Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
「第16章・村落への戦争」の試訳のつづき。
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第三節/食糧徴発政策と都市の飢餓③。
(13) 1918年前半の村落地域の写真を当時のプレスが掲載しているが、それは救いようのない恐怖だ。
Riazanskaia zhizn’ の3月初めの記事は、Riazan の食料不足はとくに酷かったので、代表的だとは言えないかもしれない。しかし、ロシアの村落がボルシェヴィキによる支配のもとで急速に劣悪化し、原始的アナーキーへ突入したことを示している。
この地方の農民たちは、政府の酒類店舗から強奪し、長らく泥酔の状態にあった。
彼らは老人や少女たちに助けられて、酒を飲んで大騒ぎをしつつ、闘い合った。
静かにさせておくため、子どもたちにはウォッカが無理に与えられた。
没収あるいはインフレによって貯蓄を失うのを怖れて、通常はブラックジャックで夢中になって賭けをした。ふつうの1人のmuzhik が一晩で1000ルーブルを失うのは、珍しくなかった。
「老人は、最後の審判の絵を買う。
農民たちは、心の奥深くで、『世界の終わり』は近い、と信じた。…
そして、地獄が来る前に、地上に存在し、努力して最近に築かれたもの全てが、破壊されつつある。
彼らは全ての物を粉砕したので、騒音が地区じゅうに鳴り響く。」(注42)
食料事情がとくに絶望的な地帯では、農民は「飢餓騒乱」を展開し、視野に入る全ての物を破壊した。
Novgorod 地方の一地区でのそのような騒乱のあとで、地方の共産党当局は、1万2000人の住民に対して、450万ルーブルの「寄付」を命じた。農民たちはまるで、征服された植民地の原住民であるかのごとくに(注43)。
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(14) 飢餓は危険をもたらした。しかし、ボルシェヴィキの立場から見ると、積極的な面もあった。
第一に、食料取引に関する国家独占は。食料供給のためには有害だったとしても、体制が配給制度を保持し続けるのを可能にした。配給制度は、都市住民を統制し、体制支持者を有利に扱うのに役立った。
第二に、飢餓は住民の意気を沈滞させ、抵抗する意思を奪った。
飢餓の心理学というものは、よく知られていない。だが、ロシアの観察者たちは、飢餓は民衆を権威ある当局により従う気持ちにさせる、と記した。
あるボルシェヴィキはこう観察した。
「飢餓は、創造性の貧しい同伴者だ。
盲目的破壊性、陰鬱な恐怖、屈服したい気分、連れて行き組織してくれる誰かに運命を委ねたい気持ち、これらを飢餓は掻き立てる。」(注44)
飢えている者たちは、かりに闘うことができも、食料を求めてお互いに競い合うことに活力を費やした。
このような政治的無関心は、政治的抑圧以上に、従属性を高めるのに役立つ。
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(15) ボルシェヴィキは、飢餓がもたらす政治的利益に気づいていた。このことは、唯一の実現可能な方法で飢餓から救うことを彼らは拒んだことで、証明されている。その方法とは、のちにロシアを支配する自信を得た1921年に採用することになる方法、すなわち穀物の自由市場の再導入だ。
この措置が実施されるとすぐに、生産は増大し、戦争前の高さを回復した。
これが実施されるだろうというのは、後知恵でのみ分かるのではない。
1918年5月、穀物専門家のS. D. Rozenkrants はジノヴィエフに対して、食料不足は「投機」によってではなく生産する動機の欠如によって起きている、と説明した。
穀物の国家独占のもとでは、農民は、自分たち自身の直近の必要以上に穀物を栽培する動機をもたなかった。
余剰の耕作地に根菜類(じゃがいも、にんじん、ビート)を植えて自由市場に出すことで、それは当局も認めたことだったが、農民はそれらの処理に関してかつて知っていた以上の金銭を稼いだ。
このようにすれば自由市場で根菜類1pud当たり100ルーブルを得られた。1desiastina の耕作地で5万〜6万ルーブルを稼いだ。
馬鹿げた固定価格で国家に没収させるだけのために、いったい誰が穀物に手を煩わせるだろうか?
Rozenkrants は、もし政府がより事業経営的感覚をもつ政策を採用すれば、食料問題は二ヶ月で解決するだろう、と自信をもって表明した(注45)。
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④につづく。
「第16章・村落への戦争」の試訳のつづき。
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第三節/食糧徴発政策と都市の飢餓③。
(13) 1918年前半の村落地域の写真を当時のプレスが掲載しているが、それは救いようのない恐怖だ。
Riazanskaia zhizn’ の3月初めの記事は、Riazan の食料不足はとくに酷かったので、代表的だとは言えないかもしれない。しかし、ロシアの村落がボルシェヴィキによる支配のもとで急速に劣悪化し、原始的アナーキーへ突入したことを示している。
この地方の農民たちは、政府の酒類店舗から強奪し、長らく泥酔の状態にあった。
彼らは老人や少女たちに助けられて、酒を飲んで大騒ぎをしつつ、闘い合った。
静かにさせておくため、子どもたちにはウォッカが無理に与えられた。
没収あるいはインフレによって貯蓄を失うのを怖れて、通常はブラックジャックで夢中になって賭けをした。ふつうの1人のmuzhik が一晩で1000ルーブルを失うのは、珍しくなかった。
「老人は、最後の審判の絵を買う。
農民たちは、心の奥深くで、『世界の終わり』は近い、と信じた。…
そして、地獄が来る前に、地上に存在し、努力して最近に築かれたもの全てが、破壊されつつある。
彼らは全ての物を粉砕したので、騒音が地区じゅうに鳴り響く。」(注42)
食料事情がとくに絶望的な地帯では、農民は「飢餓騒乱」を展開し、視野に入る全ての物を破壊した。
Novgorod 地方の一地区でのそのような騒乱のあとで、地方の共産党当局は、1万2000人の住民に対して、450万ルーブルの「寄付」を命じた。農民たちはまるで、征服された植民地の原住民であるかのごとくに(注43)。
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(14) 飢餓は危険をもたらした。しかし、ボルシェヴィキの立場から見ると、積極的な面もあった。
第一に、食料取引に関する国家独占は。食料供給のためには有害だったとしても、体制が配給制度を保持し続けるのを可能にした。配給制度は、都市住民を統制し、体制支持者を有利に扱うのに役立った。
第二に、飢餓は住民の意気を沈滞させ、抵抗する意思を奪った。
飢餓の心理学というものは、よく知られていない。だが、ロシアの観察者たちは、飢餓は民衆を権威ある当局により従う気持ちにさせる、と記した。
あるボルシェヴィキはこう観察した。
「飢餓は、創造性の貧しい同伴者だ。
盲目的破壊性、陰鬱な恐怖、屈服したい気分、連れて行き組織してくれる誰かに運命を委ねたい気持ち、これらを飢餓は掻き立てる。」(注44)
飢えている者たちは、かりに闘うことができも、食料を求めてお互いに競い合うことに活力を費やした。
このような政治的無関心は、政治的抑圧以上に、従属性を高めるのに役立つ。
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(15) ボルシェヴィキは、飢餓がもたらす政治的利益に気づいていた。このことは、唯一の実現可能な方法で飢餓から救うことを彼らは拒んだことで、証明されている。その方法とは、のちにロシアを支配する自信を得た1921年に採用することになる方法、すなわち穀物の自由市場の再導入だ。
この措置が実施されるとすぐに、生産は増大し、戦争前の高さを回復した。
これが実施されるだろうというのは、後知恵でのみ分かるのではない。
1918年5月、穀物専門家のS. D. Rozenkrants はジノヴィエフに対して、食料不足は「投機」によってではなく生産する動機の欠如によって起きている、と説明した。
穀物の国家独占のもとでは、農民は、自分たち自身の直近の必要以上に穀物を栽培する動機をもたなかった。
余剰の耕作地に根菜類(じゃがいも、にんじん、ビート)を植えて自由市場に出すことで、それは当局も認めたことだったが、農民はそれらの処理に関してかつて知っていた以上の金銭を稼いだ。
このようにすれば自由市場で根菜類1pud当たり100ルーブルを得られた。1desiastina の耕作地で5万〜6万ルーブルを稼いだ。
馬鹿げた固定価格で国家に没収させるだけのために、いったい誰が穀物に手を煩わせるだろうか?
Rozenkrants は、もし政府がより事業経営的感覚をもつ政策を採用すれば、食料問題は二ヶ月で解決するだろう、と自信をもって表明した(注45)。
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④につづく。



























































