Orlando Figes, Revolutionary Russia 1891-1991—A History(2014)。第四章の試訳のつづき。
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 第五節。
 (01) ロシアの国民的議会の閉鎖に対して、全民衆的な反応はなかった。
 エスエルを支持する伝統的基盤である農民層には、無関心があった。
 エスエルは自分たちの憲法会議への敬意を農民たちは共有してくれている、と考えていたが、これは間違っていた。
 教養のある農民たちにとってはおそらく、憲法会議は「革命」のシンボルだった。
 だが、自分たちの政治的思考の及ぶ範囲が彼ら自身の村落に限定されていた農民大衆にとっては、憲法会議は、都市的政党が支配する遠く離れた議会であり、評判の悪い帝制期のドゥーマを連想させるものだった。
 彼らには、自分たちの考えに近い村落ソヴェトがあった。実際には、より革命的形態での村落集会にすぎなかったけれども。
 あるエスエルの宣伝活動家は、農民兵士たちの集団がこう言うのを聞いた。「何のために憲法会議が必要なのか?、我々のソヴェトがすでにあり、我々の代表者は、集まって、何でも決定できるというのに」(注12)。
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 (02) 農民層は、村落ソヴェトを通じて、地主たち(gentry)の土地と財産を自分たちに分けた。
 そうしたのは社会正義に関する彼らの平等主義的規範に沿ったからで、10月26日に全国ソヴェト大会が採択した土地に関する布令による制裁(sanction)を必要としなかった。
 いかなる中央の権力も、彼らがすべきことを語りはしなかった。
 村落共同体(commune)は、各世帯の「食べる者」の数に従って、没収した耕作地の細片を割り当てた。
 土地所有者には、農民がするように自分で労働するならば、通常はそのための区画が残された。
 村落共同体の意識の中核にあった土地と労働の権利は、基本的な人間の権利だと理解されていた。
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 (03) 左翼エスエルは、ペテログラードでの敗北の後で、民主主義回復への支持を集めるべく、彼らの元々の、地方の根拠地に戻った。
 そのことは、地方の生活の新しい現実について、新たな教訓を明らかにすることになった。
 都市部では次から次に、穏健な社会主義者たちが、ソヴェトの支配権を極左へと譲り渡した。
 ボルシェヴィキと左翼エスエルが、準工業的農民の大部分とともに労働者と兵士たちの支持をあてにすることができた北部と中央の工業地域では、地方ソヴェトのほとんどは、たいていは投票箱を通じて、10月の末までに、ボルシェヴィキの手に握られた。そして、Novgograd、Pskov、Tver でのみ、若干の激しい戦闘が起きた。
 さらに南部の農業地方では、権力の移行は長くかかり、主要な都市の路上の戦闘によって血が流れた。
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 (04) ソヴェト権力の確立にしばしば伴なっていたのは、「ブルジョア」の財産の没収だった。
 レーニンは地方ソヴェトの指導者に対して、復讐によって社会正義を実現する形態として、「略奪者からの略奪」を組織することを推奨した。
 ソヴェトの役人たちは、薄い令状を持ちつつ、ブルジョアの家宅を周りに行き、「革命のために」貴重品や金銭を没収することになる。
 ソヴェトは<burzhooi>〔ブルジョア〕から税金を徴収し、納入を強制するために人質を監獄に入れた。
 こうして、ボルシェヴィキのテロルが始まった。
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 (05) 報復と復讐は、革命の力強い駆動力だった。
 巨大な数のロシアの民衆にとって、全ての特権の廃止が革命の基本的原理だった。
 ボルシェヴィキは、この特権に対する闘争に制度的形態を与えることによって、自らの運命に何ら良いことがなくとも富者や強者が破壊されるのを見ることに満足する、そのような貧しい、多数の民衆から革命のエネルギーを引き出すことができた。
 ソヴェトの政策で民衆に訴えることができたのは、つぎだった。昔の豊かな階級がその持つ広い家屋を都市の貧しい民衆と分かち合うよう、あるいは路上で雪やゴミを清掃するような単調かつ退屈な作業をするように強いること。
 トロツキーはこう述べた。「何世紀にもわたって、我々の父親や祖父たちは、支配階級の汚物やゴミを清掃してきた。だが今は、我々が彼らに我々の汚物をきれいにさせよう。我々は彼らの生活を快適でないものにして、ブルジョアにとどまるという希望を失わせるようにしなければならない」(注13)。
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 (06) ボルシェヴィキは、<ブルジョア>を「寄生虫」、「階級の敵」だと描いた。
 そして、大規模に彼らを破壊するテロルを行うことを奨励した。
 レーニンは、1917年12月に「競争を組織する仕方」を書いて、それぞれの町や村には「ロシアの大地からノミ、シラミ—ごろつき、狂人—、金持ち、等々を一掃する」それぞれに独自の手段が残されるべきだ、と提案した。
 「ある所では、10人の金持ち、12人のゴロつき、仕事を怠ける6人の労働者が、監獄に入れられるだろう。
 二つめの場所では、彼らはトイレ掃除をさせられるだろう。
 三つめの場所では、一定の時間を務めた後で『黄色い切符』が与えられるだろう。そうすると、彼らが直るまで、<有害な>者たちだと誰もが警戒し続ける。
 四つめの場所では、全員のうち10人ごとの怠け者の中から1人が、ただちに射殺されるだろう。」(注14)
 「ブルジョアジーに死を!」は、チェカ(Cheka)の建物の壁に書かれていた。
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 (07) 財産を奪われ、名誉を傷つけられ、「かつての人民」は生き残りのためにもがいた。
 彼らは、食っていくだけのために最後の所有資産を売ることを強いられた。
 Meyendorff 男爵夫人は、5000ルーブルでダイアモンド製ブローチを売った。—一袋の小麦を買うことができた。
 貴族の御曹司たちは、街路上の売り人へと格落ちした。
 多数の者が全てを売り払い、外国へと逃亡した。—およそ200万のロシア人エミグレが1920年代の初めまでに、Berlin、Paris、New York にいた。あるいは、南へと、ウクライナやKuban へ逃げた。そこは、反革命の白軍が勢力の主要な基盤としていた地域だった。
 白衛軍は、帝制軍、コサック、地主やブルジョアの息子たちで成る義勇部隊で、ボルシェヴィキに反抗する闘争でもって統合された。
 彼らの明瞭なただ一つの目標は、時計の針を1917年十月の前に戻すことだった。
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 第四章第五節、終わり。