Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
「第15章・“戦時共産主義“」の試訳のつづき。
————
第15章・第八節/反労働者立法②。
(08) 強制労働を導入する公式の理由は、計画化経済の必要条件だったことだ。
経済計画は、決して気まぐれに議論されたのではないが、労働が他の全ての経済資源と同じ統制を受けるのでなければ、達成することができなかった。
ボルシェヴィキは、権力掌握前の1917年4月にすでに、強制的労働義務の必要を語っていた(注126)。
戦争中の資本主義国ドイツでは強制労働の導入は労働者に対して「不可避的に制裁的な軍事上の労働役務(katorga)を意味した」のに対して、ソヴィエトによる支配のもとでは、同じ現象は社会主義に<向かう巨大な一歩>を示すものだ(注127)。こう言うことに、レーニンは何ら矛盾を感じていなかったようだ。
ボルシェヴィキは、彼らの言葉に忠実に、その最初の日に役所での労働徴用の意図をもっていることを宣告した。
1917年10月25日、臨時政府の打倒を発表したのとまさにほとんど時を措かずに、トロツキーは、第二回全国ソヴェト大会でこう言った。
「普遍的な労働義務の導入は、本当に革命的な政権の最も直近の目標のひとつだ」(注128)。
おそらく代議員のほとんどは、この言明は「ブルジョアジー」にのみ適用されると考えた。
そして、実際に、その独裁の最初の数ヶ月、レーニンは、個人的な敵愾心に駆られて、「ブルジョアジー」に屈辱を与えることから出発し、人々に慣れないまま退屈な雑用的手作業をすることを強いた。
銀行を国有化する布令(1917年12月)の草案に、彼はこう書いた。
「第6条: 普遍的労働義務。第一歩—消費者労働、富者のための安価労働による小冊子、彼らの統制。彼らの義務—指示どおりに働くこと、その他—『人民の敵』」。
欄外にこう付け加えた。「前線への派遣、強制労働、没収、逮捕(射撃による処刑)」(注122)。
のちに、着飾った者たちが監視されながら単調な義務を履行するのを見るのは、モスクワやペテログラードでの普通の光景になった。
こうした強制労働の利益はたぶん無に近かった。だが、「教育」目的に役立つこと、つまり階級憎悪を掻き立てることが意図されていた。
--------
(09) レーニンが示したように、これは第一歩にすぎなかった。
やがて、強制労働の原理は別の社会階層へも拡張された。
これが意味したのは、全ての成人が生産活動に従事しなければならないということだけでなく、全ての男女が命令を受けながら働かなければならない、ということだった。
ロシアを17世紀の実務へと戻すこの義務は、1918年1月に「労働者、被搾取階級の権利の宣言」として布令された。
これには、次の条項があった。
「民衆の中の寄生虫的分子を破壊するために、普遍的労働義務が導入される」(注130)。
この原理は1918年の憲法に挿入され、国の法となり、それ以来ずっと、「寄生虫」として国家による雇用を回避する者に対処する法的基礎として機能した。
--------
(10) 労働徴用の原理は、1918年の末には、実際的な詳細にまで練り上げられた。
1918年10月29日の布令は、「労働力を配分する」ための機関の全国的な網を定めた(注131)。
1918年12月10日、政府は詳細な「労働法典」を発した。これは、16歳から60歳までの間の全ての男女について、若干の例外はあるが、「労働役務」を履行すべきことを定めた。
すでに常勤の仕事に就いている者は、それにとどまるものとされた。
その他の者は、労働割当て部署(ORRS)に登録するものとされた。
この機関は、適当と考える誰をも、どこにでも割り当てる権限をもった。
--------
(11) 強制労働に関する布令は少数者(16歳から18歳までの子ども)に適用されたのみならず、特別の命令が、国家に対して特別の重要性をもつ工業または企業に雇用されている子どもたちに、超過労働をさせることを認めた(注132)。
--------
(12) 1918年の遅くまでに、ボルシェヴィキ当局が労働者や多様な分野の専門家をちょうど赤軍入隊者を徴兵するように動員することは、日常的な実務になった。
このような実務は、政府が労働者や経済の特定の分野の技術的専門家を「軍務のために動員」し、軍事裁判所に服させると発表することを意味した。つまり、割当てられた仕事を放棄した者は脱走兵として扱われた。
きわめて重要な分野の技術を持っているが今はそれを使わうことのできない仕事に雇用されている者は、登録して、召喚を待たなければならなかった。
「動員」されるべき最初の民間人は、鉄道労働者だった(1918年11月28日)。
その他の範疇は、つぎのとおり。
技術の教育と経験がある者(1918年12月)、医療従事者(1918年12月20日)、河川や海洋の船舶の被雇用者(1919年3月15日)、石炭労働者(1919年4月7日)、郵便・電信・電話の被雇用者(1919年5月5日)、燃料工業の労働者(1919年6月27日と11月8日)、綿工業労働者(1920年8月13日)、金属労働者(1920年8月20日)、電気工(1920年10月8日)。
このようにして、工業関係職業は徐々に「軍事化」され、兵士と労働者のあいだ、軍役者と民間人のあいだの区別は不明確になった。
工業労働者を軍隊を範型にして組織しようとする努力は、この問題に関する大量の布令があったことを見れば、十分に達成され得ることはなかったのだろう。氏名の公表から強制労働収容所への拘禁にまで及ぶ、「労働脱走者」に対するかつてない新しい制裁を設定したのだったが。(注134)
--------
③へつづく。
「第15章・“戦時共産主義“」の試訳のつづき。
————
第15章・第八節/反労働者立法②。
(08) 強制労働を導入する公式の理由は、計画化経済の必要条件だったことだ。
経済計画は、決して気まぐれに議論されたのではないが、労働が他の全ての経済資源と同じ統制を受けるのでなければ、達成することができなかった。
ボルシェヴィキは、権力掌握前の1917年4月にすでに、強制的労働義務の必要を語っていた(注126)。
戦争中の資本主義国ドイツでは強制労働の導入は労働者に対して「不可避的に制裁的な軍事上の労働役務(katorga)を意味した」のに対して、ソヴィエトによる支配のもとでは、同じ現象は社会主義に<向かう巨大な一歩>を示すものだ(注127)。こう言うことに、レーニンは何ら矛盾を感じていなかったようだ。
ボルシェヴィキは、彼らの言葉に忠実に、その最初の日に役所での労働徴用の意図をもっていることを宣告した。
1917年10月25日、臨時政府の打倒を発表したのとまさにほとんど時を措かずに、トロツキーは、第二回全国ソヴェト大会でこう言った。
「普遍的な労働義務の導入は、本当に革命的な政権の最も直近の目標のひとつだ」(注128)。
おそらく代議員のほとんどは、この言明は「ブルジョアジー」にのみ適用されると考えた。
そして、実際に、その独裁の最初の数ヶ月、レーニンは、個人的な敵愾心に駆られて、「ブルジョアジー」に屈辱を与えることから出発し、人々に慣れないまま退屈な雑用的手作業をすることを強いた。
銀行を国有化する布令(1917年12月)の草案に、彼はこう書いた。
「第6条: 普遍的労働義務。第一歩—消費者労働、富者のための安価労働による小冊子、彼らの統制。彼らの義務—指示どおりに働くこと、その他—『人民の敵』」。
欄外にこう付け加えた。「前線への派遣、強制労働、没収、逮捕(射撃による処刑)」(注122)。
のちに、着飾った者たちが監視されながら単調な義務を履行するのを見るのは、モスクワやペテログラードでの普通の光景になった。
こうした強制労働の利益はたぶん無に近かった。だが、「教育」目的に役立つこと、つまり階級憎悪を掻き立てることが意図されていた。
--------
(09) レーニンが示したように、これは第一歩にすぎなかった。
やがて、強制労働の原理は別の社会階層へも拡張された。
これが意味したのは、全ての成人が生産活動に従事しなければならないということだけでなく、全ての男女が命令を受けながら働かなければならない、ということだった。
ロシアを17世紀の実務へと戻すこの義務は、1918年1月に「労働者、被搾取階級の権利の宣言」として布令された。
これには、次の条項があった。
「民衆の中の寄生虫的分子を破壊するために、普遍的労働義務が導入される」(注130)。
この原理は1918年の憲法に挿入され、国の法となり、それ以来ずっと、「寄生虫」として国家による雇用を回避する者に対処する法的基礎として機能した。
--------
(10) 労働徴用の原理は、1918年の末には、実際的な詳細にまで練り上げられた。
1918年10月29日の布令は、「労働力を配分する」ための機関の全国的な網を定めた(注131)。
1918年12月10日、政府は詳細な「労働法典」を発した。これは、16歳から60歳までの間の全ての男女について、若干の例外はあるが、「労働役務」を履行すべきことを定めた。
すでに常勤の仕事に就いている者は、それにとどまるものとされた。
その他の者は、労働割当て部署(ORRS)に登録するものとされた。
この機関は、適当と考える誰をも、どこにでも割り当てる権限をもった。
--------
(11) 強制労働に関する布令は少数者(16歳から18歳までの子ども)に適用されたのみならず、特別の命令が、国家に対して特別の重要性をもつ工業または企業に雇用されている子どもたちに、超過労働をさせることを認めた(注132)。
--------
(12) 1918年の遅くまでに、ボルシェヴィキ当局が労働者や多様な分野の専門家をちょうど赤軍入隊者を徴兵するように動員することは、日常的な実務になった。
このような実務は、政府が労働者や経済の特定の分野の技術的専門家を「軍務のために動員」し、軍事裁判所に服させると発表することを意味した。つまり、割当てられた仕事を放棄した者は脱走兵として扱われた。
きわめて重要な分野の技術を持っているが今はそれを使わうことのできない仕事に雇用されている者は、登録して、召喚を待たなければならなかった。
「動員」されるべき最初の民間人は、鉄道労働者だった(1918年11月28日)。
その他の範疇は、つぎのとおり。
技術の教育と経験がある者(1918年12月)、医療従事者(1918年12月20日)、河川や海洋の船舶の被雇用者(1919年3月15日)、石炭労働者(1919年4月7日)、郵便・電信・電話の被雇用者(1919年5月5日)、燃料工業の労働者(1919年6月27日と11月8日)、綿工業労働者(1920年8月13日)、金属労働者(1920年8月20日)、電気工(1920年10月8日)。
このようにして、工業関係職業は徐々に「軍事化」され、兵士と労働者のあいだ、軍役者と民間人のあいだの区別は不明確になった。
工業労働者を軍隊を範型にして組織しようとする努力は、この問題に関する大量の布令があったことを見れば、十分に達成され得ることはなかったのだろう。氏名の公表から強制労働収容所への拘禁にまで及ぶ、「労働脱走者」に対するかつてない新しい制裁を設定したのだったが。(注134)
--------
③へつづく。



























































