成員には、6月15日まで無償で、その日以降は形だけの代償で、没収された隠蔵物の一部が分け前として約束された。
 komedy の一員であることの魅力をさらに高めるために、貧民委員会には、「村落ブルジョアジー」からその備品や在庫を没収し、自分たちのあいだで分ける権限が与えられた。
 こうして、村落の住民の一部は、他人を非難し、他人から奪い取るよう奨励された。
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 (07) 適用がある者にとっての結果は確実に膨大だとされていたけれども、布令の定めは曖昧だった。
 「悪名高いクラクと富者」とはいったい誰か?、それらは、余剰の穀物をもつ他の農民とどのようにして区別されるのか?
 どのような意味で、地方政府の任が与えられ、食料分配の責任をもつ地方ソヴェトに、貧民委員会は従属するのか?
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 (08) のちに判明したように、工業労働者が調達派遣隊に加入したがらなかったのと同様に、貧農は貧民委員会に入会する気がなかった。
 強い圧力をかけられたにもかかわらず、布令が発せられた三ヶ月あとの1918年9月の時点で、6村落のうち1つだけが、貧民委員会の成立を報告した。
 多くの州、とくにモスクワ、Pskov、Samara、Sinbirsk—大きな農業地域—には、一つもなかった(注109)。
 政府は貧民委員会設立のために巨額の金銭を計上しつづけたが、成功しなかった。
 村落ソヴェトが存在しないところでは、指令は、無視された。
 存在するところでは、ソヴェトは通常は貧民委員会を余計なものだと宣告し、代わりに、ソヴェト自身の「食料調達委員会」を設置した。このことで、政府の企図の目的全体が、挫折した。
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 ②へとつづく。