M. A. Steinberg, The Russian Revolution 1905-1921 (Oxford, 2017) の一部の試訳。
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 第四章—内戦
 第一節①
 (01) ボルシェヴィキは、革命的社会主義国家に関する矛盾する考え方を抱いて、権力を掌握した。
 一方には、一般民衆の欲求とエネルギーを解き放つことによる、大衆参加という解放と民主主義の考えがあった。
 Lenin は1917年春のペテログラードへの帰還の後で述べたのだが、ロシアを『崩壊と破滅』から救う唯一の方途は、抑圧された労働者大衆に『自分たち自身の強さへの自信を与える』こと、民衆の『エネルギー、主導性、決断力』を解き放つこと、だった。こうして、彼らは動員された状態のもとで、『奇跡』を行なうことができる(1)。
 これは、新しいタイプの国家の理想、大衆が参加する権力という『コミューン国家』(1871年のパリ・コミューンを参照している)、『大きな金額』のためではなく『高い理想のために』奉仕する『百万の人々の国家装置』だった(2)。
 コミューン国家という理想は、1918年に『ロシア社会民主主義労働者党』から『ロシア共産党(ボルシェヴィキ)』へと党の公式名称を変更したことに反映された。
 権力掌握から最初の1ヶ月間に、Lenin は繰り返して、『歴史の作り手』としての『労働大衆』に対して、『今やきみたち自身が国家を管理している』こと、だから『誰かを待つのではなく、下からきみたち自身が率先して行動する』こと、を忘れないよう訴えた(3)。
 この語りを良くて実利主義的だと、悪ければ欺瞞的だと解釈した歴史家がいた。—Orlando Figes の見解によれば、『古い政治体制を破壊し、そうして彼自身の党による一党独裁制への途を掃き清めるための』手段にすぎない(4)。
 しかしながら、多数のボルシェヴィキが解放と革命権力の直接参加主義的考えを信じていた、ということを我々が見るのを妨げないよう、慎重であるべきだ。
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 (02) しかし、以上は、ボルシェヴィキの国家権力に関するイデオロギーの一面にすぎなかった。
 Lenin がボルシェヴィキは『アナキストではない』と主張したのは正当だった。
 ボルシェヴィキは、強い指導力、紀律、強制、実力の必要性を信じてはいた。
 『プロレタリアートの独裁』と理解され、正当化された『独裁』は、いかにして革命を起こし、社会主義社会を建設するかに関するボルシェヴィキの思想の最も重要な部分だった。
 ボルシェヴィキには、権力を維持し続け、彼らの敵を破壊する心づもりがあった。そして明示的に言ったことだが、大量逮捕、略式手続での処刑、テロルを含む最も『残酷な手段』(Lenin の言葉)を使う用意があった。
 Lenin は、『裕福な搾取者たち』に対してのみならず、『詐欺師、怠け者、フーリガン』に対して、そして社会へと『解体』を拡散する者たちに対しても警告した。
 革命への脅威になるものとして『アナーキー』を非難するのは、今度はボルシェヴィキの番だった(5)。
 しかし、独裁は、必要物以上のものだった。
 それは美徳〔virtue〕でもあった。すなわち、プロレタリアートの階級闘争は、暴力と戦争を生む階級対立を克服することを意図する闘争として、歴史における唯一の闘争だった。Lenin が1917年12月に、それは『正当で、公正で、神聖だ』と述べたように(6)。
 さらに言うと、これは戦争になるべきものだった。
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 (03) 最初の数ヶ月、新しいソヴェト政府は、一般民衆に力を与え、より平等な社会を築くよう行動した。ソヴェトに地方行政の権能を与え、農地の農民への移譲による農民革命を是認した(7)。また、日常の工場生活を支配する決定に参画する労働者の運動を支持して、『労働者支配』を必要とする法制を作り(8)、『全ての軍事単位内部での全権能』を兵士委員会とソヴェトに付与して兵士の運動を支持して、全将校が民主的に選挙されるようになった(9)。さらに、民族や宗教にもとづく特権や制限を廃止して、ロシアの帝政的要素の優越に対する闘争を支持し、全ての帝国国民の『平等と主権性』を主張した。これには民族自決権も含まれていて、分離や独立国家の結成にまで及ぶものだった(10)。
 ソヴェト政府は、全ての民衆を『市民』と単一に性格づけることに賛成して、資産、称号、地位のような公民的不平等の法的な性格づけを廃止しもした(11)。既存の法的装置を『民主的選挙にもとづいて設立される法廷』に変えもした(12)。
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 (04) こうした急進的な民主主義化のほとんどは、内戦という非常の状況の中で実行されないことになる。効率的な動員と紀律を妨げる、事宜を得ないものとして、放棄された。
 しかし、ボルシェヴィキによる国家建設は、最初からすでに、ボルシェヴィキ・イデオロギーの権威主義的様相を明らかにしていた。
 一つの初期の兆候は、単一政党による政府を樹立しようとする意欲だった。これは、『全ての権力をソヴェトへ』は『民主制』の統合的代表者への権力移譲を意味すると民衆のあいだで広く想定されていた中で、それにもかかわらず、見られた。
 しかしながら、一党支配は、直接のまたは絶対的な原理ではなかった。
 新しいソヴェト政府が非ボルシェヴィキを包含することには、実際的な理由があった。とくに補充されるべき多数の政府官僚のための有能な個人が、不足していたことだ。
 政治的な理由もあった。とくに、労働者と兵士の委員会、国有鉄道労働組合(重要争点に関して全国的ストライキでもって威嚇した)、独立した左翼社会主義者たち、そして不満を抱いているボルシェヴィキ、これらからの圧力。
 上の最後の中で最も有名だったのは、ボルシェヴィキの中央委員会委員の、Grigory Zinoviev とLev Kamenev だった。この二人は、労働者や兵士の多数派の意思に反するとして、『政治的テロル』によってのみ防衛可能だとして、また『革命と国家の破壊』に帰結するだろうとして、一党政府を公然と批判した(13)。
 1917年12月、Lenin は、限られた数の左翼エスエル(エスエル主流派から離脱した党派)の党員を内閣(人民委員会議またはSovnarkom)に含めることに同意した。
 しかし、これは長くは続かなかった。
 数ヶ月のちに、ボルシェヴィキの政策に影響を与えようとして政府に参加した左翼エスエルは、不満の中で内閣を離れた。彼らが反対した、ドイツとの講和条約の締結が契機となった。
 そのあと数ヶ月、左翼エスエルはボルシェヴィキの権威主義に対する批判を継続した。—ある左翼エスエル指導者は、1918年5月に、Lenin は『凶暴な独裁者』だと非難した。そして、ボルシェヴィキは左翼エスエルの活動家に引き続いて妨害されたことに苛立ち、決定的な分裂へと至った。
 ある左翼エスエル党員が、ドイツの大使を暗殺した。これはソヴェト権力に対する『反乱』の一部だと見られたのだったが、ボルシェヴィキは、全てのレベルでの政府各層から左翼エスエルを排除〔purge〕した。そして、エスエルと同党員を厳格に壊滅させた。
 ボルシェヴィキによる一党支配はこうして完成し、永続することとなった(14)。
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 (05) 長く待たれ、長く理想化された憲法会議を散会させる決定が下された。これは多くの者によって、ボルシェヴィキの権威主義を示す、とくに厄介な兆候だったと考えられている。
 1917年11月に実施された憲法会議の選挙の結果は、革命的だった。—ロシア民衆の大多数が、公開の民主的投票でもって、将来の社会主義への道を選択した。
 エスエルが全投票数の38パーセントを獲得した(分離していたウクライナのエスエルを含めると44パーセントだった)。ボルシェヴィキは24パーセント、メンシェヴィキは3パーセント、その他の社会主義諸政党も合わせて3パーセントだった。すなわち、社会主義者たちには(分かれていても)、全投票の4分の3という輝かしい数が与えられた。
 非ロシアの民族政党は、社会主義に傾斜した党もあったのだが、多く見て全投票数の8パーセントを獲得した。
 リベラルなKadet(立憲民主)党は、5パーセント未満だった。
 その他の非社会主義諸政党(右翼主義者と保守派を含む)には3パーセントだけが投じられた。
 ボルシェヴィキは、全国の投票数の4分の1という相当大きい割合を獲得した。とくに都市部、軍隊、北部の工業地域で多かった。—ボルシェヴィキは本当に労働者階級の党だと証明された、と言うのが公正だ(15)。
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 (06) 同時にまた、選挙結果は、ボルシェヴィキによる政府の圧倒的な支配を正当化するものではなかった。—彼らが政府から去ることはほとんど期待できなかったけれども。
 Lenin は、ソヴェト権力をボルシェヴィキが握った最初の日に、憲法会議選挙は従前に予定されたとおりに11月12日に実施される、と確認した(16)。そのときですでに、Lenin の文章の注意深い読み手であったならば、つぎのことに気づいただろう。すなわち、『憲法幻想』〔constitutional illusions〕への早くからの警告、『階級闘争の行路と結果』が憲法会議よりも重要だという強い主張(17)。
 この議論は、選挙のあとで、憲法会議を『偏愛』する〔fetish〕ことに反対する公然たる主張へと発展した。—選挙の立候補者名簿は時期にそぐわない(とくに名簿登録後の左翼エスエルの立党による)。『人民の意思』は選挙後にさらに左へと変化した。ソヴェトは『民主主義の高度の形態』であって、憲法会議が設立したかもしれない政府はそれより後退したものだろう。内戦の蓋然性のゆえに緊急の措置が必要だ。
 イデオロギーとして憲法会議を攻撃する最も重要な主張は、階級闘争に関する歴史的論拠だった。すなわち、議会の正統性は、形式的な選挙によってではなく、歴史的闘争の中で占める位置によって判断されるべきだ。この位置は、どの程度において『労働者民衆の意思を実現し、彼らの利益に奉仕し、彼らの闘いを防衛する』か、によって定まる。
 憲法会議がたとえ圧倒的に社会主義派によって占められていても、この歴史的審査に耐え難い、とボルシェヴィキは結論づけて、憲法会議に機会は与えられない、と主張した。歴史と階級闘争の論理が、反革命的な憲法会議が解散することを『強い』た。それは、1918年1月の最初の会合で行なわれた(18)。
 だが、この動議に若干の穏健なボルシェヴィキは反対したこと、ほとんどの左翼エスエルは会議の閉鎖を是認したこと、は記憶しておく価値がある。
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 つづく。