Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
<第15章・“戦時共産主義“>の試訳のつづき。
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第15章・第一節/起源と目標③。
(14) 1917年10月25日に—つまり、第二回全国ソヴェト大会からも政府を形成する権威を与えられる前に—、レーニンは元メンシェヴィキで最近にボルシェヴィキに変わったIuri Larin に近づいた。
社会主義者界隈では、Larin はドイツの戦時経済に関する専門家だと考えられていた。
レーニンは彼に言った。「あなたはドイツ経済の組織化の問題に没頭している。シンジケート、トラスト、銀行、これらを我々のために研究してほしい。」(注15)
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(15) のちにすみやかに、Larin は<Izvestiia>に、ボルシェヴィキの経済綱領に関する印象的な概要を発表した。
この論文が中心に据えていたのは、原料生産、消費産業、輸送、銀行、各々が総合的国家計画に従属したものだが、これら全ての義務的なシンジケート化だった。
諸企業内の私的部分は、シンジケート部分と交換されるだろう。この取引は公開の市場で行なわれる。
地方では、自治規則をもつ機関(おそらくソヴェト)は、小売取引や住宅区画をシンジケート化するか、自治体のものにするだろう。
農民層もまた、食糧や農機具の配分のために「シンジケート化」するだろう(注16)。
この綱領のもとで、政府は、私的企業を統制することになる。廃止するのではない。
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(16) レーニンの要請に応えて、Larin とその仲間たちは、ロシアの最も有力な産業家の一人のAlexis Meshcherski との討論を開始した。
たたき上げのMeshcherski は、旧体制のもとでは典型的な「進歩的」起業家で、官僚制を軽蔑し、ロシアが自由で民主主義的な国になることを望んでいた。そして、ロシアがもつ潜在的な莫大な生産力を実現できる能力があった(注17)。
Meshcherski は個人的には裕福でなかったけれども、巨大なSormova-Kolomna 金属工業の取締役として、相当に大きい経営上の責任を有していた。この企業の資本金はロシア人と外国人、主としてドイツ人がもち、6万人の労働者を雇用していた。
Larin の誘いで、Meshcherski は、私企業とボルシェヴィキ政府の合弁企業のための青写真を描いた。
彼は、半分は民間の投資者が、半分は国家が提供する10億ルーブルの資本金をもち、民間部門が60パーセントを占める委員会によって経営される、ソヴィエト冶金トラストの設立を想定した。
30万の労働者を雇用するこのトラストは、炭鉱や鉄鉱とともに工業企業群のネットワークを管理し、とりわけ、傷んでいるロシアの鉄道制度に車両を供与するものとされていた(注18)。
春に共産党当局は、Stakheev グループの役員たちとの類似の合弁企業について討議した。Stakheev グループは、Ural にある150の工業、金融、商業企業を支配していた。
それの経営陣は、ソヴィエト政府とロシア人、アメリカ人の関係者による基金から資金が提供される、Ural の鉱物を開発するトラストを提案した(注19)。
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(17) この提案が実現すれば、ソヴィエト経済を混合型へと押し進めただろう。だが、ボルシェヴィキ内の「純粋主義者」によって、未熟なままになった。
彼ら「純粋主義者」の圧力を受けて、政府の交渉担当官は、提案されている冶金トラストでの政府割合が最大になるよう要求した。民間部門には何も残されないほどまでにだった。
Meshcherski とその仲間たちはボルシェヴィキ体制との交渉に熱意があったので、トラストの100パーセントの割合すら政府に譲ることに同意した。政府がそれを売却すると決定した場合に彼らに第一順位が約束されていることが条件だった。
この最も穏健な提案ですら、却下された。
1918年4月14日に、国家経済最高会議は、討議を終息させる、と票決した。ある共産主義者の説明によると、「投票数の過半数近く」という不思議な表現の叙述が付いていた(脚注)。
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(脚注) Meshcherskii, NS, No. 33(1918年5月26日), p.7; M. Vindekbot, NKh, No.6(1919年),p.24-32.
NV, 101/125(1918年6月26日),p. 3によると、Meshcherskii は6月に逮捕された。彼はのちに脱国して外国に移住した。
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(18) 結果を何も残さなかったけれども、こうした交渉をしたという事実だけであっても、体制に対峙するロシアの実業界の奇妙な冷静さを説明するのを助けるだろう。ボルシェヴィキ体制は、経済的破綻でもって、ときには肉体的な破壊でもってすら、ロシアの実業界を公然と威嚇していたのだったが。
ロシアの銀行家や工業家たちは、ボルシェヴィキの諸声明を、革命的レトリックだと見なしていた。
彼らの見方では、ボルシェヴィキは崩壊している経済を回復させるための助けを求めて彼らに向かいあうか、それともボルシェヴィキ自体が崩壊するか、のいずれかだった。
さて、1918年の春、大戦勃発以来公式に閉鎖されていたペトログラード証券取引所が突然に復活し、証券や銀行株の店頭販売を再開する、ということが起きた(注20)。
大企業界隈でのボルシェヴィキに対する楽観主義は、ボルシェヴィキとの交渉や、政府はロシアをドイツ資本に開く通商協定の交渉をドイツと行なっているという知識によって、強められた。そしてこのことは、白軍の将校たちが財政的援助を求めてきても聞く耳を持たない原因になった。
1918年の春に白軍運動がドイツの実業家たちにどう見えていたかと言うと、ボルシェヴィキ政府と協力する可能性と比べて、見込みのない賭け、というものだった。
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(19) ブレスト=リトフスク条約が批准されるとすぐに、ボルシェヴィキ指導者たちの注意は経済に向かった。今や権力は彼らにあり、彼らはもはや、国の富を農民や労働者に渡してそのあいだで分配させることによって、国富を無駄に費やそうとは考えなかった。
合理的で、効率的な「資本主義」の態様で、生産と分配を組織するときがきた。労働紀律、会計責任の再導入、そして最も近代的な技術と経営方法の採用を通じてだ。
トロツキーは、1918年5月28日の演説で、方向性の変化について合図を送った。それには、不思議な「ファシスト」的表題が付いていた。—「労働、紀律、秩序が、ソヴィエト社会主義共和国を救うだろう」(注21)。
彼は労働者たちに対して、「自制心」を働かせること、ソヴィエト諸産業の経営は専門家たちに委ねなければならないことを受け入れること、を訴えた。その専門家は、従前の「搾取者」たちの中から選ばれるのであっても。
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④につづく。
<第15章・“戦時共産主義“>の試訳のつづき。
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第15章・第一節/起源と目標③。
(14) 1917年10月25日に—つまり、第二回全国ソヴェト大会からも政府を形成する権威を与えられる前に—、レーニンは元メンシェヴィキで最近にボルシェヴィキに変わったIuri Larin に近づいた。
社会主義者界隈では、Larin はドイツの戦時経済に関する専門家だと考えられていた。
レーニンは彼に言った。「あなたはドイツ経済の組織化の問題に没頭している。シンジケート、トラスト、銀行、これらを我々のために研究してほしい。」(注15)
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(15) のちにすみやかに、Larin は<Izvestiia>に、ボルシェヴィキの経済綱領に関する印象的な概要を発表した。
この論文が中心に据えていたのは、原料生産、消費産業、輸送、銀行、各々が総合的国家計画に従属したものだが、これら全ての義務的なシンジケート化だった。
諸企業内の私的部分は、シンジケート部分と交換されるだろう。この取引は公開の市場で行なわれる。
地方では、自治規則をもつ機関(おそらくソヴェト)は、小売取引や住宅区画をシンジケート化するか、自治体のものにするだろう。
農民層もまた、食糧や農機具の配分のために「シンジケート化」するだろう(注16)。
この綱領のもとで、政府は、私的企業を統制することになる。廃止するのではない。
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(16) レーニンの要請に応えて、Larin とその仲間たちは、ロシアの最も有力な産業家の一人のAlexis Meshcherski との討論を開始した。
たたき上げのMeshcherski は、旧体制のもとでは典型的な「進歩的」起業家で、官僚制を軽蔑し、ロシアが自由で民主主義的な国になることを望んでいた。そして、ロシアがもつ潜在的な莫大な生産力を実現できる能力があった(注17)。
Meshcherski は個人的には裕福でなかったけれども、巨大なSormova-Kolomna 金属工業の取締役として、相当に大きい経営上の責任を有していた。この企業の資本金はロシア人と外国人、主としてドイツ人がもち、6万人の労働者を雇用していた。
Larin の誘いで、Meshcherski は、私企業とボルシェヴィキ政府の合弁企業のための青写真を描いた。
彼は、半分は民間の投資者が、半分は国家が提供する10億ルーブルの資本金をもち、民間部門が60パーセントを占める委員会によって経営される、ソヴィエト冶金トラストの設立を想定した。
30万の労働者を雇用するこのトラストは、炭鉱や鉄鉱とともに工業企業群のネットワークを管理し、とりわけ、傷んでいるロシアの鉄道制度に車両を供与するものとされていた(注18)。
春に共産党当局は、Stakheev グループの役員たちとの類似の合弁企業について討議した。Stakheev グループは、Ural にある150の工業、金融、商業企業を支配していた。
それの経営陣は、ソヴィエト政府とロシア人、アメリカ人の関係者による基金から資金が提供される、Ural の鉱物を開発するトラストを提案した(注19)。
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(17) この提案が実現すれば、ソヴィエト経済を混合型へと押し進めただろう。だが、ボルシェヴィキ内の「純粋主義者」によって、未熟なままになった。
彼ら「純粋主義者」の圧力を受けて、政府の交渉担当官は、提案されている冶金トラストでの政府割合が最大になるよう要求した。民間部門には何も残されないほどまでにだった。
Meshcherski とその仲間たちはボルシェヴィキ体制との交渉に熱意があったので、トラストの100パーセントの割合すら政府に譲ることに同意した。政府がそれを売却すると決定した場合に彼らに第一順位が約束されていることが条件だった。
この最も穏健な提案ですら、却下された。
1918年4月14日に、国家経済最高会議は、討議を終息させる、と票決した。ある共産主義者の説明によると、「投票数の過半数近く」という不思議な表現の叙述が付いていた(脚注)。
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(脚注) Meshcherskii, NS, No. 33(1918年5月26日), p.7; M. Vindekbot, NKh, No.6(1919年),p.24-32.
NV, 101/125(1918年6月26日),p. 3によると、Meshcherskii は6月に逮捕された。彼はのちに脱国して外国に移住した。
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(18) 結果を何も残さなかったけれども、こうした交渉をしたという事実だけであっても、体制に対峙するロシアの実業界の奇妙な冷静さを説明するのを助けるだろう。ボルシェヴィキ体制は、経済的破綻でもって、ときには肉体的な破壊でもってすら、ロシアの実業界を公然と威嚇していたのだったが。
ロシアの銀行家や工業家たちは、ボルシェヴィキの諸声明を、革命的レトリックだと見なしていた。
彼らの見方では、ボルシェヴィキは崩壊している経済を回復させるための助けを求めて彼らに向かいあうか、それともボルシェヴィキ自体が崩壊するか、のいずれかだった。
さて、1918年の春、大戦勃発以来公式に閉鎖されていたペトログラード証券取引所が突然に復活し、証券や銀行株の店頭販売を再開する、ということが起きた(注20)。
大企業界隈でのボルシェヴィキに対する楽観主義は、ボルシェヴィキとの交渉や、政府はロシアをドイツ資本に開く通商協定の交渉をドイツと行なっているという知識によって、強められた。そしてこのことは、白軍の将校たちが財政的援助を求めてきても聞く耳を持たない原因になった。
1918年の春に白軍運動がドイツの実業家たちにどう見えていたかと言うと、ボルシェヴィキ政府と協力する可能性と比べて、見込みのない賭け、というものだった。
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(19) ブレスト=リトフスク条約が批准されるとすぐに、ボルシェヴィキ指導者たちの注意は経済に向かった。今や権力は彼らにあり、彼らはもはや、国の富を農民や労働者に渡してそのあいだで分配させることによって、国富を無駄に費やそうとは考えなかった。
合理的で、効率的な「資本主義」の態様で、生産と分配を組織するときがきた。労働紀律、会計責任の再導入、そして最も近代的な技術と経営方法の採用を通じてだ。
トロツキーは、1918年5月28日の演説で、方向性の変化について合図を送った。それには、不思議な「ファシスト」的表題が付いていた。—「労働、紀律、秩序が、ソヴィエト社会主義共和国を救うだろう」(注21)。
彼は労働者たちに対して、「自制心」を働かせること、ソヴィエト諸産業の経営は専門家たちに委ねなければならないことを受け入れること、を訴えた。その専門家は、従前の「搾取者」たちの中から選ばれるのであっても。
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④につづく。



























































