M. A. Steinberg, The Russian Revolution 1905-1921 (Oxford, 2017) の一部の試訳。
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第三章/1917年
第一節④
(17) 『コルニロフ〔Kornilov〕事件』は陰謀と混乱の奇妙な混合物で、騒擾の危険性、紀律と強い国家の必要性に関して激論が交わされている中で、それに煽られるようにして起きた。
新しい最高司令官は、自分をロシアを救う人間だと見ていた。これは、保守的プレス、右翼政治家、軍将校や事業家の組織、地主たちから勇気づけられての自画像だった。
Kornilov は、Kerensky も、おそらく一時的な軍事独裁によって、ソヴェトとその支持者たちの言論を封じるのを望んでいると、根拠なく信じていたように思われる。
何が現実に起きたかに関する歴史上の諸記録は、矛盾した証拠と主張で充ちている。
我々に分かるのはつぎのことだ。Kerensky は8月26日に、Kornirov が政府全大臣の辞職、首都での戒厳令の発布、全ての公民的、軍事的権限の自分の手中への移行を要求したこと、これらの要求を支援すべく兵団を首都へ動かしていること、を知った。
Kornilov を擁護する者たちはのちに、Kerensky 自身がこの権力集中を命令していたのであり、兵団を動かしたのは、噂されたボルシェヴィキのクーからKerensky と政府を防衛するためだったにすぎない、と主張した。
Kerensky は国民に対して、軍事クーからロシアと革命を『救う』のを助けるように呼びかけた。
ソヴェト指導部は、地方ソヴェト、労働組合、工場委員会、ボルシェヴィキを含む左翼諸政党(ソヴェトはボルシェヴィキ指導者たちの監獄からの釈放のための調整を助けてすらいた)を動員することでもって、首相の訴えに応えた。
行進しているKornilov の兵団は、前進を停止するよう簡単に説得された。とりわけ、Kerensky は自分たちの行動を支持していない、と聞いたために。
こうして、『反乱』は数日で終わった。
しかし、危機は始まったばかりだった。
右派は、Kerensky を、Kornilov を騙して、裏切った、と非難した。
左派は、Kerensky は最高司令官と共謀していた、のちに反対に回った、と疑った。
結果として、二番めの連立内閣が崩壊した。リベラル派と社会主義派の間の相互不信が深まって、分裂したのだ。
ようやく9月遅くに、新しい連立の臨時政府が形成された。—第三の、そして最後の内閣。これを率いた首相はKerensky で、10人の社会主義者大臣(多くはメンシェヴィキとエスエルの党員。但し、公式には個人として行動した)と6人のリベラルな大臣(多くはカデット〔立憲民主党、Constitutional Democratic Party, Kadets〕)で成っていた。
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(18) ボルシェヴィキは、政府に加わらなかった唯一の主要な左翼政党として、民衆の不満解消のための逃げ場所になった。
そして、階級を明瞭に基礎にしたその基本政策は、ますます両極化している社会的雰囲気にうまく適合した。
ボルシェヴィキは、富者に負担となり貧者に利益となる税の再配分が目標だ、と宣言した。また、農民の土地所有者に対する闘争、労働者の雇用者に対する闘争、兵士の将校に対する闘争を支持することも。さらに、死刑のような『反革命的』措置を採用しないことも(18)。
とは言え、とくに魅力的なのは、彼らが繰り返したスローガンだった。すなわち、『パン、平和、土地』、『全ての権力をソヴェトへ』。—全ての不満を捉え、一つの単純な解決策を提示する化身たち〔incarnations〕。
ボルシェヴィキの人気が増大していることは、Kornilov 事件の前にすでに明らかになっていた。工場委員会や労働組合での投票で、地区や市のソヴェトへの代議員の新または再選挙で、ボルシェヴィキの演説者や決議に対するソヴェト内部での受け入れの仕方で、そして市議会の選挙においてすら(19)。
Kornilov 事件は、反革命への恐怖、穏健な社会主義者たちとの妥協への不満を掻き立てた。その後、ボルシェヴィキはいっそう急激に影響力を増した。もっとも、エスエルの中で同様に宥和的でない『左翼エスエル〔Left SRs〕』のそれも似たようなものだったが。
8月31日、ペテログラード・ソヴェト代議員の多数派は、有産階層を除外した社会主義者政府を樹立しようとのボルシェヴィキの決議案を採択する議決を行なった(20)。
9月の後半に、ボルシェヴィキは、ペテログラードとモスクワの両都市で、ボルシェヴィキを多数派とする新しいソヴェト指導部を選出するのに十分なかつ信頼できる多数派を獲得した。
Lev Trotsky は最近にボルシェヴィキ党に加入したのだったが、ペテログラードでは彼が、議長に選出された。
同じことは全国で起きていた。
最も重要なことは、ボルシェヴィキは今や、大胆な政治的ギャンブルのために増大している人気を利用する用意がある、ということだった。政治的賭け—国家権力を奪取するための蜂起〔insurrection〕。
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(19) 労働者兵士代議員ソヴェトの第二回全ロシア大会は10月25日に開催され、全国の数百のソヴェトから代議員が出席した。
ボルシェヴィキは代議員たちの中で最大の単一党派で、左翼エスエルの支持を得れば有効な多数派を形成することができた。
14人のボルシェヴィキと7人の左翼エスエルで、新しい幹部会が構成された。
メンシェヴィキには4人が割り当てられていた。しかし、のちには政治的自殺と見なされた動議を出して、幹部会の議席を受け取るのを拒否した。この拒否は、ボルシェヴィキによる蜂起が街路上で進行中であることに対する抗議の意思を示す行動だった。
大会は、ボルシェヴィキのスローガンである『全ての権力をソヴェトへ』を是認した。但し、ほとんどの代議員は、ソヴェト権力とはボルシェヴィキによる一党支配ではなく、社会主義者の民主的な統一的政府を意味すると理解していたけれども。
メンシェヴィキの指導者のYuly Martov は、ソヴェト大会の直前に『陰謀』という手段で国家権力の問題を決着させようとするボルシェヴィキの企ては、『内戦』と反革命につながる可能性が高い、と警告し、『全ての社会主義諸政党と組織』のあいだで『統一した民主主義的政府』を樹立するための協議をただちに開始することを提案した。この提案は、満場一致で承認された。
ボルシェヴィキですら、『展開している事態に関するそれぞれの見解を、全ての政治的党派が表明することに、多大の関心を寄せる』と宣言した(21)。
しかしながら、複数政党による社会主義者政府、『革命的な民主主義的権威』を目ざす構想は、事態の進行に間に合わなかった。他『党派』とともに活動することに対してボルシェヴィキに深く染み込んでいた強い疑念によって、その構想は実現しなかった。
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(20) 10月24日から25日にかけての夜、ペテログラードの労働者『赤衛隊〔Red Guards〕』と急進的兵士たちは、主要な街路と橋梁、政府関連の建物、鉄道駅、郵便局と電報局、電話交換所、発電所、国立銀行、警察署を掌握し、臨時政府の大臣たちを逮捕した。
この武装蜂起は、ソヴェトの軍事革命委員会の秘密会議で練り上げられていた、詳細な計画に従っていた。このソヴェト軍事革命委員会をボルシェヴィキは支配しており、Trotsky が議長に就いていた。もっとも、タイミングの問題はボルシェヴィキ党内での激しい議論の対象だった。—タイミングはすぐれて政治的意味合いを持つ問題だったので。
Trotsky は、蜂起は『ソヴェト権力』のために、そして政府による弾圧に抵抗する革命を『防衛』するために、ソヴェトの行動を正当化する外套をまとうべきだ、ということに拘泥していた。
しかし、Lenin は、全く理性的なことに、つぎのように心配していた。ソヴェト全国大会は、全ての社会主義者政党を包含する政府、あるいは有産階層のみを排除した、より広範囲の『民主主義的政府』をすらに固執し続けて、ボルシェヴィキの手を縛るかもしれない、と。そのゆえに彼は、臨時政府の打倒を既成事実〔fait accompli〕としてソヴェト大会に提示する必要がある、そうすれば大会での議論は無意味になるだろう、と強く主張した。
ソヴェト大会が10月25日に開会したとき、臨時政府の大臣たちがいる冬宮に対するボルシェヴィキの武装攻撃が進行していた。
メンシェヴィキとエスエルの発言者たちは激しく怒り、ボルシェヴィキの行動は『犯罪的な政治的冒険』だ、と非難した。一つだけの政党による日和見主義的な権力ひったくりだ、その背後にはソヴェトの後援があるとし、そのソヴェトの名前でボルシェヴィキは二枚舌を使って行動している、と。
彼らは、ボルシェヴィキの行動はロシアを内戦へと突入させ、革命を破滅させる、と予見した。
ほとんどのメンシェヴィキと右翼エスエルたちは、ボルシェヴィキの行動の『責任を負う』ことをしたくなくて、大会の会場から退出した。—有名になったTrotsky の侮蔑の言葉がこれに投げつけられた。彼らは、『歴史のごみ箱』に入る運命だけが残る『破産者』だ。
10月26日の夜明け前、ソヴェト全国大会は、レーニンのつぎの宣言を承認した。全ての国家権力はソヴェトの手中にある、全ての地方権力は、労働者兵士農民代議員の地方ソヴェトへと移譲される。
大会はまた、全ての諸国に講和を即時に提案すること、全ての土地を農民委員会に移譲すること、兵士の権利を守ること、工業の『労働者支配』を確立すること、憲法会議の召集を確実にすること、を誓約した。
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第一節、終わり。
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第三章/1917年
第一節④
(17) 『コルニロフ〔Kornilov〕事件』は陰謀と混乱の奇妙な混合物で、騒擾の危険性、紀律と強い国家の必要性に関して激論が交わされている中で、それに煽られるようにして起きた。
新しい最高司令官は、自分をロシアを救う人間だと見ていた。これは、保守的プレス、右翼政治家、軍将校や事業家の組織、地主たちから勇気づけられての自画像だった。
Kornilov は、Kerensky も、おそらく一時的な軍事独裁によって、ソヴェトとその支持者たちの言論を封じるのを望んでいると、根拠なく信じていたように思われる。
何が現実に起きたかに関する歴史上の諸記録は、矛盾した証拠と主張で充ちている。
我々に分かるのはつぎのことだ。Kerensky は8月26日に、Kornirov が政府全大臣の辞職、首都での戒厳令の発布、全ての公民的、軍事的権限の自分の手中への移行を要求したこと、これらの要求を支援すべく兵団を首都へ動かしていること、を知った。
Kornilov を擁護する者たちはのちに、Kerensky 自身がこの権力集中を命令していたのであり、兵団を動かしたのは、噂されたボルシェヴィキのクーからKerensky と政府を防衛するためだったにすぎない、と主張した。
Kerensky は国民に対して、軍事クーからロシアと革命を『救う』のを助けるように呼びかけた。
ソヴェト指導部は、地方ソヴェト、労働組合、工場委員会、ボルシェヴィキを含む左翼諸政党(ソヴェトはボルシェヴィキ指導者たちの監獄からの釈放のための調整を助けてすらいた)を動員することでもって、首相の訴えに応えた。
行進しているKornilov の兵団は、前進を停止するよう簡単に説得された。とりわけ、Kerensky は自分たちの行動を支持していない、と聞いたために。
こうして、『反乱』は数日で終わった。
しかし、危機は始まったばかりだった。
右派は、Kerensky を、Kornilov を騙して、裏切った、と非難した。
左派は、Kerensky は最高司令官と共謀していた、のちに反対に回った、と疑った。
結果として、二番めの連立内閣が崩壊した。リベラル派と社会主義派の間の相互不信が深まって、分裂したのだ。
ようやく9月遅くに、新しい連立の臨時政府が形成された。—第三の、そして最後の内閣。これを率いた首相はKerensky で、10人の社会主義者大臣(多くはメンシェヴィキとエスエルの党員。但し、公式には個人として行動した)と6人のリベラルな大臣(多くはカデット〔立憲民主党、Constitutional Democratic Party, Kadets〕)で成っていた。
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(18) ボルシェヴィキは、政府に加わらなかった唯一の主要な左翼政党として、民衆の不満解消のための逃げ場所になった。
そして、階級を明瞭に基礎にしたその基本政策は、ますます両極化している社会的雰囲気にうまく適合した。
ボルシェヴィキは、富者に負担となり貧者に利益となる税の再配分が目標だ、と宣言した。また、農民の土地所有者に対する闘争、労働者の雇用者に対する闘争、兵士の将校に対する闘争を支持することも。さらに、死刑のような『反革命的』措置を採用しないことも(18)。
とは言え、とくに魅力的なのは、彼らが繰り返したスローガンだった。すなわち、『パン、平和、土地』、『全ての権力をソヴェトへ』。—全ての不満を捉え、一つの単純な解決策を提示する化身たち〔incarnations〕。
ボルシェヴィキの人気が増大していることは、Kornilov 事件の前にすでに明らかになっていた。工場委員会や労働組合での投票で、地区や市のソヴェトへの代議員の新または再選挙で、ボルシェヴィキの演説者や決議に対するソヴェト内部での受け入れの仕方で、そして市議会の選挙においてすら(19)。
Kornilov 事件は、反革命への恐怖、穏健な社会主義者たちとの妥協への不満を掻き立てた。その後、ボルシェヴィキはいっそう急激に影響力を増した。もっとも、エスエルの中で同様に宥和的でない『左翼エスエル〔Left SRs〕』のそれも似たようなものだったが。
8月31日、ペテログラード・ソヴェト代議員の多数派は、有産階層を除外した社会主義者政府を樹立しようとのボルシェヴィキの決議案を採択する議決を行なった(20)。
9月の後半に、ボルシェヴィキは、ペテログラードとモスクワの両都市で、ボルシェヴィキを多数派とする新しいソヴェト指導部を選出するのに十分なかつ信頼できる多数派を獲得した。
Lev Trotsky は最近にボルシェヴィキ党に加入したのだったが、ペテログラードでは彼が、議長に選出された。
同じことは全国で起きていた。
最も重要なことは、ボルシェヴィキは今や、大胆な政治的ギャンブルのために増大している人気を利用する用意がある、ということだった。政治的賭け—国家権力を奪取するための蜂起〔insurrection〕。
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(19) 労働者兵士代議員ソヴェトの第二回全ロシア大会は10月25日に開催され、全国の数百のソヴェトから代議員が出席した。
ボルシェヴィキは代議員たちの中で最大の単一党派で、左翼エスエルの支持を得れば有効な多数派を形成することができた。
14人のボルシェヴィキと7人の左翼エスエルで、新しい幹部会が構成された。
メンシェヴィキには4人が割り当てられていた。しかし、のちには政治的自殺と見なされた動議を出して、幹部会の議席を受け取るのを拒否した。この拒否は、ボルシェヴィキによる蜂起が街路上で進行中であることに対する抗議の意思を示す行動だった。
大会は、ボルシェヴィキのスローガンである『全ての権力をソヴェトへ』を是認した。但し、ほとんどの代議員は、ソヴェト権力とはボルシェヴィキによる一党支配ではなく、社会主義者の民主的な統一的政府を意味すると理解していたけれども。
メンシェヴィキの指導者のYuly Martov は、ソヴェト大会の直前に『陰謀』という手段で国家権力の問題を決着させようとするボルシェヴィキの企ては、『内戦』と反革命につながる可能性が高い、と警告し、『全ての社会主義諸政党と組織』のあいだで『統一した民主主義的政府』を樹立するための協議をただちに開始することを提案した。この提案は、満場一致で承認された。
ボルシェヴィキですら、『展開している事態に関するそれぞれの見解を、全ての政治的党派が表明することに、多大の関心を寄せる』と宣言した(21)。
しかしながら、複数政党による社会主義者政府、『革命的な民主主義的権威』を目ざす構想は、事態の進行に間に合わなかった。他『党派』とともに活動することに対してボルシェヴィキに深く染み込んでいた強い疑念によって、その構想は実現しなかった。
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(20) 10月24日から25日にかけての夜、ペテログラードの労働者『赤衛隊〔Red Guards〕』と急進的兵士たちは、主要な街路と橋梁、政府関連の建物、鉄道駅、郵便局と電報局、電話交換所、発電所、国立銀行、警察署を掌握し、臨時政府の大臣たちを逮捕した。
この武装蜂起は、ソヴェトの軍事革命委員会の秘密会議で練り上げられていた、詳細な計画に従っていた。このソヴェト軍事革命委員会をボルシェヴィキは支配しており、Trotsky が議長に就いていた。もっとも、タイミングの問題はボルシェヴィキ党内での激しい議論の対象だった。—タイミングはすぐれて政治的意味合いを持つ問題だったので。
Trotsky は、蜂起は『ソヴェト権力』のために、そして政府による弾圧に抵抗する革命を『防衛』するために、ソヴェトの行動を正当化する外套をまとうべきだ、ということに拘泥していた。
しかし、Lenin は、全く理性的なことに、つぎのように心配していた。ソヴェト全国大会は、全ての社会主義者政党を包含する政府、あるいは有産階層のみを排除した、より広範囲の『民主主義的政府』をすらに固執し続けて、ボルシェヴィキの手を縛るかもしれない、と。そのゆえに彼は、臨時政府の打倒を既成事実〔fait accompli〕としてソヴェト大会に提示する必要がある、そうすれば大会での議論は無意味になるだろう、と強く主張した。
ソヴェト大会が10月25日に開会したとき、臨時政府の大臣たちがいる冬宮に対するボルシェヴィキの武装攻撃が進行していた。
メンシェヴィキとエスエルの発言者たちは激しく怒り、ボルシェヴィキの行動は『犯罪的な政治的冒険』だ、と非難した。一つだけの政党による日和見主義的な権力ひったくりだ、その背後にはソヴェトの後援があるとし、そのソヴェトの名前でボルシェヴィキは二枚舌を使って行動している、と。
彼らは、ボルシェヴィキの行動はロシアを内戦へと突入させ、革命を破滅させる、と予見した。
ほとんどのメンシェヴィキと右翼エスエルたちは、ボルシェヴィキの行動の『責任を負う』ことをしたくなくて、大会の会場から退出した。—有名になったTrotsky の侮蔑の言葉がこれに投げつけられた。彼らは、『歴史のごみ箱』に入る運命だけが残る『破産者』だ。
10月26日の夜明け前、ソヴェト全国大会は、レーニンのつぎの宣言を承認した。全ての国家権力はソヴェトの手中にある、全ての地方権力は、労働者兵士農民代議員の地方ソヴェトへと移譲される。
大会はまた、全ての諸国に講和を即時に提案すること、全ての土地を農民委員会に移譲すること、兵士の権利を守ること、工業の『労働者支配』を確立すること、憲法会議の召集を確実にすること、を誓約した。
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第一節、終わり。