Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
<第14章・革命の国際化>の試訳のつづき。
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第14章・第九節/ドイツ皇帝が親ボルシェヴィキ政策を決定②。
(09) このような考えを抱いて、Kühlmann は、ロシアでの厳格な不干渉政策を主張した。
おそらくボルシェヴィキの探索だったものに応えて、彼はロシア政府に対して、ドイツもフィンランドもペテログラードには何の腹案も持っていないと、保証した。このような保証があったため、ラトビア人兵団を西部から、チェコ軍団と戦うことがひどく熱望されていた東部へと移動させることが可能になる(注91)。
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(10) いつか最も「歴史的」な日々があると信じていた者たちにとって、1918年6月28日は、近代の最も「歴史的」な日の一つとして光るはずだ。
なぜと言うに、ドイツ皇帝が衝動的な決定をして、ボルシェヴィキ体制を死刑判決から救ったのは、この日だったからだ。
ロシア問題に関する報告書が、提示用に彼に送られてきた。
彼の前には二つの文書があった。一つは、首相のGeorg von Hertling が著名した外務省からの文書だった。もう一つは、Hindenburg から。
報告担当官の男爵Kurt Von Grünau は、皇帝補佐官に対して外務省を代表した。
このような事態の経験を積んでいた者は全て、このような場合に報告担当官がもつ力を知っていた。
報告担当官は、主要な政策案、被報告者が事態の不完全な知識にもとづいて選ぶために必要な政策の選択肢、を提示する。そのときに彼は、微妙な操作を行なって、自分が好む方向へと決定を誘導することができる。
Grünau は、外務省の利益を促進するために、この機会を最大限に利用した。
皇帝は、大部分について、Grünau が彼に提示した政策案の様式の結果として、重大な決定を下した。
「瞬間的な気分と突然の閃きに従う皇帝の衝動的性格にとっては、助言者が彼に提示した最初の論拠を結論だ(<schlussig>)と思うほどに支持するのは、本質的特徴だ。
この場合も、それが起きた。
助言者のGrünau は、Hindenburg が選考した案を皇帝に提示する直前に、Hertling からの電信(Kühlmann 推奨書も)を皇帝に知らせることに成功した。
皇帝はすぐに首相〔Hertling〕に同意すると宣言し、とくに、まず、ドイツはロシアで軍事行動を行なってはならない、と述べた。また、ソヴィエト政府には、第一にペテログラードから安全に撤兵できること、第二に、「将来の機会を排除することなく」チェコ軍団に対抗して戦線を展開できること、最後に第三には、ブレスト条約を受諾した唯一の党派としてのソヴィエト政府には支援が拡大されること、を知らせなければならない、と述べた。(注92)」
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(11) 皇帝による決定の直接的効果として、トロツキーは、ラトビア人連隊を西部国境からVolga-Ural 前線へと移動させることができた。
ラトビア人兵団は戦闘可能な唯一の親ボルシェヴィキ軍団だったので、この行動によって、東部のボルシェヴィキ体制は完全な崩壊から救われた。
7月末に、ラトビア人連隊と第四分団はKazan 近くでチェコスロヴァキア兵団と交戦し、第六分団はEkaterinburg で彼らを攻撃した。また、第七分団はIzhevsk-Botkin で、武装労働者の反ボルシェヴィキ蜂起を鎮圧した。
これらの作戦行動は、戦況をボルシェヴィキに有利に変えた。
ドイツの諜報機関が傍受したIoffe あての電報で、Chicherin は、ロシアがその兵団をドイツの戦線から撤退させ、その兵団をチェコスロヴァキア兵団に対抗して投入することができたことがきわめて役立った、ということを強調した(注93)。
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(12) 皇帝の判断の長期的な効果は、ボルシェヴィキがその歴史の最も危機的な時期を乗り切ることを可能にしたことだった。
ドイツがペテログラードを掌握するのに少しの努力も要らず、モスクワを占拠するにはほんの少し多くの努力しか必要としなかっただろう。二都市ともに事実上防衛されていなかったのだから。
そしてドイツは、そのウクライナ作戦を繰り返すことができ、ロシア全土に傀儡政府を樹立しただろう。
誰も、ドイツのそうした能力を疑っていなかった。
ボルシェヴィキがより強固な地位にあった4月に、トロツキーはSadoul に、ドイツに後援された政党によってボルシェヴィキが排除されることはあり得る、と語った(注94)。
6月末の皇帝の決定は、この可能性を永遠に消滅させた。
西部での攻勢が終わりを告げた6週刊後、ドイツはもはや、ロシアの国内情勢に決定的に干渉する立場にいることはなくなった。
ドイツがボルシェヴィキを支持し続けていることが知られるようになって、ロシアの反対派は落胆した。
Kühlmann は皇帝の意向を伝達するとき、在モスクワ大使館に対して6月末に、レーニンと協力することを指示した。
7月1日、Riezler は、右派中央派との会話を断絶した(注95)。
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第10節へとつづく。
<第14章・革命の国際化>の試訳のつづき。
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第14章・第九節/ドイツ皇帝が親ボルシェヴィキ政策を決定②。
(09) このような考えを抱いて、Kühlmann は、ロシアでの厳格な不干渉政策を主張した。
おそらくボルシェヴィキの探索だったものに応えて、彼はロシア政府に対して、ドイツもフィンランドもペテログラードには何の腹案も持っていないと、保証した。このような保証があったため、ラトビア人兵団を西部から、チェコ軍団と戦うことがひどく熱望されていた東部へと移動させることが可能になる(注91)。
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(10) いつか最も「歴史的」な日々があると信じていた者たちにとって、1918年6月28日は、近代の最も「歴史的」な日の一つとして光るはずだ。
なぜと言うに、ドイツ皇帝が衝動的な決定をして、ボルシェヴィキ体制を死刑判決から救ったのは、この日だったからだ。
ロシア問題に関する報告書が、提示用に彼に送られてきた。
彼の前には二つの文書があった。一つは、首相のGeorg von Hertling が著名した外務省からの文書だった。もう一つは、Hindenburg から。
報告担当官の男爵Kurt Von Grünau は、皇帝補佐官に対して外務省を代表した。
このような事態の経験を積んでいた者は全て、このような場合に報告担当官がもつ力を知っていた。
報告担当官は、主要な政策案、被報告者が事態の不完全な知識にもとづいて選ぶために必要な政策の選択肢、を提示する。そのときに彼は、微妙な操作を行なって、自分が好む方向へと決定を誘導することができる。
Grünau は、外務省の利益を促進するために、この機会を最大限に利用した。
皇帝は、大部分について、Grünau が彼に提示した政策案の様式の結果として、重大な決定を下した。
「瞬間的な気分と突然の閃きに従う皇帝の衝動的性格にとっては、助言者が彼に提示した最初の論拠を結論だ(<schlussig>)と思うほどに支持するのは、本質的特徴だ。
この場合も、それが起きた。
助言者のGrünau は、Hindenburg が選考した案を皇帝に提示する直前に、Hertling からの電信(Kühlmann 推奨書も)を皇帝に知らせることに成功した。
皇帝はすぐに首相〔Hertling〕に同意すると宣言し、とくに、まず、ドイツはロシアで軍事行動を行なってはならない、と述べた。また、ソヴィエト政府には、第一にペテログラードから安全に撤兵できること、第二に、「将来の機会を排除することなく」チェコ軍団に対抗して戦線を展開できること、最後に第三には、ブレスト条約を受諾した唯一の党派としてのソヴィエト政府には支援が拡大されること、を知らせなければならない、と述べた。(注92)」
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(11) 皇帝による決定の直接的効果として、トロツキーは、ラトビア人連隊を西部国境からVolga-Ural 前線へと移動させることができた。
ラトビア人兵団は戦闘可能な唯一の親ボルシェヴィキ軍団だったので、この行動によって、東部のボルシェヴィキ体制は完全な崩壊から救われた。
7月末に、ラトビア人連隊と第四分団はKazan 近くでチェコスロヴァキア兵団と交戦し、第六分団はEkaterinburg で彼らを攻撃した。また、第七分団はIzhevsk-Botkin で、武装労働者の反ボルシェヴィキ蜂起を鎮圧した。
これらの作戦行動は、戦況をボルシェヴィキに有利に変えた。
ドイツの諜報機関が傍受したIoffe あての電報で、Chicherin は、ロシアがその兵団をドイツの戦線から撤退させ、その兵団をチェコスロヴァキア兵団に対抗して投入することができたことがきわめて役立った、ということを強調した(注93)。
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(12) 皇帝の判断の長期的な効果は、ボルシェヴィキがその歴史の最も危機的な時期を乗り切ることを可能にしたことだった。
ドイツがペテログラードを掌握するのに少しの努力も要らず、モスクワを占拠するにはほんの少し多くの努力しか必要としなかっただろう。二都市ともに事実上防衛されていなかったのだから。
そしてドイツは、そのウクライナ作戦を繰り返すことができ、ロシア全土に傀儡政府を樹立しただろう。
誰も、ドイツのそうした能力を疑っていなかった。
ボルシェヴィキがより強固な地位にあった4月に、トロツキーはSadoul に、ドイツに後援された政党によってボルシェヴィキが排除されることはあり得る、と語った(注94)。
6月末の皇帝の決定は、この可能性を永遠に消滅させた。
西部での攻勢が終わりを告げた6週刊後、ドイツはもはや、ロシアの国内情勢に決定的に干渉する立場にいることはなくなった。
ドイツがボルシェヴィキを支持し続けていることが知られるようになって、ロシアの反対派は落胆した。
Kühlmann は皇帝の意向を伝達するとき、在モスクワ大使館に対して6月末に、レーニンと協力することを指示した。
7月1日、Riezler は、右派中央派との会話を断絶した(注95)。
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第10節へとつづく。