1875年(明治7年)から150年、1925年(昭和元年)から100年、1945年(敗戦)から80年、1970年(三島由紀夫の自決)から55年。
そして毎日新聞(電子版)の2025年2月のある記事によると、「まもなく歴史作家・司馬遼太郎の三十回忌が来る」。
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2020年に三島由紀夫の死後50年が経過するので、著作権が失効して無料の電子テキスト版全集でも出るかと期待していた。だが、著作権有効期間が延長されて、そうはならなかった。
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司馬遼太郎が逝去したのは、1996年2月12日だった。
突然の<腹部大動脈瘤破裂>による死。かかりつけ医師からは<坐骨神経痛>と言われていたらしいから、本人(および周辺の関係者)は予想していなかっただろう。
異常の発生または「大動脈瘤破裂」の瞬間に、患者の意識は喪失するのだろうか、それとも激しい痛みを感じたままで意識の混濁と死へ向かっていくのだろうか。
前者であったならば、司馬遼太郎は、自分の死を何ら意識または予期することなく、亡くなったことになる。
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かねて不思議だったのは、司馬遼太郎のつぎの文章だった。
「私の人生は、すでに持ち時間が少ない。
例えば、二十一世紀というものを見ることができないにちがいない。」
このあとに「君たちは、ちがう」とつづく。
これは司馬遼太郎「二十一世紀に生きる君たちへ」(原本/1985年、大阪書籍)の一部だ。
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これを執筆したとき、1923年生まれの司馬は62歳になろうとしていた。
そして、あと15年余り生きれば、2001年1月の21世紀を見ることができていた。
「21世紀というものを見ることができないにちがいない」というのは、77-78歳まで生きることができないに違いない、と予想していることを意味する。
言い換えると、司馬遼太郎は62歳くらいの時点で、77-78歳までは生きられない、それまでには死んでいるだろうと自分の将来を予測していたわけだ。
これが不思議だった。
1985年頃は、平均寿命は77-78歳以下だったのかもしれない。
しかし、すでに60歳を超え、まだ腰の痛みもなかったとされ、その他とくに死につながり得るような「持病」をもっていなかったはずの司馬が、なぜ、自分の寿命を77-78歳以下と見切っていたのだろうか。
実際には、1996年2月に満72歳で逝去した。予測は結果としては当たっていたことが、何やら悲しい。
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そして毎日新聞(電子版)の2025年2月のある記事によると、「まもなく歴史作家・司馬遼太郎の三十回忌が来る」。
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2020年に三島由紀夫の死後50年が経過するので、著作権が失効して無料の電子テキスト版全集でも出るかと期待していた。だが、著作権有効期間が延長されて、そうはならなかった。
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司馬遼太郎が逝去したのは、1996年2月12日だった。
突然の<腹部大動脈瘤破裂>による死。かかりつけ医師からは<坐骨神経痛>と言われていたらしいから、本人(および周辺の関係者)は予想していなかっただろう。
異常の発生または「大動脈瘤破裂」の瞬間に、患者の意識は喪失するのだろうか、それとも激しい痛みを感じたままで意識の混濁と死へ向かっていくのだろうか。
前者であったならば、司馬遼太郎は、自分の死を何ら意識または予期することなく、亡くなったことになる。
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かねて不思議だったのは、司馬遼太郎のつぎの文章だった。
「私の人生は、すでに持ち時間が少ない。
例えば、二十一世紀というものを見ることができないにちがいない。」
このあとに「君たちは、ちがう」とつづく。
これは司馬遼太郎「二十一世紀に生きる君たちへ」(原本/1985年、大阪書籍)の一部だ。
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これを執筆したとき、1923年生まれの司馬は62歳になろうとしていた。
そして、あと15年余り生きれば、2001年1月の21世紀を見ることができていた。
「21世紀というものを見ることができないにちがいない」というのは、77-78歳まで生きることができないに違いない、と予想していることを意味する。
言い換えると、司馬遼太郎は62歳くらいの時点で、77-78歳までは生きられない、それまでには死んでいるだろうと自分の将来を予測していたわけだ。
これが不思議だった。
1985年頃は、平均寿命は77-78歳以下だったのかもしれない。
しかし、すでに60歳を超え、まだ腰の痛みもなかったとされ、その他とくに死につながり得るような「持病」をもっていなかったはずの司馬が、なぜ、自分の寿命を77-78歳以下と見切っていたのだろうか。
実際には、1996年2月に満72歳で逝去した。予測は結果としては当たっていたことが、何やら悲しい。
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