M. A. Steinberg, The Russian Revolution 1905-1921 (Oxford, 2017) の一部の試訳。
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第四章—内戦
第一章②
(07) ボルシェヴィキは、社会主義者とリベラル派が民主主義革命の聖なる目標だと長らく見なしてきた民主的機構に反対する、という劇的な行動を行なった。だが、その前にすでに、対立する見解を抑圧し始めていた。
10月後半のプレスに関する布令は、多数の新聞を廃刊させた。その中には、リベラル派および社会主義派の新聞も含まれていた。『抵抗と不服従』を刺激し、『事実の明らかに中傷的な歪曲によって混乱の種を撒く』、あるいは、たんに『民衆の気分を害して、民衆の心理を錯乱させる種を撒く』、そういう可能性があったからだ(19)。
11月の後半に、主要な非社会主義政党、人民の自由〔People’s Freedom〕の党として公式には知られていた立憲民主党(カデット、Kadets〕を非合法化した。その指導者は逮捕され、全党員が監視のもとに置かれた(20)。
ソヴェト指導部の中で依然として活動していた非ボルシェヴィキの僅かの者たち—とくに左翼エスエル、中でもIsaak Steinberg—は、上の布令を批判した。これに対して、伝えられるところでは、Trotsky は、階級闘争がもっと激烈になるとすぐに必要になるだろうものに比べれば『寛大なテロル』にすぎない、と警告した。『我々の敵に対しては、監獄ではなくギロチンが用意されるだろう』(21)。
1917年12月に、政府は『反革命と破壊行為に対する闘争のための全ロシア非常委員会』を設立した。これは、Vecheka またはCheka として(イニシャルから)知られるもので、革命に対する反抗を発見して弾圧することを任務とする保安警察だった(22)。
Cheka を設立した動機の一つは、歴史家のAlexander Rabinowich が示したように、左翼エスエルが政府の連立相手として歓迎されているまさにそのときすでに、ボルシェヴィキをその左翼エスエルによる妨害から自由にする機関が必要だったことだ。内部報告書でのCheka の幹部の一人の説明によると、左翼エスエルは、彼らの『「普遍的」道徳観、人間中心主義を強調し、自由な言論とプレスを享受するという反革命的な権利に制限を加えることに抵抗することで、反革命に対する闘いを大いに妨げている』(23)。
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(08) 全国土にわたる『赤』と『白』の間の軍事闘争としての内戦は、1918年の夏に本格的に始まった。
多くの点で、実際に経験されたように、内戦は1914年に始まった国家の暴力の歴史を継続させたものだった。
ソヴェト国家は、1918年3月に『最も厄介で屈辱的な〔ブレスト=リトフスク〕講和条約』(党自身の判断)を受け入れて、ドイツとの戦争を何とか脱していた。党指導部の少数派は、軍が崩壊し前線の兵団が完全に『士気喪失』した以降はゲリラ戦争としてであっても(24)、国際的階級闘争の原理は条約の条件を拒否して、帝国主義と資本主義との戦争の継続を要求する、と主張したけれども。
講和によって生まれると想定された『ひと息』は、かろうじて数ヶ月だけ続いた。そのあと白軍(かつての帝制将軍に率いられる反ボルシェヴィキ勢力の連合で、1918年初めに姿を見せ始めた)と赤軍(戦争人民委員であるTrotsky の指導で1918年半ばに設立された軍団)のあいだで継続的に戦闘が勃発した。
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(09) しかし、内戦は、赤と白の単純な二進法が示唆する以上に複雑で変化が著しい経験だった(25)。
内戦の歴史に含まれるのは、テロル、エスエルやアナキストおよびボルシェヴィキ『独裁』にも白軍が代表するように見えた右翼独裁への回帰にも反対する社会主義者たちによる武装闘争だった。赤と白の両方と闘った農民の『緑』軍は、主に農民の自治に対する大きくて目前の脅威をもたらす者たちに依拠していた。国じゅうの民族独立運動もあり、イギリス、フランス、アメリカその他の連合諸国による武力干渉もあり、ポーランドとの戦争もあった。
1920年の末頃までに、種々多様なことから、また大量の流血を通じて、赤軍とソヴェトが状況を支配した。白軍は敗れ、ボルシェヴィキ権力に反抗するその他の運動は粉砕された(当分のあいだは)。そして、ソヴィエト諸政府が確立され、Georgia、Armenia、Azerbaijan、東部Ukraine で防衛された。
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(10) 赤軍とソヴェト権力がいかにして勝利したかを、歴史家は多く議論してきた。
ほとんどの歴史家は、つぎの点で一致している。すなわち、軍事、戦略、政治的立場が共産党の側に有利だった。
軍事的には、赤軍は驚くほどに効率的な軍隊だった。とくに、白軍の指導部の淵源が帝制時代の軍隊にあったことと比較して、その起源が自由志願の赤衛隊にあったことを考えるならば。
兵士たちの中から新しい『赤軍』指揮官を養成した一方で、政府が『軍事専門家』に赤軍に奉仕して、その権威を高めるよう強いたことはこれを助けた。赤軍は命令の伝統的階層構造を復活させた。
戦略的には、赤軍は地理的な中心部の外側で活動することで有利になった。ソヴェト政府はロシアの中心地域を支配していたが、このことは、人口、工業、軍需備品の多くを統制できることを意味した。一方で、白軍は、別の軍隊の協力が限られている、外縁部で活動していた。
このことは、ロシアの主要な鉄道はモスクワから放射状に伸びていたので、とくに重要だった(モスクワは1918年3月から実効的な首都になった。その頃、やがてドイツの手に落ちる可能性が出てきたので、政府はペテログラードを去った)。赤軍は、効率のよい、輸送や連絡の線を持つことになったので。
一方で、白軍は、農業地をより多く支配した。それで、彼らの兵団の食料事情は良かった。
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(11) だがとりわけ、白軍は、政治的有利さの点で苦しんだ。
白軍指導者たちは、自分たちは旧秩序を復活させることができないと、と理解していた。
しかし、彼らの背景とイデオロギーからして、民衆の多数の望みを承認することも困難だと気づいていた。
『ロシアは一つで不可分』という帝国的理想に依拠していたので、彼らは、非ロシア民族の者たちに戦術的に譲歩を提示することすら拒んだ(非ロシア民族は辺縁地域での支持を獲得するためには不可欠だったかもしれないが)。そして白軍は、非ロシア民族の支配下の土地で、民族主義を抑圧した。
農民たちは、内戦中にどちらの側についても熱狂的に支持することはなかった。
赤軍と白軍のいずれも、農民たちから穀物と馬を奪い、自分たちへと徴兵した。そして、反対者だと疑われる者に対してテロルを用い、ときには村落全体を焼き払った。
だが、農民にとって重要なのは土地であるところ、ボルシェヴィキは—賢明にも、または偽善的に、農民たちの動機いかんを判断して—、農民による土地掌握を是認した。一方で、白軍指導者たちは、法と私有財産の原理の名のもとで、村落革命のために何も行なわなかった。言うまでもなく、彼らの基盤的な後援層の一つである土地所有者たちの支持を得て。
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(12) 内戦は、凶暴な事態だった。
いずれの側も、大量の投獄、略式処刑、人質取り、その他の、反対者と疑われる者に対する『大量テロル』を行なった。
どの戦争でも見られる『行き過ぎ』があったが、両方の側の指導部によって看過された。
赤と白の暴力は、釣り合いから見て似たようなもので、お互いさまだった。
しかし、ボルシェヴィキは、とくにCheka を通じて、この血に汚れた(blood-staind)歴史を残すのに顕著に貢献した。(『非常』措置を普通のことにして)生き延びるに必要なことは何でもするという実際的な意欲があったばかりではなく、暴力と実力強制を、世界を作り直し、歴史を前進させる手段として積極的に容認した。
『プロレタリアート』(ほとんどは言わば、労働者階級の<名前で>階級戦争を闘っている者)の暴力は、歴史的に必要なものであるのみならず、道徳であり善だった。これこそが階級戦争を終わらせるものであり、そして、暴力の全てを終わらせ、損傷している人間性を回復し、新しい世界と新しい人類を創り出す階級戦争だった(26)。
ボルシェヴィキは、暴力と実力強制は偉大な歴史的過程、『自由の王国への跳躍』、の一部だと考えた。これは、不平等と抑圧の古い王国で利益を得る者たちとの闘争なくしては遂行することができない。
ボルシェヴィキは、Lenin が述べたように、『民衆の大多数』の利益のために、そして『資本主義者の抵抗を破壊する』ために用いられる『ジャコバン』的手段(フランス革命時の急進派とギロチンを想起させる)を採ることを、何ら怖れていなかった(27)。
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第四章—内戦
第一章②
(07) ボルシェヴィキは、社会主義者とリベラル派が民主主義革命の聖なる目標だと長らく見なしてきた民主的機構に反対する、という劇的な行動を行なった。だが、その前にすでに、対立する見解を抑圧し始めていた。
10月後半のプレスに関する布令は、多数の新聞を廃刊させた。その中には、リベラル派および社会主義派の新聞も含まれていた。『抵抗と不服従』を刺激し、『事実の明らかに中傷的な歪曲によって混乱の種を撒く』、あるいは、たんに『民衆の気分を害して、民衆の心理を錯乱させる種を撒く』、そういう可能性があったからだ(19)。
11月の後半に、主要な非社会主義政党、人民の自由〔People’s Freedom〕の党として公式には知られていた立憲民主党(カデット、Kadets〕を非合法化した。その指導者は逮捕され、全党員が監視のもとに置かれた(20)。
ソヴェト指導部の中で依然として活動していた非ボルシェヴィキの僅かの者たち—とくに左翼エスエル、中でもIsaak Steinberg—は、上の布令を批判した。これに対して、伝えられるところでは、Trotsky は、階級闘争がもっと激烈になるとすぐに必要になるだろうものに比べれば『寛大なテロル』にすぎない、と警告した。『我々の敵に対しては、監獄ではなくギロチンが用意されるだろう』(21)。
1917年12月に、政府は『反革命と破壊行為に対する闘争のための全ロシア非常委員会』を設立した。これは、Vecheka またはCheka として(イニシャルから)知られるもので、革命に対する反抗を発見して弾圧することを任務とする保安警察だった(22)。
Cheka を設立した動機の一つは、歴史家のAlexander Rabinowich が示したように、左翼エスエルが政府の連立相手として歓迎されているまさにそのときすでに、ボルシェヴィキをその左翼エスエルによる妨害から自由にする機関が必要だったことだ。内部報告書でのCheka の幹部の一人の説明によると、左翼エスエルは、彼らの『「普遍的」道徳観、人間中心主義を強調し、自由な言論とプレスを享受するという反革命的な権利に制限を加えることに抵抗することで、反革命に対する闘いを大いに妨げている』(23)。
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(08) 全国土にわたる『赤』と『白』の間の軍事闘争としての内戦は、1918年の夏に本格的に始まった。
多くの点で、実際に経験されたように、内戦は1914年に始まった国家の暴力の歴史を継続させたものだった。
ソヴェト国家は、1918年3月に『最も厄介で屈辱的な〔ブレスト=リトフスク〕講和条約』(党自身の判断)を受け入れて、ドイツとの戦争を何とか脱していた。党指導部の少数派は、軍が崩壊し前線の兵団が完全に『士気喪失』した以降はゲリラ戦争としてであっても(24)、国際的階級闘争の原理は条約の条件を拒否して、帝国主義と資本主義との戦争の継続を要求する、と主張したけれども。
講和によって生まれると想定された『ひと息』は、かろうじて数ヶ月だけ続いた。そのあと白軍(かつての帝制将軍に率いられる反ボルシェヴィキ勢力の連合で、1918年初めに姿を見せ始めた)と赤軍(戦争人民委員であるTrotsky の指導で1918年半ばに設立された軍団)のあいだで継続的に戦闘が勃発した。
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(09) しかし、内戦は、赤と白の単純な二進法が示唆する以上に複雑で変化が著しい経験だった(25)。
内戦の歴史に含まれるのは、テロル、エスエルやアナキストおよびボルシェヴィキ『独裁』にも白軍が代表するように見えた右翼独裁への回帰にも反対する社会主義者たちによる武装闘争だった。赤と白の両方と闘った農民の『緑』軍は、主に農民の自治に対する大きくて目前の脅威をもたらす者たちに依拠していた。国じゅうの民族独立運動もあり、イギリス、フランス、アメリカその他の連合諸国による武力干渉もあり、ポーランドとの戦争もあった。
1920年の末頃までに、種々多様なことから、また大量の流血を通じて、赤軍とソヴェトが状況を支配した。白軍は敗れ、ボルシェヴィキ権力に反抗するその他の運動は粉砕された(当分のあいだは)。そして、ソヴィエト諸政府が確立され、Georgia、Armenia、Azerbaijan、東部Ukraine で防衛された。
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(10) 赤軍とソヴェト権力がいかにして勝利したかを、歴史家は多く議論してきた。
ほとんどの歴史家は、つぎの点で一致している。すなわち、軍事、戦略、政治的立場が共産党の側に有利だった。
軍事的には、赤軍は驚くほどに効率的な軍隊だった。とくに、白軍の指導部の淵源が帝制時代の軍隊にあったことと比較して、その起源が自由志願の赤衛隊にあったことを考えるならば。
兵士たちの中から新しい『赤軍』指揮官を養成した一方で、政府が『軍事専門家』に赤軍に奉仕して、その権威を高めるよう強いたことはこれを助けた。赤軍は命令の伝統的階層構造を復活させた。
戦略的には、赤軍は地理的な中心部の外側で活動することで有利になった。ソヴェト政府はロシアの中心地域を支配していたが、このことは、人口、工業、軍需備品の多くを統制できることを意味した。一方で、白軍は、別の軍隊の協力が限られている、外縁部で活動していた。
このことは、ロシアの主要な鉄道はモスクワから放射状に伸びていたので、とくに重要だった(モスクワは1918年3月から実効的な首都になった。その頃、やがてドイツの手に落ちる可能性が出てきたので、政府はペテログラードを去った)。赤軍は、効率のよい、輸送や連絡の線を持つことになったので。
一方で、白軍は、農業地をより多く支配した。それで、彼らの兵団の食料事情は良かった。
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(11) だがとりわけ、白軍は、政治的有利さの点で苦しんだ。
白軍指導者たちは、自分たちは旧秩序を復活させることができないと、と理解していた。
しかし、彼らの背景とイデオロギーからして、民衆の多数の望みを承認することも困難だと気づいていた。
『ロシアは一つで不可分』という帝国的理想に依拠していたので、彼らは、非ロシア民族の者たちに戦術的に譲歩を提示することすら拒んだ(非ロシア民族は辺縁地域での支持を獲得するためには不可欠だったかもしれないが)。そして白軍は、非ロシア民族の支配下の土地で、民族主義を抑圧した。
農民たちは、内戦中にどちらの側についても熱狂的に支持することはなかった。
赤軍と白軍のいずれも、農民たちから穀物と馬を奪い、自分たちへと徴兵した。そして、反対者だと疑われる者に対してテロルを用い、ときには村落全体を焼き払った。
だが、農民にとって重要なのは土地であるところ、ボルシェヴィキは—賢明にも、または偽善的に、農民たちの動機いかんを判断して—、農民による土地掌握を是認した。一方で、白軍指導者たちは、法と私有財産の原理の名のもとで、村落革命のために何も行なわなかった。言うまでもなく、彼らの基盤的な後援層の一つである土地所有者たちの支持を得て。
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(12) 内戦は、凶暴な事態だった。
いずれの側も、大量の投獄、略式処刑、人質取り、その他の、反対者と疑われる者に対する『大量テロル』を行なった。
どの戦争でも見られる『行き過ぎ』があったが、両方の側の指導部によって看過された。
赤と白の暴力は、釣り合いから見て似たようなもので、お互いさまだった。
しかし、ボルシェヴィキは、とくにCheka を通じて、この血に汚れた(blood-staind)歴史を残すのに顕著に貢献した。(『非常』措置を普通のことにして)生き延びるに必要なことは何でもするという実際的な意欲があったばかりではなく、暴力と実力強制を、世界を作り直し、歴史を前進させる手段として積極的に容認した。
『プロレタリアート』(ほとんどは言わば、労働者階級の<名前で>階級戦争を闘っている者)の暴力は、歴史的に必要なものであるのみならず、道徳であり善だった。これこそが階級戦争を終わらせるものであり、そして、暴力の全てを終わらせ、損傷している人間性を回復し、新しい世界と新しい人類を創り出す階級戦争だった(26)。
ボルシェヴィキは、暴力と実力強制は偉大な歴史的過程、『自由の王国への跳躍』、の一部だと考えた。これは、不平等と抑圧の古い王国で利益を得る者たちとの闘争なくしては遂行することができない。
ボルシェヴィキは、Lenin が述べたように、『民衆の大多数』の利益のために、そして『資本主義者の抵抗を破壊する』ために用いられる『ジャコバン』的手段(フランス革命時の急進派とギロチンを想起させる)を採ることを、何ら怖れていなかった(27)。
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