Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
  <第15章・“戦時共産主義“>の試訳のつづき。
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 第15章・第三節/通貨廃止の試み①。
 (01) このような性質は、通貨のない経済の導入を意図した初期のボルシェヴィキの財政実験に、最もよく表れていた。
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 (02) マルクスは、貨幣の性格と機能に関して、大量の、込み入った馬鹿げたことを書いた。彼はその際、Feuerbach の「投影」と「物神」(fetisches)という概念を採用した。
 マルクスは通貨を「人類の疎外された能力」、「人間の自然の本性」の全てを「混乱させる」もの、「労働の結晶」、人間から離れて支配するようになる「怪物」と、さまざまに定義した。
 こうした考えは、貨幣を持たず、それを稼ぐ方法を知らないが、貨幣がもたらす影響と充足を切望する知識人たちにはきわめて魅力的だった。
 知識人たちが経済史にもっと通暁していたならば、「貨幣」と称するかは別として、労働の分配や商品およびサービスの交換を実際に行なっている全ての社会に、一定の測定単位が存在したことに気づいただろう。
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 (03) このような考えの魔法のもとで、ボルシェヴィキは、貨幣の役割を高く評価しすぎ、一方で低く評価しすぎた。
 「資本主義」経済の観点では高く評価しすぎた。それを彼らは、財政装置によって全体的に支配されているものと考えた。
 「社会主義」経済の観点では低く評価しすぎた。それを彼らは、貨幣なしで済ませることができるものと信じた。
 ブハーリンやPreobrazhenskii が述べたように、「共産主義社会は、金銭について何も知らないだろう」(注29)。
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 (04) ロシアの諸銀行を掌握すれば一瞬にして国の産業と取引の支配権を握ることが可能になる、というのは、Hilferding の理論に由来した(脚注1)
 これによって、ロシアはすみやかに社会主義になる—銀行の国有化は「社会主義の十分の九」を達成するだろう—とのレーニンの楽観主義が説明される。
 Olenskii も同様に、銀行は最も重要な唯一の手段だと宣告した(脚注2)
 このような方法によるロシアの資本主義経済の迅速で簡単な克服という見込みは完全に幻想だった、と判明した。しかし、ボルシェヴィキ党は頑なに、Hilferding の理論に執着した。
 1919年に採択した新しい綱領は、ロシアの国立および商業銀行の国有化によって、ソヴィエト政府は「銀行を金融資本主義の支配センターから労働者の活力の武器、経済革命の梃子に変える」(注30)、と主張した。
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 (脚注1) Hilferding によると、1910年にベルリンの大銀行のうち6銀行が、ドイツの産業のほとんどを支配していた。
 (脚注2) ドイツの銀行のように、ロシアの銀行は、工業、商業上の起業に直接に関与し、これら企業が発行する有価証券や社債で相当の金融資産を有していた。こうしたことは、彼の見解に、信頼できそうだとの印象を与えた。
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 (05) ボルシェヴィキの理論家たちは、「色付き紙」に価値を下げ、配給券による商品の配分の総合的制度に置き換えることで、貨幣を完全に一掃してしまうことを望んだ。
 1918-20年のソヴィエトの公刊物では、多数の論文が、貨幣の消失は不可避だと論じた。
 以下は、恰好の例だ。
 「社会化された経済の強化と配分に関する包括的計画の導入と並んで、金銭券(つまり通貨)の必要は消滅するに違いない。
 社会化された経済での流通が徐々に消失して、通貨は、私的生産者に対する政府の直接の影響力の外にある資産に変わる。
 通貨の量が継続的に増加してその発行の必要が継続するにもかかわらず、通貨は、国民経済の全体的動向の中では、つねに消滅していく役割しか果たさなくなる。
 このいわば、客観的な通貨の価値下落は、さらに勢いづいて、社会化された経済が強化され、発展して、小さな私的生産者たちの拡大する分野がその軌道内に抑え込まれるまでになる。そして、ついには、私的生産性に対する国家の生産性の決定的な勝利のあとで、通貨の着実な、流通からの撤退が、移行期を経て通貨なき配分へと至る可能性が現出するだろう(注31)」。
 マルクス主義者が好んだ専門術語で、著者は、通貨はまだ失くならない、「小さな私的生産者」(農民と読む)が国家統制の外になおも残っており、彼らにまだ支払わなければならないから、と言っていた。
 通貨は、「私的生産」に対する「国家生産」の決定的な勝利によってのみ余分なものになる。—言い換えると、農業の完全な集団化のあとでのみ。
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 (06) ボルシェヴィキが通貨を排除するのに失敗した理由として挙げていた標準的なものは、ほとんど全ての食糧生産を含む経済の多くは、国有化のための種々の布令を発したあとですら、私人の手に残ったままだ、というものだった。
 Osinskii によると、「二重経済」の存在—国有と私有—は、「不確定な時期」のための貨幣制度の維持を余儀なくさせていた(注32)。
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 (07) しかしながら、実際には、農民は彼らの生産物を滑稽なほどに低価格で売却していたので、このような考察には、公式の説明と言えるほどの真摯さが欠けていた。
 レーニンは、1920年の夏に、財務部によって印刷される大量の紙幣は、食糧を購入するためではなく、労働者や公務員の給料を支払うために使われていることを認めた。
 彼の推定では、ソヴィエト・ロシアには1000万人の賃金労働者がおり、毎月に平均4万ルーブルを受け取っていた。総計では4000億ルーブルになる。
 この数字と比べると、食糧の代償として農民たちに支払われる金銭は微細なものだった。
 Larin は、固定価格(1918-20年)で得られる食料全部のために、政府は200億ルーブルも使っていない、と見積もった(注33)。
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 (08) ボルシェヴィキがペテログラードで権力を掌握したあとすぐに銀行を国有化できなかったのは、ボルシェヴィキを正当な政府だと承認するのを、銀行界がほとんど満場一致で拒んだからだった。
 既述のように、この反対の立場は、やがて崩れた。
 1917-18年の冬の終わりに、全ての銀行が国有化された。
 国立銀行(the State Bank)は人民銀行(the People’s Bank)と改称され、他の信用機関の責任も負わされた。
 1920年までに、人民銀行と決済機関として機能したその支店を除き、全ての銀行が閉鎖された。
 金庫は開放が命じられ、そこから発見された金は、大量の現金や有価証券とともに、没収された。
 こうした措置は、ボルシェヴィキの期待をほとんど満足させなかった。結果としての収穫は、信用から排除するためにロシアの事業界を政府が統制できるほどに大きくはなかったからだ。
 これは、新しい体制にとって、苦い失望だった(注34)。
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 (09) ボルシェヴィキ政府は、財政上は、長いあいだ混乱の状態にあった。
 1917年の十月後に租税制度はほとんど破綻し、歳入はごく僅かになった。
 政府は、できるかぎりのことをして切り抜けた。
 流通貨幣として政府が頼ったのは、ケレンスキーの「自由ローン」に由来するクーポン券だった。
 通常の予算に僅かにでも似たものは、何もなかった。
 1918年5月の財務人民委員部の推測(原文ママ)では、政府はそれまでの半年間に200-250億ルーブルを費やし、50億ルーブルを入手した(脚注)
 政府は、地方の行政機構からの要求を充たすことができなかった。
 それで、地方の「ブルジョアジー」に金銭を強要することを、<guberniia>〔帝制下の地方行政区〕や地区ソヴェトに対して、許したのみならず、命令した。
 レーニンはこれは、全ての地方のソヴェトが自らを「自立した共和国」と見なすのを励ますことになる悪い先例だと考えた。
 そして、1918年5月に、財政上の中央集権化を要求した(注35)。
 しかし、中央に金銭がないならば、財政を中央に集中させることはできなかっただろう。
 政府は結局は、地方ソヴェトに対して、助成金を懇願するのをやめて、自分たちで何とか処理するよう伝えた。
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 (脚注) E. H. Carr, The Bolshevik Revolution, 1917-1923, II(New York, 1952), p.145. 彼は、「これらの数字のいずれかを推測にすぎないと見なすことは困難だ」と述べる。たしかに、1918年7月にソヴナルコムが承認した国家予算は、遡及して以前の6ヶ月間、歳出を176億ルーブルに、歳入を28.5億ルーブルに固定していた。NV, No. 117/141(1918年7月14日), p.1. 当時の別の推計では、1918年前半の歳出は205億ルーブル、歳入は33億ルーブルだった。Lenin, Sochineniia, XXIII, p. 537-8.
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 (10) 臨時の出費の資金を増やし、同時に「階級敵」の経済力を削ぐために、ボルシェヴィキはときどき、「寄付金」というかたちでの差別的な徴税を行なった。
 そうして、1918年10月に、特別の一時限りの、100億ルーブルの「寄付金」が、国の有産階層者に課された。
 この臨時の徴税は、モンゴルが中世のロシアに導入した中国の例に従ったもので、都市部と地方の割合を定め、その範囲内で、支払いの配分をそれらに委ねた。
 モスクワとペテログラードは、それぞれ30億ルーブルと20億ルーブルが要求された。
 その他の地方ソヴェトには、支払いに責任を負う個人のリストを用意することが求められた(脚注)
 類似の「寄付金」が、地方ソヴェト自身の主導によって、課された。ときには、当面の出費のための金銭を徴集するために、ときには、制裁として。
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 (脚注) Piatyi Sozyv VTsIK: Stenographcheskii Otchet(Moscow, 1919), p.289-p.292. しかし、望んだ金額の一部だけが実際に徴集されたように思われる。
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 ②へとつづく。