Richard Pipes には、ロシア革命期(とりあえず1917-1921)を含む、つぎの二つの大著がある。
A/Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
**「1899 -1919」が付くのは1997年版以降。
B/Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime 1919-1924 (1993).
上のA は、つぎのような構成だ(再掲。頁は追加)。
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序説。
第一部・旧体制の苦悶。 p.1〜p.337.
第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。 p.341〜.
第9章/レーニンとボルシェヴィズムの起源。 p.341〜.
第10章/ボルシェヴィキによる権力の追求。 p.385〜.
第11章/十月のクー。 p.439〜.
第12章/一党国家の形成。 p.507〜.
第13章/ブレスト=リトフスク。 p.567〜.
第14章/革命の国際化。 p.606〜.
第15章/「戦時共産主義」。 p.671〜.
第16章/村落に対する戦争。 p.714〜.
第17章/皇帝家族の殺害。 p.745〜.
第18章/赤色テロル。 p.789〜p.840.
あとがき。 〜p.842.
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もともと第一部をしっかり読む気はなかった。第二部・第9章からこの欄への試訳の掲載を始めた(2017年)。だが、巻末まで終わっておらず、掲載済みは第9章〜第13章だ。これは、第二部の5割余、全体の3割余にとどまる。
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Richard Pipes(リチャード・パイプス、1923〜2018)とLeszek Kolakowski(L・コワコフスキ、1927〜2009)のいくつかの書物は、2017年以降現在までの私の、大部分でも半分でもないが、重要な一部だった。2017年以降も生きていたからこそ、二人の書物にめぐり合うことができ、それまでの発想・思考方法自体をある程度は大きく変えることになった。生き物としての人間(の個体)の必然とはいえ、「知識」以上の多くのことを教えられたので、比較的近年に逝去し、今は現存していないことを意識すると、涙が滲む思いがある。
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Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990)の第14章の「試訳」を始める。
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第14章/革命の国際化。
休戦を達成することは、全世界を征服することだ。
—レーニン、1917年9月。
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第一節/ロシア革命への西側の関心の少なさ①。
(01) ロシア革命は、やがてフランス革命以上に、世界史に大きな影響を与ることになる。だが最初は、フランス革命ほど注目を浴びなかった。
これは二つの要因でもって説明することができる。フランス革命がより有名だったこと、二つの事件が異なる時期に起きたこと。
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(02) 18世紀後半、フランスは、政治的かつ文化的に、ヨーロッパの指導的大国だった。ブルボン王朝は大陸の第一の王朝で、君主制絶対主義を具現化していた。また、フランス語は、文化的社会の言語だった。
諸大国は最初は、フランスを揺さぶった革命の態様に喜んだ。しかしすぐに、彼ら自体の安定に対しても脅威であることに気づいた。
国王の逮捕、1879年9月の大虐殺、専制王を打倒するとのジロンド(the Girondins)の諸外国への訴えからして、フランス革命はたんなる政権の変化ではないということに、全く疑いはなかった。
一巡りの戦争がほとんど四半世紀のあいだ続き、ブルボン朝の復活によって終わった。
牢獄に収監中のフランス国王へのヨーロッパの君主たちの関心は、彼らの権威の源が正統性原理にあり、かつ国民主権のためにこの原理がいったん廃棄されれば彼らの安全も保障されないとすれば、理解することが可能だ。
なるほどアメリカの植民地は早くに民主制を宣言していたが、アメリカ合衆国は海外の領域にあり、指導的な大陸国家ではなかった。
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(03) ロシアはヨーロッパの外縁にあり、半分はアジアだった。そして、圧倒的に農業国家だった。したがって、ヨーロッパは、ロシア国内の進展が自分自身に関係があるとは考えていなかった。
1917年の騒乱は、既成の秩序に対する脅威ではなく、ロシアが遅れて近代に入ることを表明するものと、一般に解釈された。
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(04) こうした無関心が大きくなると、つぎのようなことになる。すなわち、歴史上最大で最も破壊的な戦争の真っ只中で起きたロシア革命は、正当に評価すべき事件ではなく、その戦争の一つのエピソードにすぎないという印象を、当時の人々に与えた。
ロシア革命が西側に生じさせたこの程度の興奮は、ほとんどもっぱら、軍事作戦への潜在的な影響と関係していた。
連合諸国と中央諸国はいずれも、二月革命を歓迎した。但し、異なる理由で。
前者は、人気のない帝制の崩壊はロシアの戦争遂行を再活性化するだろう、と期待した。
後者は、ロシアを戦争から退出させるだろう、と期待した。
もちろん、十月のクーは、ドイツでは熱狂的に歓迎された。
連合諸国の中には入り混じった受け取り方があったけれども、確実なのは、警報は発せられなかったことだ。
レーニンと彼の党は知られておらず、その夢想家的な計画や宣言は、誰も真面目に受け取らなかった。
とくにブレスト=リトフスク条約後の主な見方は、ボルシェヴィキはドイツが作ったもので、戦闘が終了すれば舞台から消え去るだろう、というものだった。
ヨーロッパ諸国の政府は例外なく、ボルシェヴィキの潜在的可能性とそれがもつヨーロッパの秩序に対する脅威を、いずれも極端に過小評価した。
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(05) このような理由で、第一次大戦の最後の年でも、そのあとに続く休戦に際しても、ロシアからボルシェヴィキを排除する企ては、何ら試みられなかった。
諸大国は1918年11月まで相互間での戦闘に忙殺されたので、遠く離れたロシアでの進展を気にかけることができなかった。
ボルシェヴィキは西側文明に対する致命的な脅威だとの声は、あちこちで少しは聞かれた。この声はドイツ軍でとくに大きかった。ドイツ軍は、ボルシェヴィキによる政治的虚偽宣伝や煽動と最も直接に接する経験を有していたからだ。
しかし、そのドイツですら結局は、直接的な利益を考慮することを、あり得る長期的な脅威への関心よりも優先した。
レーニンは、交戦諸国は講和締結後に力を合わせて、レーニンの体制に対抗する国際的十字軍を立ち上げるだろう、と絶対的に確信していた。
彼の恐怖は、根拠がなかった。
イギリス軍だけが積極的に、反ボルシェヴィキ勢力の側に立って干渉した。但し、熱意半分のことで、ある一人の人物、Winston Churchill の先導によってそうしたのだった。
その干渉は真剣には行なわれなかった。西側が用意できる軍事力は干渉が必要とする軍事力よりも強く、また、1920年代の初めにヨーロッパの大国は共産主義ロシアと講和し〔、国家承認し〕たからだ。
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第一節②へとつづく。
A/Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990).
**「1899 -1919」が付くのは1997年版以降。
B/Richard Pipes, Russia under the Bolshevik Regime 1919-1924 (1993).
上のA は、つぎのような構成だ(再掲。頁は追加)。
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序説。
第一部・旧体制の苦悶。 p.1〜p.337.
第二部・ボルシェヴィキによるロシアの征圧。 p.341〜.
第9章/レーニンとボルシェヴィズムの起源。 p.341〜.
第10章/ボルシェヴィキによる権力の追求。 p.385〜.
第11章/十月のクー。 p.439〜.
第12章/一党国家の形成。 p.507〜.
第13章/ブレスト=リトフスク。 p.567〜.
第14章/革命の国際化。 p.606〜.
第15章/「戦時共産主義」。 p.671〜.
第16章/村落に対する戦争。 p.714〜.
第17章/皇帝家族の殺害。 p.745〜.
第18章/赤色テロル。 p.789〜p.840.
あとがき。 〜p.842.
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もともと第一部をしっかり読む気はなかった。第二部・第9章からこの欄への試訳の掲載を始めた(2017年)。だが、巻末まで終わっておらず、掲載済みは第9章〜第13章だ。これは、第二部の5割余、全体の3割余にとどまる。
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Richard Pipes(リチャード・パイプス、1923〜2018)とLeszek Kolakowski(L・コワコフスキ、1927〜2009)のいくつかの書物は、2017年以降現在までの私の、大部分でも半分でもないが、重要な一部だった。2017年以降も生きていたからこそ、二人の書物にめぐり合うことができ、それまでの発想・思考方法自体をある程度は大きく変えることになった。生き物としての人間(の個体)の必然とはいえ、「知識」以上の多くのことを教えられたので、比較的近年に逝去し、今は現存していないことを意識すると、涙が滲む思いがある。
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Richard Pipes, The Russian Revolution 1899 -1919 (1990)の第14章の「試訳」を始める。
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第14章/革命の国際化。
休戦を達成することは、全世界を征服することだ。
—レーニン、1917年9月。
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第一節/ロシア革命への西側の関心の少なさ①。
(01) ロシア革命は、やがてフランス革命以上に、世界史に大きな影響を与ることになる。だが最初は、フランス革命ほど注目を浴びなかった。
これは二つの要因でもって説明することができる。フランス革命がより有名だったこと、二つの事件が異なる時期に起きたこと。
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(02) 18世紀後半、フランスは、政治的かつ文化的に、ヨーロッパの指導的大国だった。ブルボン王朝は大陸の第一の王朝で、君主制絶対主義を具現化していた。また、フランス語は、文化的社会の言語だった。
諸大国は最初は、フランスを揺さぶった革命の態様に喜んだ。しかしすぐに、彼ら自体の安定に対しても脅威であることに気づいた。
国王の逮捕、1879年9月の大虐殺、専制王を打倒するとのジロンド(the Girondins)の諸外国への訴えからして、フランス革命はたんなる政権の変化ではないということに、全く疑いはなかった。
一巡りの戦争がほとんど四半世紀のあいだ続き、ブルボン朝の復活によって終わった。
牢獄に収監中のフランス国王へのヨーロッパの君主たちの関心は、彼らの権威の源が正統性原理にあり、かつ国民主権のためにこの原理がいったん廃棄されれば彼らの安全も保障されないとすれば、理解することが可能だ。
なるほどアメリカの植民地は早くに民主制を宣言していたが、アメリカ合衆国は海外の領域にあり、指導的な大陸国家ではなかった。
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(03) ロシアはヨーロッパの外縁にあり、半分はアジアだった。そして、圧倒的に農業国家だった。したがって、ヨーロッパは、ロシア国内の進展が自分自身に関係があるとは考えていなかった。
1917年の騒乱は、既成の秩序に対する脅威ではなく、ロシアが遅れて近代に入ることを表明するものと、一般に解釈された。
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(04) こうした無関心が大きくなると、つぎのようなことになる。すなわち、歴史上最大で最も破壊的な戦争の真っ只中で起きたロシア革命は、正当に評価すべき事件ではなく、その戦争の一つのエピソードにすぎないという印象を、当時の人々に与えた。
ロシア革命が西側に生じさせたこの程度の興奮は、ほとんどもっぱら、軍事作戦への潜在的な影響と関係していた。
連合諸国と中央諸国はいずれも、二月革命を歓迎した。但し、異なる理由で。
前者は、人気のない帝制の崩壊はロシアの戦争遂行を再活性化するだろう、と期待した。
後者は、ロシアを戦争から退出させるだろう、と期待した。
もちろん、十月のクーは、ドイツでは熱狂的に歓迎された。
連合諸国の中には入り混じった受け取り方があったけれども、確実なのは、警報は発せられなかったことだ。
レーニンと彼の党は知られておらず、その夢想家的な計画や宣言は、誰も真面目に受け取らなかった。
とくにブレスト=リトフスク条約後の主な見方は、ボルシェヴィキはドイツが作ったもので、戦闘が終了すれば舞台から消え去るだろう、というものだった。
ヨーロッパ諸国の政府は例外なく、ボルシェヴィキの潜在的可能性とそれがもつヨーロッパの秩序に対する脅威を、いずれも極端に過小評価した。
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(05) このような理由で、第一次大戦の最後の年でも、そのあとに続く休戦に際しても、ロシアからボルシェヴィキを排除する企ては、何ら試みられなかった。
諸大国は1918年11月まで相互間での戦闘に忙殺されたので、遠く離れたロシアでの進展を気にかけることができなかった。
ボルシェヴィキは西側文明に対する致命的な脅威だとの声は、あちこちで少しは聞かれた。この声はドイツ軍でとくに大きかった。ドイツ軍は、ボルシェヴィキによる政治的虚偽宣伝や煽動と最も直接に接する経験を有していたからだ。
しかし、そのドイツですら結局は、直接的な利益を考慮することを、あり得る長期的な脅威への関心よりも優先した。
レーニンは、交戦諸国は講和締結後に力を合わせて、レーニンの体制に対抗する国際的十字軍を立ち上げるだろう、と絶対的に確信していた。
彼の恐怖は、根拠がなかった。
イギリス軍だけが積極的に、反ボルシェヴィキ勢力の側に立って干渉した。但し、熱意半分のことで、ある一人の人物、Winston Churchill の先導によってそうしたのだった。
その干渉は真剣には行なわれなかった。西側が用意できる軍事力は干渉が必要とする軍事力よりも強く、また、1920年代の初めにヨーロッパの大国は共産主義ロシアと講和し〔、国家承認し〕たからだ。
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第一節②へとつづく。