Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 <第14章・革命の国際化>の試訳のつづき。
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 第14章・第11節/左翼エスエルによるMirbach の殺害。
 (01) 全国ソヴェト大会がボリショイ劇場で始まったとき、左翼エスエルとボルシェヴィキはすぐに互いに激しく非難した。
 左翼エスエルの発言者は革命を裏切ったとしてボルシェヴィキを責め、都市と農村の間の戦争を扇動した。一方でボルシェヴィキは、ロシアとドイツの戦争を挑発しているとして、左翼エスエルを非難した。
 左翼エスエルは、ボルシェヴィキ政府の不信任、ブレスト=リトフスク条約の廃棄、対ドイツの戦争宣言を呼びかけて動議を提出した。
 ボルシェヴィキは多数でこれを却下した。このあと、左翼エスエルは会場から退出した。
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 (02) Bliumkin によると、7月4日の夕方にSpiridonova が彼に会いたいと言ってきた(注104)。
 彼女は、党は彼がMirbach を暗殺するのを望んでいる、と言った。
 Bliumkin は、必要な準備のために24時間の猶予を求めた。
 彼とAndreev に必要だったものの中には、二人がドイツ大使に聴取することを依頼する、ジェルジンスキの偽造署名のある文書、二本の回転式拳銃、二発の爆弾、Popov が運転手を雇う、チェカの自動車、があった。
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 (03) 7月6日の午後2時15分から30分頃、チェカの二人の代表者がDenezhnui Pereulok にあるドイツ大使館に姿を現した。
 一人は、Iakov Bliumkin、チェカ反対諜報局の職員だと自己紹介した。
 もう一人は、Nicholas Andreev、革命審判所の職員だと。
 二人は、信用証明書を提示した。それらにはジェルジンスキとチェカの書記の署名があり、「大使に直接の関係のある問題」を議論する権限を二人に与えていた(注105)。
 その問題とは、チェカがスパイ行為の嫌疑で勾留した、大使の親戚だと信じられた、Robert Mirbach 中尉の事案のことだと分かった。
 訪問者二人は、Riezler と通訳のL. G. Miller 中尉に迎えられた。
 Riezler は、自分はMirbach 公に代わって語る権限をもつ、と言った。だが、ロシア人たちは、ジェルジンスキから大使と個人的に話すよう指示されていると強く主張して、Riezler を相手にするのを拒んだ。
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 (04) 在モスクワ・ドイツ大使館は、しばらくの間、暴力が加えられる可能性があるという警告を受けてきていた。
 差出人不明の手紙がきた。また、完璧に機能している照明設備を点検するという電気技師の訪問とか大使館の建物の写真を撮っている者などの怪しい出来事があった。
 Mirbach は、訪問者と逢うことに気乗り薄だった。しかし、チェカの長からの信用証明書が提示されたので、彼らと逢うために降りて来た。
 ロシア人二人は大使に対して、Mirbach 中尉の事案に興味を持たれるだろう、と言った。
 大使は、情報は文書でもらう方がよい、と答えた。
 このとき、Bliumkin とAndreev は、それぞれの鞄に手を伸ばし、回転式拳銃を取り出した。銃は、Mirbach とRiezler を目指して火を噴いた。
 どの銃弾も、命中はしなかった。
 Riezler とMirbach は、床に倒れ込んだ。
 Mirbach は立ち上がり、居間を通って階上へと逃げようとした。
 Andreev は追いかけて、後頭部に向かって発射した。
 Bliumkin は、部屋の中央へと爆弾を投げた。
 二人の暗殺企図者は、開いた窓から跳んで外へ出た。
 Bliumkin は負傷したが、何とかAndreev に追いつき、大使館を取り囲む二メートル半の高さの鉄屏を昇り、エンジンを噴かせて外で待つ自動車に乗った。
 大使のMirbach は、意識を回復することなく、午後3時15分に死亡した(注106)。
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 (05) 大使館の館員たちは、大使への急襲はより一般的な攻撃の前兆ではないかと怖れた。
 軍事要員が、安全を保つ責任を引き受けた。
 ソヴィエト当局に連絡しようと試みたが、無益だった。電話線が切断されていたからだ。
 軍事担当官のBothmer は、外務人民委員部が所在しているMetropole ホテルへと走った。
 そこで、Chicherin の副官であるKarakhan に、起きたことを告げた。
 Karakhan は、クレムリンに連絡した。
 レーニンは3時30分頃に報せを受け、ただちにジェルジンスキとSverdlov に知らせた(注107)。
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 (06) その日の午後遅く、ボルシェヴィキの要職者の一行が、ドイツ大使館を訪れた。
 最初に到着したのは、Radek だった。彼は武器を携行しており、それをBothmer は、小さな攻撃用拳銃と叙述した。
 続いたのは、Chicherin、Karakhan、そしてジェルジンスキだった。
 一団のラトビア人ライフル兵たちが、ボルシェヴィキ要職者の後に来た。
 レーニンは、クレムリンにとどまった。だが、大使館に責任をもつRiezler は、説明と謝罪をするためにレーニン自身が現れるよう強く主張した。
 外国の外交官が国家の長に対して要求するのは、きわめて特異なことだった。だが、これは、レーニンが従わなければならなかった当時のドイツの影響力を示していた。
 レーニンは、Sverdlov を伴なって、午後5時頃にやって来た。
 ドイツ側の目撃者によると、レーニンは事件について純粋に技術的な関心を示し、殺害の場所、家具の正確な配置、爆弾による被害を示すよう求めた。
 彼は、死者の遺体を見るのは固辞した。
 レーニンは、あるドイツ人の言葉では、「犬の鼻のように冷たく」詫びの言葉を発し、犯罪者は罰せられると約束した(注108)。
 Bothmer は、ロシア人たちはきわめて怯えているように見える、と思った。
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 第11節、終わり。