Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 「第15章・“戦時共産主義“」の試訳のつづき。
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 第15章・第八節/反労働者立法③。
 (13) どのように経済的に正当化しようとも、強制労働の実際はモスクワ公国時代の<tiaglo>への回帰を意味した。それによってかつて、農民層その他庶民である全ての成人男女を、国家のための辛い仕事をするよう召喚することができた。
 そして今では、主要な仕事は、物品運搬、材木切断、建築作業になった。
 燃料提供という1920年代に農民に課された義務がつぎのように叙述されたことは、モスクワ公国のロシア人には完全に理解できることだっただろう。
 「政府が期待した一種の労働役務として…、農民たちは、指定された森林で木材から多数の丸太を切断することを…命じられた。
 家屋を所有する農民は全て、一定の量の木材を輸送しなければならなかった。
 この木材は農民によって、河川の突堤、諸都市、そして最終地点へと配送されなければならなかった。」(注135)
 モスクワ公国時代の強制労働である<tiaglo>と共産主義のロシアでのそれとの違いは、主につぎにあった。すなわち、中世では特定の需要を充足させるために課された散発的(sporadic)な義務だったが、今では永続的な義務になった。
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 (14) 1919-20年の冬、トロツキーは、「労働を軍事化する」という野心的な構想を抱いた。それによって、制服着用の兵士は生産的な経済作業を行ない、民間人労働者は軍事紀律に服するだろう。
 一世紀前にAlexander 1世とArakcheev によって開始された悪名高い「軍事植民地」へのこの後戻りは、懐疑心と敵愾心でもって迎えられた。
 しかし、トロツキーは固執し、思いとどまるよう説得されはしなかった。
 内戦での勝利から帰還し、自分の重要性の感覚に満ちて、また新しい栄誉を得たいと熱望して、彼は、赤軍が外部の敵に打ち勝ったのと同じ大まかな手段によってのみロシアの経済問題を解決することができる、と強く主張した。
 1919年12月16日、トロツキーは、中央委員会のために一組の「テーゼ」を起草した(注136)。
 彼は、経済の諸問題は、十分な紀律のない労働者の軍隊によって処断されなければならない、と主張した。
 ロシアの労働者は、軍隊の様式でもって編成されなければならない。義務の忌避(割当てられた仕事の拒否、長期欠勤、仕事中の飲酒、等)は、罪悪として、軍事法廷へと送られるべき犯罪として扱われなければならない。
 トロツキーはさらに、赤軍の分団はもう戦闘する義務を負わず、動員が解除されて故郷に戻るのではなく、「労働軍」(<trudarmii>)へと改変されるべきだ、と提案した。
 こうした「テーゼ」は、公表されることが意図されてはいなかった。だが、<pravda>の編集長のブハーリンは、不注意で(彼の主張では)またはトロツキーを貶めるために(他者が信じたところでは)、機関紙に印刷した。
 1920年1月22日付の<pravda>で公表されたトロツキーの「テーゼ」へへは、激しい抗議の声が上がった。その中にはたいてい、「Arakcheebsh 陶器」という添え句が付いていた。
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 (15) レーニンは、説得された。国の経済のいっそうの悪化を阻止するという切迫した必要があったからだ。
 1919年12月27日、彼は労働義務委員会の設置に同意した。これの委員長は、戦時人民委員部の長官の地位を維持していたトロツキーだった。
 トロツキーの構想には、2組の手法が含まれていた。
 1. 前線にはもはや不要な軍団は、動員解除されない。そして、平時の労働軍へと改変され、線路床の改修、燃料の輸送、農業機具の修理のような任務が割当てられる。
 ウラルで戦闘をしていた第三軍団は、この改変が行なわれる最初の軍団だ。のちに、その他の軍団が、改編される。
 1921年3月には、赤軍の四分の一が、建設と輸送に雇用された。
 2. 同時に、全ての労働者と農民が軍事紀律に服する、とされた。
 この政策が激しい異論を生じさせた1920年の第9回党大会で、トロツキーは、政府は、必要な場合はいつでも、民間の労働者を自由に使えなければならない、と強く主張した。軍隊でと全く同じく、労働者の個人的な選好は考慮してはならない。
 「動員された」労働者は、労働人民委員部を通じて、要請している企業へと配置される。
 1922年にこの実験を振り返って、労働人民委員部のある官僚は、こう述べた。
 「我々は、計画に応じて、従って労働者の個別的な特性やあれこれの種類の仕事をしたいという希望を考慮することなく、労働力を供給した」(注137)。
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 (16) 労働軍も軍事化された労働者たちも、この政策の主唱者たちの期待を満足させなかった。
 元兵士の労働者たちは、訓練された民間人と比べてごく僅かの生産しかしなかった。彼らは、群れをなして脱走した。
 政府は、軍事化された労働者を管理し、食料を与え、輸送するということを企画するのに、克服し難い技術的な困難に直面した。
 したがって、スターリンやヒトラーによる奴隷労働の組織化の原型だったこの政策は、放棄されざるを得なかった。工業への動員は1921年10月21日に廃止され、労働軍も数ヶ月のちに解体された(注138)。
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 (17) この実験はトロツキーの信用を傷つけ、レーニンの後継者争いでの彼の地位を弱めた。失敗したという理由によるだけではなく、「ボナパルティズム」という追及に彼が傷つきやすくなったことにもよった。
 実際に、ロシアの経済がかりに軍事化されていれば、トロツキーに従った官僚たちは、民間部門で支配的な地位を獲得していただろう。
 悪態の言葉としての「トロツキズム」は、このような企図と関連して1920年代に頻繁に用いられた。
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 第八節、終わり。