Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
  <第15章・“戦時共産主義“>の試訳のつづき。
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 第15章・第三節/通貨廃止の試み②
 (11) レーニンは、財政問題についてはかなり保守的だった。その立場を主張し続けていれば、ソヴィエト・ロシアは最初から、徴税と予算策定制度について伝統的な手法を採用していただろう。
 彼は、予算上の混乱を心配した。
 1918年5月に、何であれ今ある実業界の重要性をいつものように強調して、次のように警告した。
 「財政政策をうまく実施しなければ、全ての我々の急進的な改革は失敗だと非難される。
 社会主義のモデルによる社会の再組織について我々が想定する莫大な努力が成功するか否かは、まさにこの〔財政上の〕任務にかかっている。」(注36)
 しかし、レーニンはこの問題に時間を割く余裕がなかったので、異なる考え方をもつ仲間たちにこれを委ねた。
 同僚たちは、貨幣と財政をすっかり廃止しようとした。国家支配の生産と配分にもとづく経済を創出するためだった。
 1918年の後半、ソヴィエトの出版物には、このような経済観を促進する多数の論文が掲載された。それらは、ブハーリン、Larin、Osinskii、Preobrazhenskii、A. V. Chaianov のようなボルシェヴィキの論客たちの支持を受けた(脚注)
 彼らの考え方は、紙幣を無制限に発行することで、通貨を無価値にすることだった。
 貨幣に代わるのは、1832年にRobert Owen の<労働交換銀行>で発行されたものに類似した、「労働単位」だとされた。これは相当する商品とサーヴィスの量について資格がある者が使用した労働量を示す代替券(token)だった。
 Owen の実験は、1848年の革命時にフランスで導入されたLouis Blanc の<ateliers sociaux>がそうだったように、無惨に失敗した(Owen の銀行は2週間後に閉鎖された)。
 ロシアの急進的知識人たちは、怯むことなく、この途を歩んだ。
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 (脚注) 企てられた貨幣なき経済の理論的基礎を概観したものは、次に見出され得る。Iurovskii, Denezhnaia poli tika, p. 88-125. この主題に関するボルシェヴィキの考え方に圧倒的な影響力をもったのは、ドイツの社会学者、Otto Neurath だった。
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 (12) ボルシェヴィキ党(共産党)は、1919年3月に採択した新綱領で、通貨の廃止を目標とすると宣言した。
 新綱領では、貨幣の廃止はまだ実現可能ではないが、党はこれを達成することを決意している、と述べられた。
 「計画に従って経済が組織される程度において、銀行は廃止され、共産主義社会の中央記帳局に変わるだろう」(注37)。
 これに応じて、ソヴィエトの財務人民委員部は、自分たちの任務は余計なものになる、と宣言した。
 「社会主義の共同社会では、財政は存在しない。ゆえに私は、この主題について語るのを詫びなければならない」(脚注)
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 (脚注) S. S. Katzenellenbaum, Russian Currency and Banking, 1914-1924(London, 1925), p. 98n. この証拠からすると、ロシアの通貨の全面的な価値下落へと至るボルシェヴィキの財政政策は、計画や政策の結果ではなく、絶望的な需要に対する反応の結果だった、とするCarr の主張(Revolution, II, p.246-7, p.261)に同意するのは不可能だ。
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 (13) その結果は、最後には「色の付いた紙」に変わるまで、ロシアの貨幣の価値下落を加速することだった。
 ソヴィエト・ロシアで1918-22年に起きたインフレは、ヴァイマール・ドイツがすぐのちに経験することになる、もっとよく知られてているインフレにほとんど匹敵するものだった。
 このインフレは、意図的に、印刷機が吐き出すことのできるだけの紙幣が国じゅうを埋めつくすことによって、発生した。
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 (14) ボルシェヴィキがペテルブルクで権力を奪取したとき、ロシアで流通している紙幣は、総額196億ルーブルだった(注38)。
 大量のそれは、「Nicholaevsky」として一般に知られた、帝政期のルーブル紙幣だった。
 臨時政府が発行した、「ケレンスキー」または「Dumki」と呼ばれたルーブル紙幣もあった。
 後者は、片面だけに印刷された簡素な札で、通し番号、署名、発行者名はなく、ルーブルの価額と偽造に対する制裁を示す警告だけが記載されていた。
 1917年と1918年初頭、「ケレンスキー」は帝制ルーブルよりも少し割り引かれて流通していた。
 ボルシェヴィキは、国立銀行と国庫を奪取した後でも、「ケレンスキー」をその外形を変更することなく発行しつづけた。
 一年半のあいだ(1919年2月まで)、ボルシェヴィキ政府は、それ自身の通貨を発行しなかった。これは主権が持つ通貨発行の伝統的権利を行使しないという驚くべきことだった。そして、一般国民が、とくに農民が、それを受け入れるのを拒むだろうという恐怖によってのみ、説明することができる。
 1917年十月以降は徴税制度は完全に破綻し、租税以外の収入では政府の需要を充たさなかったので、ボルシェヴィキは印刷機に頼った。
 1918年の前半、人民銀行は毎月20-30億ルーブルを、信用保証は何もなく、発行した(脚注1)
 1918年10月、ソヴナルコムは、従前に臨時政府が公認していた165億ルーブルから335億ルーブルにまで、信用保証なき銀行券の流通量を引き上げた。これは長く続いた。
 1919年1月、ソヴィエト・ロシアには、613億ルーブルが流通していた。そのうち三分の二は、ボルシェヴィキが発行した「ケレンスキー」だった。
 その翌月、政府は、「会計券(accounting token)」と呼ばれる、最初のソヴィエト紙幣を発行した(脚注2)
 この新しい通貨は、「Nicholaevki」や「ケレンスキー」と並んで流通した。但し、これらに比べて大きく割り引かれた。
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 (脚注1) この無責任な財政政策について金融市場がほとんど注目しなかったことは、そしてじつに、それがボルシェヴィズムに順応する用意が相当にあったことは、驚くべきほどだ。当時の新聞(NV, No.102/126, 1918年6月27日, 3頁)によると、1918年6月に、1ドルにつき12.80ルーブルで、ロシアでアメリカ通貨を購入することができた。これは、1917年11月と同じ交換比率だった。
 (脚注2) 革命期のロシア通貨を再現したものは、N. D. Mets, Nash rub V(Moscow, 1960)で見られる。Katzenellenbaum によれば、最も早いソヴィエトの通貨は、1918年半ばにPenza で現れた(Russian Currency, p. 81)。
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 (15) 1919年初め、インフレはますますひどくなっていたが、先にある醜悪な次元にはまだ達していなかった。
 1917年と比較して、物価の指標は15倍に昇った。1913年を100とすれば、1917年10月には755、1918年10月には10,200、1919年10月には92,300 と増大した(注40)。
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 (16) そして、ダムは決壊した。
 1919年5月15日、人民銀行には、その見解によれば国民経済が必要とするだけの貨幣を、発行する権限が与えられた(注41)。
 そのとき以降、「色の付いた紙」の印刷は、ソヴィエト・ロシアで最大の産業に、そしておそらくは唯一の成長産業になった。
 1919年の末、貨幣製作所は1万3616人を雇用していた(注42)。
 貨幣の発行を唯一制約するものは、用紙とインクの不足だった。政府はときには、印刷用品を外国から購入するための金塊を割当てなければならなかった(注43)。
 そうであってすら、印刷は需要に追いつくことができなかった。
 Osinskii によれば、1919年の後半、「国庫の活動」—換言すると「貨幣の印刷」—は、予算上の歳出の45から60パーセントまでの間を消費した。このことは、予算を均衡させる手段として!迅速に貨幣を排除しなければならないという彼の主張の論拠として役立った(注44)。
 1919年のあいだに、流通している紙幣の量はほとんど4倍になった(613億ルーブルから2250億ルーブルへ)。
 1920年には、そのほとんど5倍になった(1兆2000億ルーブルへ)。
 1921年の前半には、さらにその2倍になった(2兆3000億ルーブルへ)(注45)。
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 ③につづく。