Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
 〈第14章・革命の国際化〉の試訳のつづき。
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 第14章・第三節/連合諸国との会話の継続②。
 (05) このような会話が行われている間の4月4日、日本は小さな派遣軍団をVladivostok に上陸させた。
 建前としては、この軍団の使命は、在留日本国民の保護だった。最近に2人の日本人が、そこで殺害されていた。
 しかし、日本軍の本当の目的はロシアの海岸地域の掌握と併合にあると、広くかつ的確に考えられていた。
 ロシアの軍事専門家たちは、輸送とシベリア地域の公的権威の崩壊によって、莫大な後方支援が必要な数十万の日本軍のヨーロッパ・ロシアへの移動が阻害される、と指摘した。
 だが、連合諸国はこの構想に固執し、フランス、イギリスおよびチェコ兵団でもって日本の派遣軍団を弱体化させることを約束した。
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 (06) 6月の初めに、イギリスはMurmansk に1200人の、Archangel に100人の、追加の兵団を上陸させた。
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 (07) レーニンは、アメリカの経済的援助を諦めなかった。それは、フランスが約束した軍事的協力を補完するものだった。
 アメリカは、ブレスト条約が批准されたあとでも、ロシアとの友好を表明しつづけた。
 アメリカ国務省は、ロシアとその国民は「共通する敵に対抗する友人で仲間だ」と日本に知らせた。ロシア政府を承認はしなかったけれども(25)。
 別のときに、アメリカ政府は、ロシア革命が惹起した「全ての不幸と悲惨さ」にもかかわらず、「最大の同情」を感じていると表明した(26)。
 このような友好的な発言が具体的には何を意味するのかを知りたくて、レーニンはRobins に対して、経済的「協力」の可能性をアメリカ政府に打診してみるよう頼んだ(27)。
 5月半ばにレーニンはRobins に、アメリカ合衆国はドイツに代わる工業製品の供給者になり得るとするワシントンあての覚書を与えた(28)。
 だが、ドイツの産業界とは違って、アメリカ人たちは関心をほとんど示さなかった。
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 (08) ボルシェヴィキの連合諸国との協力はどの程度にまで進む可能性があったか、あるいはそもそもそれはどの程度に真面目に意図されていたのか、を判断するのは不可能だ。
 ボルシェヴィキはドイツがこうした交渉の経緯を掴んでいることに気づいていたのだが、ボルシェヴィキの連合諸国との予備的な交渉は、ドイツがブレスト条約の条件履行を監視するように仕向ける可能性があった。あるいは、ロシアが連合国側に走るよう追い込む怖れもあった。
 いずれにせよ、ドイツはロシアに接近していて、敵対的な意向は持っていない、と保証した。
 4月に両国は外交使節団を交換し、通商協定に関する会談の準備を整えた。
 5月半ば、ドイツ政府は、将軍たちが主張していた強硬路線を放棄し、ドイツはいま以上のロシア領土の占領は行なわない、とモスクワに知らせた。
 レーニンは、5月14日の談話で、この保障を公式に確認した(29)。
 この保障によって、ドイツ・ロシアの友好的国家関係の基礎が築かれた。
 ドイツは(ボルシェヴィキの)打倒を意図していない、ということがドイツ・ロシア関係の推移の過程で明らかになったとき、トロツキーは、「連合諸国の援助」という考え方を捨てた(脚注)
 このとき以降、ボルシェヴィキと連合諸国との交渉は急速に途絶えていった。こうして、モスクワは、戦争に勝利しようとしていると見えたドイツ帝国の勢力範囲に入った。
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 (脚注)  Winfried Baumgart, Deutsche Ostpolitik 1918 (Vienna-Munich, 1956), p.49. 日本軍のVladivostok 上陸を正当化した確かに不用意な4月末の新聞インタビュー記事によって、連合諸国とモスクワの間に生まれつつあった協調関係を意図的に破壊したのはNoulens だ、とするHogenhuis-Seliverstoff の主張には、いかなる根拠もない。
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 第三節、終わり。つづく。