Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
<第15章・“戦時共産主義“>の試訳のつづき。
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第15章・第四節/最高経済会議の設立③。
(13) 外国には、この巨大な「社会主義建設」の企ては、大きな印象を与えた。
西側でのソヴィエトの政治宣伝は、全てを見通す政府の慈悲ある目のもとでのロシア産業の「合理化」について、熱情的に語った。しかし、強調されたのは実績ではなく、内容だった。
ロシアの産業がいかに規整されているかを示す図表は、戦後世界の混乱に対処している多くの西側の人々の称讃を掻き立てた。
しかし、ロシアの内部では、新聞や雑誌、そして党大会での報告から、全く異なる像が浮かび上がった。
経済計画という主張は、茶番劇だったと判った。すなわち、1921年に、トロツキーは、中央計画は存在しないこと、「中央化」はせいぜい5-10パーセントしか実現されていないこと、を確認した(注83)。
1920年遅くの<プラウダ>上の一論考は、明け透けに、こう認めた。<khoziaistvennogo plana net>(「経済計画は存在していない」)(注84)。
最高経済会議の<glavki>は、それが責任をもつべき産業の諸条件について、きわめて漠然とした考えしかもっていなかった。
「一つの<glavka>または<tsentr>ですら、国の産業と生産を正しく規整することを可能にする適切で包括的なデータをきちんと処理していない。
数十の組織が、似たような情報を収集するという平行で同じ作業を行なっている。その結果として、全体としては、似ていないデータを掻き集めている。…
会計は不正確に行なわれ、ときどきは記帳された物品の80-90パーセントが、関係する組織の管理を免れている。
会計処理がなされていない物品は、乱暴で無制限の投機の対象になり、最終的に消費者に届くまで、何十回も手から手へと渡される」(注85)。
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(14) 最高経済会議の地域支部については、これらとモスクワの本部との間には恒常的な摩擦がある、と言われていた(注86)。
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(15) 要するに、当時の説明文書によると、最高経済会議は、管理されずに干渉し合う、主要な役割は数千人の知識人への生活の糧の提供である、そのような奇怪な官僚制的混乱物だった。
1920年の初頭に、会議の地域支部と地方ソヴェトの経済担当部署は、ほとんど2万5000人に雇用を提供していた(注87)。その圧倒的大部分は、知識人だった。
官僚制的膨張のそのままの例は、ベンゼン・トラスト(Glavanil)だった。これの職員名簿には、150人の労働者を雇用する工場施設を監視するための、50人の官僚たちが載っていた(脚注)。
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(脚注) Litvinov, in Prau da, No. 262(1920年11月21日), p.1. Scheibert 教授(Lenin, p. 210)は間違って、「ヴァニラ・トラスト」を意味する頭文字だと解読している。
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最高経済会議の官僚の一人は、彼が所属した部署の類型について、彩り豊かな叙述を残した。
共産主義政府の他の機関については知られていない叙述なので、引用しておくに値する。
「下級の職は、主として多数の若い女性、男性、以前の帳簿係、店員、書記、あるいは大学、高校や『外部の』学生に占められていた。
この若者たちの集団は、比較的に高い給料でかつ要求される労働量の少ない業務に魅かれていた。
彼らは一日じゅう、大きな建物の多数の廊下でぶらぶらしながら過ごした。
彼らはいちゃつき、共同施設でキャンディやナッツを買うために走り出し、1人だけが何とか手にするだけの劇場券や肉の煮付けを仲間うちで配り、こうした商業的行為に付きもの一種として、ボルシェヴィキを呪った。」…
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「つぎの最も数の多い[被雇用者の]類型は、帝制時代の省庁の一時的な官僚で成っていた。
ソヴィエトの業務に加わるに際しての彼らの動機は、物質的必要か、それ以上に、手慣れた仕事をしたいという願望か、のいずれかだった。そのような仕事に、彼らは人生の10年間以上を捧げてきたのだ。
『発出』または『受取』の素材、『備忘録』、『報告書』、書記上の些細な知恵に、彼らはどのような情熱を持って取り組んだのかを、把握しなければならない。パンや靴がないままで生活することよりも、事務作業の雰囲気がない所で生きていくことの方が困難だと彼らは知ったということを、理解しなければならない。
このような人々は、実直に業務を遂行しようとした。
彼らは、最も早く来て、最も遅く去る人々だった。彼らは、鎖で縛られているように、その職に執着した。
しかし、おそらく正確には、信じ難い愚かさ以外に彼らの仕事の実直さは存在しなかった、という理由でだろう。
上級機関の無秩序と衝動性が、彼らが取り組んだ『受取』素材や『備忘録』等の全てに、愛情溢れた気配りを混ぜ込んだ、という理由でだろう。…」
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「最後に、中間層の官僚たちのうちの非共産党多数派やより上級の官僚たちの一部は、さまざまなタイプの知識層で成っていた。
そこには、いわばロマンティックな性質があり、そのために敵の要塞の中で行なう業務には、大きな冒険の風味があった。
原理をもたず、自分たち自身の幸福以外には世界の全てに無関心な人々が、そこにはいた。
暗黒と混乱の覆いのもとで、価値があるもの全てを略奪することができるように、ボルシェヴィキの混沌に身を寄せる、そのような普通のいかがわしい人々が、そこにはいた。
別のタイプの人々もいた。貴重だと考える仕事を回収することを望む専門家たち。また、私自身のように、『体制を柔和にする(soften)』ことを目的として、加わった者たち。」(注88)
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(16) レーニンの、「単一計画」にもとづき作動する「単一の巨大な機構に国家の経済機構全体を変える」という考えについては、多くのことを語り得る。
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(17) ボルシェヴィキは、労働者支配の広がりのあとの経営者による混乱を、いくぶんかうまく克服するのに成功した。
1917年十月直前および直後の、体制のサンディカリズム的政策は、労働者をメンシェヴィキから切り離す道具だった。これは、ボルシェヴィキが工場委員会で多数派になるのを助けた。
ブレスト条約の調印のあとでは、「ブルジョア専門家」を雇用しての個人による工業経営という伝統的手法へ回帰することが、決定された。
トロツキーは1918年3月に、レーニンは5月に、これについて語った(注89)。
実際に、以前の所有者や経営者の多くは彼らの仕事を決して捨てなかったが、1918年6月28日の国有化布令の条件で、それは禁止された。
最高経済会議は、これらの人々で充ちた。
シベリアからのある訪問者は、つぎのことに気づいた。
「多くのモスクワの<tsen try>や<glavki>の長には、以前の雇用者、経営者および権限ある官僚が就いている。…」。
「個人的に従前の商業や工業の世界を知っていた、準備のない訪問者は、従前の皮革工場の所有者がGlavkozh[皮革シンジケート]にいること、大製造業者が中央織物組織にいること、等々を見て、驚いただろう」(注90)
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(18) レーニンとトロツキーは、「社会主義」の信条で「ブルジョア専門家」の技巧を利用する必要性を主張しつづけた。しかし、これは、左翼共産主義者、労働組合官僚、工場委員会からの抵抗に遭遇した、
かつての「資本主義」エリートたちが彼らの専門性のゆえにソヴィエトの産業界で享有している権力や特権を不愉快に感じて、彼らは、旧エリートたちに嫌がらせを行ない、彼らを威嚇した(注91)。
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(19) 内戦が終了するまで、政府には、個人による管理という原則を実施するのに多大の困難があった。
1919年に、工業施設の10.8パーセントだけに、個人の管理者がいた。
しかし、1920-21年に、政府は力強く運動を再開し、1921年末には、ロシアの工場の90.7パーセントは、個人管理者のもとで稼働していた(注92)。
しかしながら、「合議制の」管理を擁護する主張は消え去ることがなかった。その主張者たちは、個人の管理は労働者を体制から遠ざける、「資本主義者」が、国家に奉仕しているという偽装のもとで、収用された工場施設の支配権を保持するのを許している、と議論した(注93)。
やがて、こうした議論は、いわゆる労働者反対派によって全国レベルにまで高められることになる。
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第四節、終わり。
<第15章・“戦時共産主義“>の試訳のつづき。
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第15章・第四節/最高経済会議の設立③。
(13) 外国には、この巨大な「社会主義建設」の企ては、大きな印象を与えた。
西側でのソヴィエトの政治宣伝は、全てを見通す政府の慈悲ある目のもとでのロシア産業の「合理化」について、熱情的に語った。しかし、強調されたのは実績ではなく、内容だった。
ロシアの産業がいかに規整されているかを示す図表は、戦後世界の混乱に対処している多くの西側の人々の称讃を掻き立てた。
しかし、ロシアの内部では、新聞や雑誌、そして党大会での報告から、全く異なる像が浮かび上がった。
経済計画という主張は、茶番劇だったと判った。すなわち、1921年に、トロツキーは、中央計画は存在しないこと、「中央化」はせいぜい5-10パーセントしか実現されていないこと、を確認した(注83)。
1920年遅くの<プラウダ>上の一論考は、明け透けに、こう認めた。<khoziaistvennogo plana net>(「経済計画は存在していない」)(注84)。
最高経済会議の<glavki>は、それが責任をもつべき産業の諸条件について、きわめて漠然とした考えしかもっていなかった。
「一つの<glavka>または<tsentr>ですら、国の産業と生産を正しく規整することを可能にする適切で包括的なデータをきちんと処理していない。
数十の組織が、似たような情報を収集するという平行で同じ作業を行なっている。その結果として、全体としては、似ていないデータを掻き集めている。…
会計は不正確に行なわれ、ときどきは記帳された物品の80-90パーセントが、関係する組織の管理を免れている。
会計処理がなされていない物品は、乱暴で無制限の投機の対象になり、最終的に消費者に届くまで、何十回も手から手へと渡される」(注85)。
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(14) 最高経済会議の地域支部については、これらとモスクワの本部との間には恒常的な摩擦がある、と言われていた(注86)。
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(15) 要するに、当時の説明文書によると、最高経済会議は、管理されずに干渉し合う、主要な役割は数千人の知識人への生活の糧の提供である、そのような奇怪な官僚制的混乱物だった。
1920年の初頭に、会議の地域支部と地方ソヴェトの経済担当部署は、ほとんど2万5000人に雇用を提供していた(注87)。その圧倒的大部分は、知識人だった。
官僚制的膨張のそのままの例は、ベンゼン・トラスト(Glavanil)だった。これの職員名簿には、150人の労働者を雇用する工場施設を監視するための、50人の官僚たちが載っていた(脚注)。
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(脚注) Litvinov, in Prau da, No. 262(1920年11月21日), p.1. Scheibert 教授(Lenin, p. 210)は間違って、「ヴァニラ・トラスト」を意味する頭文字だと解読している。
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最高経済会議の官僚の一人は、彼が所属した部署の類型について、彩り豊かな叙述を残した。
共産主義政府の他の機関については知られていない叙述なので、引用しておくに値する。
「下級の職は、主として多数の若い女性、男性、以前の帳簿係、店員、書記、あるいは大学、高校や『外部の』学生に占められていた。
この若者たちの集団は、比較的に高い給料でかつ要求される労働量の少ない業務に魅かれていた。
彼らは一日じゅう、大きな建物の多数の廊下でぶらぶらしながら過ごした。
彼らはいちゃつき、共同施設でキャンディやナッツを買うために走り出し、1人だけが何とか手にするだけの劇場券や肉の煮付けを仲間うちで配り、こうした商業的行為に付きもの一種として、ボルシェヴィキを呪った。」…
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「つぎの最も数の多い[被雇用者の]類型は、帝制時代の省庁の一時的な官僚で成っていた。
ソヴィエトの業務に加わるに際しての彼らの動機は、物質的必要か、それ以上に、手慣れた仕事をしたいという願望か、のいずれかだった。そのような仕事に、彼らは人生の10年間以上を捧げてきたのだ。
『発出』または『受取』の素材、『備忘録』、『報告書』、書記上の些細な知恵に、彼らはどのような情熱を持って取り組んだのかを、把握しなければならない。パンや靴がないままで生活することよりも、事務作業の雰囲気がない所で生きていくことの方が困難だと彼らは知ったということを、理解しなければならない。
このような人々は、実直に業務を遂行しようとした。
彼らは、最も早く来て、最も遅く去る人々だった。彼らは、鎖で縛られているように、その職に執着した。
しかし、おそらく正確には、信じ難い愚かさ以外に彼らの仕事の実直さは存在しなかった、という理由でだろう。
上級機関の無秩序と衝動性が、彼らが取り組んだ『受取』素材や『備忘録』等の全てに、愛情溢れた気配りを混ぜ込んだ、という理由でだろう。…」
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「最後に、中間層の官僚たちのうちの非共産党多数派やより上級の官僚たちの一部は、さまざまなタイプの知識層で成っていた。
そこには、いわばロマンティックな性質があり、そのために敵の要塞の中で行なう業務には、大きな冒険の風味があった。
原理をもたず、自分たち自身の幸福以外には世界の全てに無関心な人々が、そこにはいた。
暗黒と混乱の覆いのもとで、価値があるもの全てを略奪することができるように、ボルシェヴィキの混沌に身を寄せる、そのような普通のいかがわしい人々が、そこにはいた。
別のタイプの人々もいた。貴重だと考える仕事を回収することを望む専門家たち。また、私自身のように、『体制を柔和にする(soften)』ことを目的として、加わった者たち。」(注88)
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(16) レーニンの、「単一計画」にもとづき作動する「単一の巨大な機構に国家の経済機構全体を変える」という考えについては、多くのことを語り得る。
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(17) ボルシェヴィキは、労働者支配の広がりのあとの経営者による混乱を、いくぶんかうまく克服するのに成功した。
1917年十月直前および直後の、体制のサンディカリズム的政策は、労働者をメンシェヴィキから切り離す道具だった。これは、ボルシェヴィキが工場委員会で多数派になるのを助けた。
ブレスト条約の調印のあとでは、「ブルジョア専門家」を雇用しての個人による工業経営という伝統的手法へ回帰することが、決定された。
トロツキーは1918年3月に、レーニンは5月に、これについて語った(注89)。
実際に、以前の所有者や経営者の多くは彼らの仕事を決して捨てなかったが、1918年6月28日の国有化布令の条件で、それは禁止された。
最高経済会議は、これらの人々で充ちた。
シベリアからのある訪問者は、つぎのことに気づいた。
「多くのモスクワの<tsen try>や<glavki>の長には、以前の雇用者、経営者および権限ある官僚が就いている。…」。
「個人的に従前の商業や工業の世界を知っていた、準備のない訪問者は、従前の皮革工場の所有者がGlavkozh[皮革シンジケート]にいること、大製造業者が中央織物組織にいること、等々を見て、驚いただろう」(注90)
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(18) レーニンとトロツキーは、「社会主義」の信条で「ブルジョア専門家」の技巧を利用する必要性を主張しつづけた。しかし、これは、左翼共産主義者、労働組合官僚、工場委員会からの抵抗に遭遇した、
かつての「資本主義」エリートたちが彼らの専門性のゆえにソヴィエトの産業界で享有している権力や特権を不愉快に感じて、彼らは、旧エリートたちに嫌がらせを行ない、彼らを威嚇した(注91)。
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(19) 内戦が終了するまで、政府には、個人による管理という原則を実施するのに多大の困難があった。
1919年に、工業施設の10.8パーセントだけに、個人の管理者がいた。
しかし、1920-21年に、政府は力強く運動を再開し、1921年末には、ロシアの工場の90.7パーセントは、個人管理者のもとで稼働していた(注92)。
しかしながら、「合議制の」管理を擁護する主張は消え去ることがなかった。その主張者たちは、個人の管理は労働者を体制から遠ざける、「資本主義者」が、国家に奉仕しているという偽装のもとで、収用された工場施設の支配権を保持するのを許している、と議論した(注93)。
やがて、こうした議論は、いわゆる労働者反対派によって全国レベルにまで高められることになる。
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第四節、終わり。



























































