Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
「第15章・“戦時共産主義“」の試訳のつづき。
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第15章・第五節/工業生産の低下。
(01) 戦時共産主義のもでのソヴィエト工業の狭い意味での目標は、もちろん、生産性の向上だった。
しかし、統計上の証拠が示しているのは、この政策の効果は反対だった、ということだ。
ボルシェヴィキによる経営のもとで、工業生産性はたんに低下したのではなかった。すなわち、かりに同じ過程が進行していたならば、1920年代半ばまでにソヴィエト・ロシアにはどんな工業もなくなってしまうことを示唆する、そのような割合で落ち込んだ。
このような現象を示す、いくつかの統計資料がある。
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「I. 全国の大工業生産(脚注1)
1913 100
1917 77
1919 26
1920 18」
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「II. 1920年の特定工業製品の生産量(1913=100)(注94)
石炭 27.0
鉄鋼 2.4
綿糸 5.1
石油 42.7」
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「III. ロシアの労働者の生産性(固定のルーブルで)(注95)
1913 100
1917 85
1918 44
1919 22
1920 26」
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「IV. 被雇用工業労働者数(脚注2)
1918 100
1919 82
1920 77
1921 49」
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(脚注1) Kritsman, Geroicheskii period, p. 162. Narodnoe Khoziaistvo SSSR v 1958 god u(Moscow, 1959), p. 52-53 の数字によると、1921年の全工業生産は1913年比で69パーセント減少し、重工業生産は79パーセント減少した。
(脚注2) A. Alu f, cited in S. V Olin, DeiateVnosf menshevikov v profsoiuzakh pri sovetskoi vlasti, Inter-University Project on the History of the Menshevik Movement, Paper No.13(New York, 1962),p. 87. もちろん、ここで基礎年にしている1918年までに、被雇用労働者の数は、1913-14年と比べて、相当に減少していた。
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(02) 要するに、戦時共産主義のもとで、ロシアの「プロレタリアート」数は二分の一に、工業生産高は四分の三に落ち、工業生産性は70パーセントが失われた。
この破滅を見て、レーニンは1921年にこう叫んだ。
「プロレタリアートとは何だ?
大規模工業に就労する階級だ。
そして、どこに大規模工業があるのか?
どんな種類のプロレタリアートなのか?
おまえの(原文ママ)工業はどこにあるのか?
なぜ、怠惰なのか?」(注96)
これらの修辞的質問に対する回答は、レーニンが承認していたユートピア的構想が、ロシアの工業を破壊し、ロシアの労働者階級を殺した、ということだった。
しかし、この工業力低下の時期のあいだに、経済に責任を負う官僚機構の維持のための出費は、飛躍的に増大した。1921年までに、それは予算の75.1パーセントを占めた。
ロシアの工業を管理した最高経済会議の人員について言えば、それはこの期間に100倍に増えた(脚注)。
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(脚注) Buryshkin, EV, No. 2(1923), p. 141. 最高経済会議の被雇用者の数字は、1918年3月に318人、1921年に3万人だ。
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第六節につづく。
「第15章・“戦時共産主義“」の試訳のつづき。
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第15章・第五節/工業生産の低下。
(01) 戦時共産主義のもでのソヴィエト工業の狭い意味での目標は、もちろん、生産性の向上だった。
しかし、統計上の証拠が示しているのは、この政策の効果は反対だった、ということだ。
ボルシェヴィキによる経営のもとで、工業生産性はたんに低下したのではなかった。すなわち、かりに同じ過程が進行していたならば、1920年代半ばまでにソヴィエト・ロシアにはどんな工業もなくなってしまうことを示唆する、そのような割合で落ち込んだ。
このような現象を示す、いくつかの統計資料がある。
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「I. 全国の大工業生産(脚注1)
1913 100
1917 77
1919 26
1920 18」
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「II. 1920年の特定工業製品の生産量(1913=100)(注94)
石炭 27.0
鉄鋼 2.4
綿糸 5.1
石油 42.7」
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「III. ロシアの労働者の生産性(固定のルーブルで)(注95)
1913 100
1917 85
1918 44
1919 22
1920 26」
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「IV. 被雇用工業労働者数(脚注2)
1918 100
1919 82
1920 77
1921 49」
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(脚注1) Kritsman, Geroicheskii period, p. 162. Narodnoe Khoziaistvo SSSR v 1958 god u(Moscow, 1959), p. 52-53 の数字によると、1921年の全工業生産は1913年比で69パーセント減少し、重工業生産は79パーセント減少した。
(脚注2) A. Alu f, cited in S. V Olin, DeiateVnosf menshevikov v profsoiuzakh pri sovetskoi vlasti, Inter-University Project on the History of the Menshevik Movement, Paper No.13(New York, 1962),p. 87. もちろん、ここで基礎年にしている1918年までに、被雇用労働者の数は、1913-14年と比べて、相当に減少していた。
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(02) 要するに、戦時共産主義のもとで、ロシアの「プロレタリアート」数は二分の一に、工業生産高は四分の三に落ち、工業生産性は70パーセントが失われた。
この破滅を見て、レーニンは1921年にこう叫んだ。
「プロレタリアートとは何だ?
大規模工業に就労する階級だ。
そして、どこに大規模工業があるのか?
どんな種類のプロレタリアートなのか?
おまえの(原文ママ)工業はどこにあるのか?
なぜ、怠惰なのか?」(注96)
これらの修辞的質問に対する回答は、レーニンが承認していたユートピア的構想が、ロシアの工業を破壊し、ロシアの労働者階級を殺した、ということだった。
しかし、この工業力低下の時期のあいだに、経済に責任を負う官僚機構の維持のための出費は、飛躍的に増大した。1921年までに、それは予算の75.1パーセントを占めた。
ロシアの工業を管理した最高経済会議の人員について言えば、それはこの期間に100倍に増えた(脚注)。
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(脚注) Buryshkin, EV, No. 2(1923), p. 141. 最高経済会議の被雇用者の数字は、1918年3月に318人、1921年に3万人だ。
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第六節につづく。



























































