Orlando Figes, Revolutionary Russia 1891-1991—A History(2014)。第四章の試訳のつづき。
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 第三節。
 (01) ボルシェヴィキ指導者たちのほとんどが実際のような方法と時期で蜂起するのを望んでいなかった、というのは、ボルシェヴィキ蜂起に関する皮肉の一つだ。
 10月24日の夕方遅くまで、中央委員会の多数派と軍事革命委員会は、全国ソヴェト大会の開会の前に臨時政府の打倒があることを予期していなかった。その臨時政府打倒は、24日の翌日に、Smolny 研究所—かつては貴族の娘たちの学校だったことのある黄土色の古典的な宮殿—の白い柱廊のある舞踏会場で行なわれたのだったが。ここで打倒とは、ほぼ臨時政府の大臣たち(ケレンスキーを含まない)の逮捕(身柄拘束)を意味した。
 武装したボルシェヴィキの支持者たちは、首都ペテログラードを反革命の攻撃から防衛するためだけに、街路を占拠していた。
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 (02) レーニンの介入が、決定的だった。
 付け髭と頭に包帯を巻いた帽子で変装してペテログラードの隠れ場所を出発し、Smolny 研究所のかつての一教室(36番)にあるボルシェヴィキの司令部へと向かった。蜂起の開始を強要するために。
 市街を横断する途中のTaurida 宮の近くで、彼は政府の警護官の検問を受けて停止させられた。だが、その警護官たちはレーニンをホームレスの酔っ払いだと勘違いし、レーニンを通過させた。そのときにレーニンが逮捕されていたら、その後の歴史はどう変わっていただろう?
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 (03) レーニンはSmolny に到着し、蜂起の開始を命令することを中央委員会に強制した。
 ペテログラードの地図が持ち出され、ボルシェヴィキ指導者たちはそれを見てじっくり研究していた。そして、攻撃をする主要なラインを引き終わっていた。
 レーニンが、ソヴェト大会に提示されるべきボルシェヴィキ政府の閣僚名簿を作ることを提案した。
 それを何と称するかという問題が生じた。
 「臨時政府」という名称は評判を落としていた。閣僚を「大臣(ministers)」と呼ぶのはブルジョア的だと思われた。
 フランスのジャコバン派に倣って「人民委員(people’s commissars)」という名を思いついたのは、トロツキーだった。
 全員がこの提案に賛成した。
 レーニンは言った。「うん、それはいい。革命の香りがする。そして、政府〔=内閣〕そのものを『人民委員会議』(the council of -)と称することができる」(注6)。
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 (04) 1917年10月25日の事件ほど、神話によって歪曲されてきた歴史的出来事は、他にほとんどない。
 ボルシェヴィキの蜂起は民衆の英雄的闘争だとする一般に共通する感覚は、歴史的事実というよりむしろ、<十月>—1927年に制作されたSergei Eisenstein の政治的宣伝映画—の影響を受けている。
 ソヴィエト同盟ではのちに称されるようになった偉大なる十月社会主義革命(The Great October Socialist -)は、実際にはクーにすぎなかった。ペテログラード市民の大多数には全く気づかれないままで推移したクーだった。
 劇場、レストラン、路面電車は、ボルシェヴィキが権力奪取に至っているあいだ、全くふつうに機能していた。
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 (05) 冬宮のMalachite ホールにはケレンスキー内閣の大臣たちが籠もっていたのだが〔ケレンスキーを含まない〕、そこへの伝説的な「突入」は、大臣たちの自宅軟禁のごときものだった。
 「突入」を指揮したのは、ボルシェヴィキのVladimir Antonov-Ovseenko だった。それは、Eisenstein の映画製作者たちが描くほどの損傷を与えなかった。
 冬宮の大臣たちを防衛する部隊のほとんどは、突撃が始まる前にすでに、腹を空かせ、意気消沈して、家路についていた。
 蜂起に積極的に参加した者の数は、大きくはなかった(多数を必要としなかった)。—たぶん、冬宮広場にいた1万人から1万5000人の間の数の労働者、兵士および海兵だ。
 しかも、それらの全員が「突入」に加わったのではなかった。しかし、多くの者はのちには、突撃に加わったと言い張った。
 冬宮が掌握されると、多数の民衆たちが関与するようになり、主としては、宮殿およびそのワイン貯蔵庫から略奪した。
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 (06) 冬宮が掌握されたことは、タバコの煙で充ちたSmolny 研究所の大ホールで行なわれていたソヴェト全国大会で発表された。
 670人の代議員たち—ほとんどがガウンやコートをまとった労働者と兵士たち—は、メンシェヴィキのMartov の提案を満場一致で可決した。その決議は、ソヴェトの全政党に基盤をおく社会主義政府を樹立しよう、というものだった。
 その直後に権力の奪取が発表されたとき、メンシェヴィキとエスエルの代議員たちのほとんどは、自分たちは「犯罪的冒険」に何の関係もないとの声明を出し、抗議してソヴェト大会から退出した。
 おそらくは会場の半分を占めていたボルシェヴィキの代議員は、口笛を吹き、床を踏み鳴らし、彼らを嘲笑する言葉を投げつけた。
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 (07) レーニンが計画した挑発的行為—先制のクー—は、成功した。
 過ちを認めた最初のメンシェヴィキの一人であるNikolai Sukhanov の言葉によれば、メンシェヴィキとエスエルは大会から退出することによって、「ソヴェトを、民衆を、そして革命を独占することをボルシェヴィキに許した」。「我々自身の非理性的な行動によって、レーニンの全ての『ほら』の勝利を保障した」(注7)。
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 (08) 直接の効果として、メンシェヴィキおよびエスエルが分離した。
 これを主導したのは、トロツキーだった。
 トロツキーは、「我々を残して去った惨めな集団」との連立を求めるMartov 提案の決議を非難して、大ホールに残っていたメンシェヴィキとエスエルの代議員に対して、つぎの記憶に残る言葉を発した。
 「きみたちは破産者だ。役割はもう終わった。行くべき所へ行け—歴史のゴミ箱へ!」。
 残りの生涯を通じて苦悶することになるのだが、Martov は、激しい怒りを瞬間に感じて、叫んだ。「では、出て行こう!」。そして、ホールから出て行った(注8)。
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 (09) 午前2時すぎだった。残っていたのは、ソヴェト権力を破壊しようとするメンシェヴィキとエスエルの「裏切り」的企てを非難する決議を、トロツキーが提案することだった。
 おそらくは行なっていることの重要性を理解していなかった一般代議員たちは、この提案を支持して手を高く上げた。
 彼らの行為は結果として、ボルシェヴィキ独裁に対して、それを肯定するソヴェトのスタンプを与えた。
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 第四章第三節、終わり。