Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
<第16章・村落への戦争>の試訳のつづき。
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第二節/農民が1917-18年に得たもの·失ったもの①。
(01) ボルシェヴィキによる村落への攻撃の成功と失敗を理解するためには、ロシアの村落経済への革命の影響を考えることが必要だ。
以前に記述したように、ボルシェヴィキは1917年十月に、自らの農業綱領は傍に置いて、土地の国有化に集中した。それは農民層にもっと人気があったエスエルの土地綱領を支持していたからでもあった。エスエルの土地綱領は、補償なしでの土地の収用、小農民の帰属資産を除く、私的に所持された全ての土地の村落共同体への配分、を訴えていた。
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(02) 中央ロシアの農民たちが土地布令を歓迎したことに、争いはない。それは、彼らの古くからの夢だった「黒の分配」を実現するものだった。
私的な所持物が取り去られそうだったがゆえに迷っていた農民たちですら、避け難いこととして従った。
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(03) しかし、このような基本的に煽動的で戦術的な措置がロシア農民の経済的地位を有意義に改善したのか、あるいは国全体の利益になったのかは、全く別の問題だ。
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(04) 動かない客体である土地は、もちろん、たまたま存在している場所でのみ分配され得る。
革命前のロシアでは、土地布令によれば収用の対象となる大量の私的な(非村落共同体の)土地は中央の大ロシア地域にではなく、帝国の周縁部に位置していた。前者はボルシェヴィキが支配しており、人口過剰の影響を最も受けていた。後者はBaltic 地域、西部地方、ウクライナ、北コーカサスで、これら全てが1917年十月以降はボルシェヴィキの支配から外れていた。
その結果として、ボルシェヴィキ支配地域で分配可能な土地がある部分は、農民の期待を充足するには相当に不足していた。
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(05) しかし、この地域でも、農民は奪取した土地を外部者(inogorodnye)にも近隣の村落共同体出身の農民にも分け与えることを拒んだので、公正な土地の配分を行なうのは困難だった。
以下は、土地の配分が実際にどのように行なわれたかを示す、当時の文章だ。
「農業問題は、単純な方法で解決することができる。
地主が持つ土地の全体は、村落共同体の財産になる。
全ての村落共同体は、従前の地主から土地を受け取る。そして、かりにある共同体には多すぎ、近隣の共同体には不足しているとしても、いかなる外部者にも、一片なりとも譲り渡さない。…
(余剰の)土地があれば、別の村落共同体出身の農民の手に移るのでないかぎり、元の地主に譲る方をむしろ選ぶ。
農民たちは、地主はその土地を使用するかぎりはなおも何がしかを稼ぐことができ、必要となれば土地を手放すだろう、と言う。」(注09)
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(06) ロシアの農民層が1917-18年に耕作可能な土地をどの程度獲得したのかを決定するのは、容易でない。見積りの幅は広く、小さくて2000万から大きくて1億5000万<desiatiny>〔土地面積の単位—試訳者〕に及ぶ(注10)。
大きな障害は、「土地」(zemlia)という言葉の曖昧な使用方法にある。
革命後に行なわれた種々の統計調査で採用されているように、「土地」はきわめて異なる物を指し示している。耕作可能な土地(pashnia)というのが最も有益な使用方法だが、しかし、牧草地、森林、経済的価値のない土地(荒野、沼地、ツンドラ)も指し示していることがある。
1億5000万<desiatiny>という狂信的な数字に辿り着くことができる、というのは、「土地」という意味のない項目の中に以上のような雑多な対象を一まとめにすることにすぎない。
この1億5000万という数字は1936年に初めてスターリンによって採用され、長らく、共産主義の文献上は拘束的だった。革命の結果としてロシアの農民が獲得した、と主張されている(注11)。
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(07) 信頼できる統計資料は、はるかに穏便な結果を示している。
1919-20年に農業人民委員部が編集した数字が示しているのは、農民たちは全部で2115万<desiatiny>(2327万ヘクタール)を受け取った、ということだ(注12)。
この土地は、きわめて不公平に分配された。
ロシアの村落共同体の53パーセントは、革命によっていかなる土地も獲得しなかった(注13)。
これはほとんど、村落数(54%)に対応している。同じ資料元によると、これらの村落は土地の再配分の結果について、「不幸だ」と感じた、と言ったという(注14)。
村落のうち残る47パーセントは、きわめて不平等な分け前で、耕作可能な土地を獲得した。
数字が存在する34の地方のうち、6地方の村落共同体は、一人当たり10分の1<desiatiny>以下しか受け取らなかった。
12地方の村落共同体は、10分の1から4分の1を得た。
9地方では、4分の1から2分の1を得た。
4地方の農民たちは、2分の1から1<desiatina>を得た。
残る3地方でのみ、農民たちは一人当たり1から2を得た(注15)。
全国的には、農民一人当たりの平均的な耕作可能土地の共同体への配分は、革命前は1.87であったところ、2.26<desiatiny>へと上がった(注16)。
これは、成人(edok)一人当たりの耕作可能土地が0.4<desiatina>または23.7パーセント増加したことを示しているだろう。
最初に1921年に引用されたこの数字は、最近の研究で確認されてきている。
その中で最も権威のある研究は、いくぶんか曖昧に、平均的な農民が受け取ったのは0.4<desiatina>を「超えなかった」、おおよそ1エーカーだった、と述べている(脚注)。この数字は、黒の大分配から農民が期待したよりもはるかに少なかった。
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(脚注) V. R. Gerasimiuk, ISSSR, No. 1(1965), p.100. V. P. Danilov, Pereraspredelenie zemel’nogo fonda Rossii(Moscow, 1979), p.283-7 〔引用元省略—試訳者〕は、革命の結果として農民の所持分は増加した、と言う。しかし、この数字からは、集団農場やその他のソヴィエト農場が取得した土地を控除しなければならない。19世紀後半の急進的知識人は、農民たちは黒の大分配によって5から15 desiatiny を得られると望んでいる、という農民の声を収集した。V. L. Debagorii-Mokrievich, Vospominaniia(St. Petersburg, 1906), p.137.および、G. I. Uspenskii, Sobranie Sochinenii, V(Moscow, 1956), p.130.
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第二節・②へとつづく。
<第16章・村落への戦争>の試訳のつづき。
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第二節/農民が1917-18年に得たもの·失ったもの①。
(01) ボルシェヴィキによる村落への攻撃の成功と失敗を理解するためには、ロシアの村落経済への革命の影響を考えることが必要だ。
以前に記述したように、ボルシェヴィキは1917年十月に、自らの農業綱領は傍に置いて、土地の国有化に集中した。それは農民層にもっと人気があったエスエルの土地綱領を支持していたからでもあった。エスエルの土地綱領は、補償なしでの土地の収用、小農民の帰属資産を除く、私的に所持された全ての土地の村落共同体への配分、を訴えていた。
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(02) 中央ロシアの農民たちが土地布令を歓迎したことに、争いはない。それは、彼らの古くからの夢だった「黒の分配」を実現するものだった。
私的な所持物が取り去られそうだったがゆえに迷っていた農民たちですら、避け難いこととして従った。
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(03) しかし、このような基本的に煽動的で戦術的な措置がロシア農民の経済的地位を有意義に改善したのか、あるいは国全体の利益になったのかは、全く別の問題だ。
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(04) 動かない客体である土地は、もちろん、たまたま存在している場所でのみ分配され得る。
革命前のロシアでは、土地布令によれば収用の対象となる大量の私的な(非村落共同体の)土地は中央の大ロシア地域にではなく、帝国の周縁部に位置していた。前者はボルシェヴィキが支配しており、人口過剰の影響を最も受けていた。後者はBaltic 地域、西部地方、ウクライナ、北コーカサスで、これら全てが1917年十月以降はボルシェヴィキの支配から外れていた。
その結果として、ボルシェヴィキ支配地域で分配可能な土地がある部分は、農民の期待を充足するには相当に不足していた。
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(05) しかし、この地域でも、農民は奪取した土地を外部者(inogorodnye)にも近隣の村落共同体出身の農民にも分け与えることを拒んだので、公正な土地の配分を行なうのは困難だった。
以下は、土地の配分が実際にどのように行なわれたかを示す、当時の文章だ。
「農業問題は、単純な方法で解決することができる。
地主が持つ土地の全体は、村落共同体の財産になる。
全ての村落共同体は、従前の地主から土地を受け取る。そして、かりにある共同体には多すぎ、近隣の共同体には不足しているとしても、いかなる外部者にも、一片なりとも譲り渡さない。…
(余剰の)土地があれば、別の村落共同体出身の農民の手に移るのでないかぎり、元の地主に譲る方をむしろ選ぶ。
農民たちは、地主はその土地を使用するかぎりはなおも何がしかを稼ぐことができ、必要となれば土地を手放すだろう、と言う。」(注09)
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(06) ロシアの農民層が1917-18年に耕作可能な土地をどの程度獲得したのかを決定するのは、容易でない。見積りの幅は広く、小さくて2000万から大きくて1億5000万<desiatiny>〔土地面積の単位—試訳者〕に及ぶ(注10)。
大きな障害は、「土地」(zemlia)という言葉の曖昧な使用方法にある。
革命後に行なわれた種々の統計調査で採用されているように、「土地」はきわめて異なる物を指し示している。耕作可能な土地(pashnia)というのが最も有益な使用方法だが、しかし、牧草地、森林、経済的価値のない土地(荒野、沼地、ツンドラ)も指し示していることがある。
1億5000万<desiatiny>という狂信的な数字に辿り着くことができる、というのは、「土地」という意味のない項目の中に以上のような雑多な対象を一まとめにすることにすぎない。
この1億5000万という数字は1936年に初めてスターリンによって採用され、長らく、共産主義の文献上は拘束的だった。革命の結果としてロシアの農民が獲得した、と主張されている(注11)。
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(07) 信頼できる統計資料は、はるかに穏便な結果を示している。
1919-20年に農業人民委員部が編集した数字が示しているのは、農民たちは全部で2115万<desiatiny>(2327万ヘクタール)を受け取った、ということだ(注12)。
この土地は、きわめて不公平に分配された。
ロシアの村落共同体の53パーセントは、革命によっていかなる土地も獲得しなかった(注13)。
これはほとんど、村落数(54%)に対応している。同じ資料元によると、これらの村落は土地の再配分の結果について、「不幸だ」と感じた、と言ったという(注14)。
村落のうち残る47パーセントは、きわめて不平等な分け前で、耕作可能な土地を獲得した。
数字が存在する34の地方のうち、6地方の村落共同体は、一人当たり10分の1<desiatiny>以下しか受け取らなかった。
12地方の村落共同体は、10分の1から4分の1を得た。
9地方では、4分の1から2分の1を得た。
4地方の農民たちは、2分の1から1<desiatina>を得た。
残る3地方でのみ、農民たちは一人当たり1から2を得た(注15)。
全国的には、農民一人当たりの平均的な耕作可能土地の共同体への配分は、革命前は1.87であったところ、2.26<desiatiny>へと上がった(注16)。
これは、成人(edok)一人当たりの耕作可能土地が0.4<desiatina>または23.7パーセント増加したことを示しているだろう。
最初に1921年に引用されたこの数字は、最近の研究で確認されてきている。
その中で最も権威のある研究は、いくぶんか曖昧に、平均的な農民が受け取ったのは0.4<desiatina>を「超えなかった」、おおよそ1エーカーだった、と述べている(脚注)。この数字は、黒の大分配から農民が期待したよりもはるかに少なかった。
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(脚注) V. R. Gerasimiuk, ISSSR, No. 1(1965), p.100. V. P. Danilov, Pereraspredelenie zemel’nogo fonda Rossii(Moscow, 1979), p.283-7 〔引用元省略—試訳者〕は、革命の結果として農民の所持分は増加した、と言う。しかし、この数字からは、集団農場やその他のソヴィエト農場が取得した土地を控除しなければならない。19世紀後半の急進的知識人は、農民たちは黒の大分配によって5から15 desiatiny を得られると望んでいる、という農民の声を収集した。V. L. Debagorii-Mokrievich, Vospominaniia(St. Petersburg, 1906), p.137.および、G. I. Uspenskii, Sobranie Sochinenii, V(Moscow, 1956), p.130.
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第二節・②へとつづく。



























































