Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 <第14章・革命の国際化>の試訳のつづき。
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 第14章・第四節/ドイツ大使館員がモスクワに到達①。
 (01) 1918年の後半、ロシアとドイツの両国は、互いに大使館を設置した。Ioffe がベルリンに行き、Mirbach がモスクワにやって来た。
 ドイツ人は、ボルシェヴィキ・ロシアが最初に信認した外国使節団だった。
 彼らは驚いたのだが、ドイツ人がモスクワまで旅をした車両は、ラトヴィア人によって警護されていた。
 ドイツの外交官の一人は、ロシアによってモスクワで催されたレセプションは驚くほど温かかった、と書いた。戦勝者がこれほどまでに歓迎されたことはかつてなかった、と彼は思った(31)。
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 (02)  使節団の長のMilbach は47歳の経歴ある外交官で、ロシアの諸事情について多くの経験があった。
 彼は1908年から1911年まで、ペテルブルクのドイツ大使館の顧問として勤務し、1917年12月に、ペテルブルクへの使節団の長となった。
 Milbach は、プロイセン・カトリックの富裕で貴族的な家庭の出身だった(脚注)
 昔からの派の外交官で、同僚たちの中には「ロココ伯爵」と呼んで相手にしない者もおり、革命家たちと付き合うのは苦手だった。しかし、機転と自制心によって、外務省内での信頼を獲得していた。
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 (脚注)  Milbach につき、完全には信頼できないが、つぎを見よ。Wilhelm Joost, Botschafter bei den roten Zaren (Vienna, 1967), p.17-p.63.
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 (03) Milbach の片腕のKurt Riezler は、36歳の思慮深い人物で、やはりロシアの事情をよく知っていた(脚注)
 彼は1915年に、レーニンの協力を確保するという、Parvus の失敗した企てに一定の役割を果たした。
 1917年にストックホルムに派遣され、ドイツ政府とレーニンの代理人の間の主要な媒介者となった。彼は、いわゆるRiezler 基金からロシアへとその代理人に援助金を送った。
 Riezler は、ボルシェヴィキが十月のクーを実行するのを助けた、と言われている。但し、そこでの彼の役割は明瞭ではない。
 同僚たちの多くと同様に、彼は、ドイツを救うことのできる「奇跡」として、クーを歓迎した。
 彼はブレストでは、融和的政策を主張した。
 しかしながら、彼は、気質的に悲観論者で、どちらの側が戦争に勝ってもにヨーロッパは衰亡に向かっている、と考えていた。
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 (脚注) 彼の諸文書は、Karl Dietrich Erdmann によって編集された。Kurt Riezler, Tagebücher, Aufsatze, Dokumente (Göttingen, 1972).
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 (04) ドイツ大使館の第三の主要な人物は軍事随行員のKarl von Bothmer で、Ludendorff やHindenburg の考え方を引き継いでいた。
 この人物はボルシェヴィキを毛嫌いしており、ドイツはボルシェヴィキと縁を切るべきだと考えていた(32)。
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 (05) これら三人のドイツ人は、ロシア語が分からなかった。
 彼らと接触することになるロシア人は、全員が流暢にドイツ語を話した。
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 (06) ドイツ外務省はMilbach に対して、ボルシェヴィキ政府を支援すること、条件を設けることなくロシアの少数反対派と連絡を保つこと、を指示した。
 Milbach は、ソヴィエト・ロシアの真実の状況およびロシアにいる連合諸国の代理人たちの活動に関する情報を得ることを自らの任務とした。ブレスト条約が定めていた諸国間の通商交渉の基礎作業をするのは当然のことだった。
 20人の外交官とそれと同数の書記職員たちは、Arbat 通りから脇に入ったDenezhnyi Pereulok に贅沢な私宅を構えた。それらは、共産主義者たちから事業を守り続けたいドイツ人の砂糖事業家の財産だった。
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 (07) Milbach は数ヶ月前にペテログラードにいたことがあり、自分が何を期待されているのかを知っていたに違いなかった。そうであっても、モスクワで見たものには唖然とした。
 彼はモスクワ到着の数日後に、ベルリンへこう書き送った。//
 「通りはとても活発だ。
 しかし、もっぱら貧民たち(proletarian)で溢れている。良い衣服を着た者たちを滅多に見ることがない。—まるで、かつての支配階級、ブルジョアジーはこの地球上から消滅したかのごとくだ。…
 かつては公衆の中で富裕な層だった聖職者たちは、同様に、通りから消失した。
 店舗では、主に以前は美麗だったものの埃まみれの残物を見つけることのできるのだが、それらは狂気じみた値段で売られている。
 労働というものが欠落した状態の蔓延、愚かなままでの怠惰、これはこうした風景全体に特徴的だ。
 工場は操業を停止した状態で、土地はほとんどが耕作されないままだ。—ともかく、これが我々が今度の旅で得た印象だ。
 ロシアは、[ボルシェヴィキによる]クーによる苦難以上の、さらに大きな災難へと向かっているように思える。//
 公共の安全には、望まれるものがまだ残っている。
 昼間には自由に一人で動き回ることができるのだが。
 しかしながら、夕方に自宅から出ることは勧められない。射撃の音が頻繁に聞こえ、小さなあるいは大きな衝突がしょっちゅう起きているようだ。…//
 ボルシェヴィキによるモスクワの支配は保持されている。何よりも、ラトヴィア軍団によってだ。
 さらには、政府が徴発した多数の自動車にも依っている。多数の自動車が市中を走り回り、危険な箇所へと、必要な兵団を送り届けている。//
 このような状態が今後どうなるかを、まだ判断することができない。しかし、とりあえずは一定の安定の見込みがある、ということは否定できない。」(33)
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 (08) Riezler もまた、ボルシェヴィキ支配のモスクワに意気消沈した。最も衝撃的だったのは、共産主義官僚たちの腐敗の蔓延と怠惰な習慣だった。とりわけ、女性を求める飽くことのない要求。(34)

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 (09) 5月半ば、Milbach はレーニンと会った。
 レーニンの自信は、彼を驚かせた。
 「一般にレーニンは自分の運命に岩のごとき確信を持っていて、何度も何度も、ほとんど執拗なほどに、際限なき楽観主義を表明する。
 同時にレーニンは、彼の支配体制はまだ無傷であったとしても、敵の数は増え続けていて、状況は『一ヶ月前以上の深刻な警戒』を必要としている、と認める。
 他諸政党は現存の体制を拒否する点だけで一致しているが、別の見方をすれば、それら諸政党は、全ての方向に離ればなれになりそうで、ボルシェヴィキの権力に匹敵するほどのそれを全く持っていない。その他の諸政党ではなく支配政党たるボルシェヴィキだけが組織的権力を行使する、という事実に、レーニンの自信の根拠はある(35)。(脚注)
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 (脚注) 当時にものちにも、レーニンは私的会話では人民の支持に自分の強さの淵源を求めなかった、ということは注目に値する。彼は強さの由来を反対派の分裂に見ていた。
 彼は1920年代にBertrand Russel に、自分と仲間たちは二年前には周囲の敵対的状況の中で生き延びられるかを疑っていた、と語った。
 「彼は自分たちが生き延びたことの原因を、様々な資本主義諸国の相互警戒心とそれらの異なる利害に求める。また、ボルシェヴィキの政治宣伝の力にも」。以上、Bertrand Russel, Bolshevism (New York, 1920), p.40.
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 ②へとつづく。