Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
「第16章・村落への戦争」の試訳のつづき。
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第三節/食糧徴発政策と都市の飢餓①。
(01) 革命の経済的社会的推移は、こうして、ボルシェヴィキが最初から直面していた諸問題を悪化させた。
ボルシェヴィキはすでに圧倒的に「プチ・ブルジョア」である国で「プロレタリアートの独裁」を宣言したのみならず、彼らの政策をいっそうその方向に向けた。
政府は1918年の初夏に村落を攻撃する決定を下した背景には、以上のことがあった。
この決定がなされた正確な事情は知られていないが、利用可能な情報は十分で、その先例と内容について概述することは不可能でない。
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(02) 十月のクーの場合もそうだったように、ボルシェヴィキは、村落地帯への攻撃を開始するに際して、偽りの目標を掲げて行動した。
彼らの本当の目的は、農民層を支配することによって十月のクーを完了させることだった。
しかし、これは知られるスローガンにはならなかっただろうから、ボルシェヴィキは農民層に対する実力行使を伴なう運動(campaign)を、飢えている都市部のために「クラク」〔富農〕から徴発する、という表向きの目的でもって、実行した。
もちろん、食料不足はきわめて現実的な問題だった。しかし、後述するように、村落地帯から供給を引き出す、容易で効果的な方法があった。
ボルシェヴィキ内部の議論では、権限ある機関は率直に、食料徴発は副次的な仕事だ、と認めていた。
こうして、ボルシェヴィキの秘密報告書は、全ての村落に貧民委員会を設置することを命じる布令に言及して、採られるべき措置を、つぎのように説明した。
「村落の貧民委員会の組織化に関する7月11日の布令は、組織化の性格を明確にし、それに供給するという役割を与えた。
しかし、その本当の目的は、<純粋に政治的>だ。
村落での階層化を実現すること、この層に積極的な政治生活を送らせること。この層はプロレタリア社会主義革命に適合しそれを実現するする能力をもつ。また、村落ソヴェトの支配権を握って、ソヴィエトの社会主義建設に反対する機関に変えている、そのようなクラクや豊かな農民の経済的社会的影響力から自由にすることで中間的勤労農民をこの途へと導くことすらできる。」(注30)
言い換えると、都市部のための食料の摘出(「供給という役割」)は、社会的憎悪に火をつけてボルシェヴィキを村落に送り込む、という政治的活動を覆い隠す偽装(camouflage)だった。
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(03) 革命前のロシアでは、市場に届く大量の食料は、大規模の私的な土地と富裕な農民の農場のいずれかから来ていた。いずれも、労働者を雇用していた。
中間のおよび貧しい農民は、生産する食料のほとんど全てを自分たちで消費した。
全ての貴族の土地や農民が私的所有物として保持した土地の多くが没収され、村落共同体に配分された。これは政府が雇用労働を禁止したことで(広範囲で無視されたとしても)いっそう進められた。そして、村落共同体への土地配分は、非農業国民への食料の主要な供給源を奪い去った。
田園地帯のロシアが自己充足的な前資本主義時代に移行するに伴ない、非農業国民は飢餓に直面した。
このことだけで、ボルシェヴィキのクーの後で起きた過酷な食料不足に寄与した(脚注1)。
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(脚注1) かつて私的に所有された農業用地の約三分の一—耕作されている土地面積の3.2パーセント—は主として「技術的」文化に用いられた大規模不動産だったが、国家が運営する集団農場のために奪い取られた。それらは、理論的には、都市部での食料不足を緩和するのを助けることができただろう。しかし、その在庫は地方の農民によって奪われていたので、できたとしても、ほとんど助けにならなかった。
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(04) このような逆境にあっても、農民は都市住民に食糧を供給できていたかもしれない。主な理由がどのように見えようとも、ボルシェヴィキが、農民から余剰を手放すという気持ちを奪わなかったならば。
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(05) 臨時政府が採択してボルシェヴィキが維持した数少ない措置の一つは、1917年3月25日の法律(law)だった。これは、穀物取引の国家独占を定めていた。
この法律の条項によると、生産者が個人的な需要を充足し、種として備えたあとで残った全ての穀物は国家に帰属し、固定の価格で国家機関に売却されなければならなかった。
引き渡されなかった余剰の穀物は、半額で徴発された。
臨時政府はこうして収穫の14.5パーセントを獲得した。だが、そうであっても、臨時政府に権力があるあいだは、穀物取引は従前どおりに行なわれた。
しかし、ボルシェヴィキは、この規則をいっそう無慈悲に実施し、穀物やその産物を消費者に販売する行為全てを、厳格な制裁に服すべき「投機」として扱った。
ボルシェヴィキ支配の最初の数ヶ月、チェカはその活動のほとんどを、「運び屋」農民(meshochmiki)を追及し、彼らの商品を没収することに費やした。チェカはときには、行商する農民を投獄し、処刑すらした。
妨害されなければ、農民たちは続行し、数百万人に食糧を与えた。
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(06) ボルシェヴィキ政府は、農民が余剰の穀物を、インフレによっていっそう馬鹿げたものになっている価格で政府機関に売却するよう、強く要求した。
1918年8月に公定価格は、ライ麦1pud(16.3キログラム)当たり(地域によって異なり)14〜18ルーブルと設定された。一方、自由市場では、1pud 当たりモスクワで290ルーブル、ペテログラードで420ルーブルで売れていた(脚注2)。
1919年1月に統制下に入った肉やジャガイモのようなその他の食品についても、公定価格と自由市場の価格には同様の乖離があった。
農民たちは、このような価格政策に対して、穀物を隠蔵するか、耕作地の面積を少なくすることで抵抗した。
穀物の収穫量が低下したのは、しごく当然のことだった(注32)。
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(脚注2) Kabanov, Krest’ianskoe khoziaistvo, p.159. 生産物に対してこのような非現実的な価額を受け取った農民たちは、毎日少なくなっている工業製品(マッチ、釘、灯油等)を自由市場の価格で購入しなければならなかった。
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②へとつづく。
「第16章・村落への戦争」の試訳のつづき。
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第三節/食糧徴発政策と都市の飢餓①。
(01) 革命の経済的社会的推移は、こうして、ボルシェヴィキが最初から直面していた諸問題を悪化させた。
ボルシェヴィキはすでに圧倒的に「プチ・ブルジョア」である国で「プロレタリアートの独裁」を宣言したのみならず、彼らの政策をいっそうその方向に向けた。
政府は1918年の初夏に村落を攻撃する決定を下した背景には、以上のことがあった。
この決定がなされた正確な事情は知られていないが、利用可能な情報は十分で、その先例と内容について概述することは不可能でない。
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(02) 十月のクーの場合もそうだったように、ボルシェヴィキは、村落地帯への攻撃を開始するに際して、偽りの目標を掲げて行動した。
彼らの本当の目的は、農民層を支配することによって十月のクーを完了させることだった。
しかし、これは知られるスローガンにはならなかっただろうから、ボルシェヴィキは農民層に対する実力行使を伴なう運動(campaign)を、飢えている都市部のために「クラク」〔富農〕から徴発する、という表向きの目的でもって、実行した。
もちろん、食料不足はきわめて現実的な問題だった。しかし、後述するように、村落地帯から供給を引き出す、容易で効果的な方法があった。
ボルシェヴィキ内部の議論では、権限ある機関は率直に、食料徴発は副次的な仕事だ、と認めていた。
こうして、ボルシェヴィキの秘密報告書は、全ての村落に貧民委員会を設置することを命じる布令に言及して、採られるべき措置を、つぎのように説明した。
「村落の貧民委員会の組織化に関する7月11日の布令は、組織化の性格を明確にし、それに供給するという役割を与えた。
しかし、その本当の目的は、<純粋に政治的>だ。
村落での階層化を実現すること、この層に積極的な政治生活を送らせること。この層はプロレタリア社会主義革命に適合しそれを実現するする能力をもつ。また、村落ソヴェトの支配権を握って、ソヴィエトの社会主義建設に反対する機関に変えている、そのようなクラクや豊かな農民の経済的社会的影響力から自由にすることで中間的勤労農民をこの途へと導くことすらできる。」(注30)
言い換えると、都市部のための食料の摘出(「供給という役割」)は、社会的憎悪に火をつけてボルシェヴィキを村落に送り込む、という政治的活動を覆い隠す偽装(camouflage)だった。
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(03) 革命前のロシアでは、市場に届く大量の食料は、大規模の私的な土地と富裕な農民の農場のいずれかから来ていた。いずれも、労働者を雇用していた。
中間のおよび貧しい農民は、生産する食料のほとんど全てを自分たちで消費した。
全ての貴族の土地や農民が私的所有物として保持した土地の多くが没収され、村落共同体に配分された。これは政府が雇用労働を禁止したことで(広範囲で無視されたとしても)いっそう進められた。そして、村落共同体への土地配分は、非農業国民への食料の主要な供給源を奪い去った。
田園地帯のロシアが自己充足的な前資本主義時代に移行するに伴ない、非農業国民は飢餓に直面した。
このことだけで、ボルシェヴィキのクーの後で起きた過酷な食料不足に寄与した(脚注1)。
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(脚注1) かつて私的に所有された農業用地の約三分の一—耕作されている土地面積の3.2パーセント—は主として「技術的」文化に用いられた大規模不動産だったが、国家が運営する集団農場のために奪い取られた。それらは、理論的には、都市部での食料不足を緩和するのを助けることができただろう。しかし、その在庫は地方の農民によって奪われていたので、できたとしても、ほとんど助けにならなかった。
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(04) このような逆境にあっても、農民は都市住民に食糧を供給できていたかもしれない。主な理由がどのように見えようとも、ボルシェヴィキが、農民から余剰を手放すという気持ちを奪わなかったならば。
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(05) 臨時政府が採択してボルシェヴィキが維持した数少ない措置の一つは、1917年3月25日の法律(law)だった。これは、穀物取引の国家独占を定めていた。
この法律の条項によると、生産者が個人的な需要を充足し、種として備えたあとで残った全ての穀物は国家に帰属し、固定の価格で国家機関に売却されなければならなかった。
引き渡されなかった余剰の穀物は、半額で徴発された。
臨時政府はこうして収穫の14.5パーセントを獲得した。だが、そうであっても、臨時政府に権力があるあいだは、穀物取引は従前どおりに行なわれた。
しかし、ボルシェヴィキは、この規則をいっそう無慈悲に実施し、穀物やその産物を消費者に販売する行為全てを、厳格な制裁に服すべき「投機」として扱った。
ボルシェヴィキ支配の最初の数ヶ月、チェカはその活動のほとんどを、「運び屋」農民(meshochmiki)を追及し、彼らの商品を没収することに費やした。チェカはときには、行商する農民を投獄し、処刑すらした。
妨害されなければ、農民たちは続行し、数百万人に食糧を与えた。
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(06) ボルシェヴィキ政府は、農民が余剰の穀物を、インフレによっていっそう馬鹿げたものになっている価格で政府機関に売却するよう、強く要求した。
1918年8月に公定価格は、ライ麦1pud(16.3キログラム)当たり(地域によって異なり)14〜18ルーブルと設定された。一方、自由市場では、1pud 当たりモスクワで290ルーブル、ペテログラードで420ルーブルで売れていた(脚注2)。
1919年1月に統制下に入った肉やジャガイモのようなその他の食品についても、公定価格と自由市場の価格には同様の乖離があった。
農民たちは、このような価格政策に対して、穀物を隠蔵するか、耕作地の面積を少なくすることで抵抗した。
穀物の収穫量が低下したのは、しごく当然のことだった(注32)。
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(脚注2) Kabanov, Krest’ianskoe khoziaistvo, p.159. 生産物に対してこのような非現実的な価額を受け取った農民たちは、毎日少なくなっている工業製品(マッチ、釘、灯油等)を自由市場の価格で購入しなければならなかった。
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②へとつづく。



























































