Orlando Figes, Revolutionary Russia 1891-1991—A History(2014)。第四章の試訳のつづき。
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 第二節。
 (01) コルニロフ事件によって、レーニンは決意を固めた。臨時政府を打倒するために立ち上がるときがきた。
 しかし、すぐに蜂起をしたのではない。
 レーニンは、権力の問題を解決すると想定された9月14日の民主主義会議(Democratic Conference)の前に、ボルシェヴィキの仲間たちの努力を支持していた。エスエルとメンシェヴィキに対して、リベラル派との連立から離れ、全ての社会主義政党による政府に加わろうと説得する彼らの努力を。
 Kornilov を打倒するに際して左翼諸政党が協力したことは、政治的手段でソヴェト権力を達成できる展望を切り拓いた。
 カーメネフは、これを任務とするボルシェヴィキ活動家だった。
 彼はレーニンとは違って、党はソヴェト運動と二月革命が生んだ民主主義的仕組みの範囲内で権力を求めるべきだ、と考えた。
 したがってまた、ロシアはボルシェヴィキによる蜂起に対応できるには未熟で、段階を一つ上げるいかなる企てもテロル、内戦とボルシェヴィキ党の敗北で終わるのを余儀なくされる、と考えた。
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 (02) レーニンは、だが、民主主義会議でエスエルとメンシェヴィキがカデットと分離できなかったことを知って、武装蜂起をするという元の主張に立ち戻った。
 エスエルとメンシェヴィキは、ケレンスキーの指導の下で、9月24日に、カデットとの連立を組み変えた。このことは、その週に行なわれたペテログラード・ドゥーマ選挙で、彼らの大敗北につながった。
 モスクワでは、エスエルへの票は6月の56パーセントからわずか14パーセントに減った。メンシェヴィキは12パーセントから4パーセントに落ちた。その一方で、ボルシェヴィキは6月に11パーセントだったが、9月には51パーセントを獲得して大勝利した。カデットは、17パーセントから31パーセントへと増やした。
 この結果は国の両極化を明らかに示した。—投票者が際立った階級的主張をもつ両端の政党を支持したので、「内戦選挙」と称された。
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 (03)  レーニンは、フィンランドの新しい隠れ家から、ボルシェヴィキ中央委員会に対して、武装蜂起の開始を呼びかける、ますます苛立った手紙を矢のように送りつけた。
 彼は、ボルシェヴィキは「国家権力を自らの手中に収めることができるし、そうしなければならない」と論じた。
 できる。—党はすでにモスクワとペテログラードのソヴェトで多数派になっている。これでもって、内戦へと「民衆を連れて行く」のに十分であるのだから。
 「しなければならない」。—投票箱を通じて権力を獲得しようと憲法会議を待っていれば、「ケレンスキー商会」が、ペテログラードをドイツに捧げるか軍事独裁を樹立するかのいずれかによって、ソヴェトに対して先制攻撃をするだろうから。
 彼は同志たちに、「暴動は芸術(art)だ」というマルクスの権威ある言明を思い起こさせた。
 そしてこう結論づける。「ボルシェヴィキが『形式的な』多数派になるのを待つのは純朴すぎる。革命はそうなることを待ってくれはしない」(注3)。
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 (04) 中央委員会は、レーニンの指示を無視した。まだカーメネフの議会主義的戦術を支持して、ソヴェトへの権力の移行のために、10月に召集される予定の第二回全ロシア・ソヴェト大会まで待つ、と決議した。
 ペテログラードから120キロ離れた保養地のVyborg へと移って、レーニンは、党組織に対して矢継ぎばやに激しいメッセージを送りつづけた。それらは、ただちに—ソヴェト全国大会の<前に>—武装蜂起を開始することを迫るものだった。
 レーニンは9月29日にこう書いた。「ソヴェト大会を『待つ』ならば、我々は革命を『台無しにする』に違いない」(注4)。
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 (05)  レーニンの性急さは、政治的だった。
 権力の移行が大会での票決によって起きていれば、その結果はほとんど間違いなく、全ての社会主義政党から成る社会主義連立政府だっただろう。
 ボルシェヴィキは、少なくともエスエルとメンシェヴィキの左翼(あるいはひょっとすれば全部)に位置して権力を分有しなければならなかっただろう。
 これはレーニンの党内の最大の好敵であるカーメネフの勝利を意味し、カーメネフはおそらく、どんな社会主義連立政府であっても、ソヴェトの中心人物として登場しただろう。
 大会の前に権力を掌握してこそ、レーニンは政治的主導権を握ることができる。そして、他の社会主義政党に対して、ボルシェヴィキの行動を是認してレーニンの政府に参加することを強いることができるだろう。あるいはそれに反抗すれば、政府はボルシェヴィキだけのものになるだろう。
 レーニンの革命とは、臨時政府に対抗するのと同等に、ソヴェトに基礎をおく他の社会主義政党に対抗して行なわれたものだった。
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 (06) レーニンは我慢できなくなって、ペテログラードに戻り、10月10日に中央委員会の秘密会合を開催した。そこで、10票対2票(カーメネフとジノヴィエフ)という重大な票決でもって、蜂起を準備することを押し付けた。
 その時期は、まだ明瞭でなかった。
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 (07) ボルシェヴィキの指導者たちの多くは、ソヴェト全国大会以前のいかなる行動にも反対だった。
 10月10日の中央委員会会議で、ボルシェヴィキ軍事革命委員会その他の活動家から、つぎの報告がなされた。ペテログラードの兵士と労働者たちは党の呼びかけだけでは出てこないが、「決起を刺激する何かがあれば、積極的に飛び出す、つまり兵団から離脱するだろう」(この離脱はケレンスキーの連隊との絶縁を意味した)(注5)。
 しかし、レーニンは、即時の準備の必要を執拗に主張した。
 これは、ペテログラードの一般市民の慎重な雰囲気を無視してのものだった。レーニンが思い抱く権力奪取の方法であるクー・デタでは、少数精鋭の武力だけが必要だった。十分な武装と紀律があればよかった。
 彼には、Baltic 連隊の中のボルシェヴィキ支持者による、ペテログラードの軍事侵略としてクーを実行する、という用意すらあった。
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 (08) レーニンは聳え立つがごとき影響力を持ったので、彼は10月16日の中央委員会でその主張を貫徹し、ごく近い将来に蜂起するという提案を支持する決議を(19票対2票で)行なわせた。
 カーメネフとジノヴィエフはこの決議を支持することができず、中央委員会から脱退した。そして、10月18日に、彼らは蜂起に反対していることを新聞の記事で公にした。
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 (09) ボルシェヴィキの陰謀は今や公に知られるところとなり、ソヴェトの指導者たちは、第二回全国大会を10月25日まで延期すると決議した。
 彼らが期待したのは、これで生じた5日のあいだに、遠く離れた地方から支援者たちを集める、ということだった。
 しかし実際には、ボルシェヴィキが蜂起を準備するのに必要な時間を与えることになった。
 この延期はまた、ソヴェト大会はそもそも開会されないかもしれないとのボルシェヴィキの主張に信憑性を与え、大会を防衛するという理由でボルシェヴィキ支持者たちが街路上に出てくるのを助けた。
 ケレンスキーが巨大なペテログラード連隊を北部前線に移すという愚かな計画を発表したとき、「反革命」の噂はさらに大きくなった。
 軍事革命委員会(MRC)—〔ペテログラード・ソヴェト内にあって〕ボルシェヴィキの蜂起を先導することになる実力組織—が10月20日に設立されたのは、ペテログラード連隊の移転を阻止するためだった。
 前線への派遣に脅かされて、多数の兵士たちは将校たちに服従するのを拒み、忠誠の対象を軍事革命委員会に切り換えた。軍事革命委員会は10月21日、自分たちが連隊を統率する組織だと宣言した。
 MRC による連隊の奪取は、蜂起の最初の行為だった。
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 第四章第二節、終わり。