M. A. Steinberg, The Russian Revolution 1905-1921 (Oxford, 2017) の一部の試訳。
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 第三章/1917年
 第一節③
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 (12) これは実際には、2週間後の『七月事件』に比べると『瞬時の一打ち』にすぎなかった。
 7月3日、数万人の兵士、海兵、労働者たちが、大部分は武装して、首都の街路を行進した。
 彼らは市の中心部を占拠し、自動車を奪い、警察やコサックと闘った。そして、頻繁に銃砲を空中に放つことで、彼らの蜂起のごとき雰囲気を強調した。
 午前2時頃、6万人から7万人の男性、女性、子どもたちが路上にいた。そのうちのほとんどはTauride 宮にあるソヴェト司令部の近くだった。群衆は、その規模と戦闘的気分を増大し続けた。
 大衆集会で採択された決議は、戦争の即時停止、『ブルジョアジー』と今以上妥協しないこと、そして『全ての権力をソヴェトへ』を要求した。
 いかにしてこれらの目標を実現するかについて、ほとんどの示威行為者には分かっていないように見えた。とくにソヴェト指導部は自分たちが『全ての権力』を握るという発想自体を拒絶していたので。
 七月事件の最も有名な場面で、ソヴェト指導者たちは、群衆を静めるためにエスエル〔Socialist Revolutionary〕のVictor Chernov を街頭へと派遣した。
 彼の訴えに応えたのは、拳を振ってChernov に向かって『手渡されたら権力を取れ』と叫ぶ、示威行為者の怒りだった。
 ソヴェトの穏健な指導者たちは、この事件全体についてボルシェヴィキを非難した。
 そして、ボルシェヴィキ自体が、間違いなくこの運動を助長していた。
 しかし、彼らはこの運動を権力奪取へとつなげる用意をしておらず、そうしようとしなかった。
 指導者を欠いたので、反乱は解体した。
 7月4日夕方の激しい雨が、路上の群衆の最後の一人を追い払った(11)。
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 (13) 歴史家たちは、今でも議論している。七月事件は、慎重かつ巧妙に計画され、だが失敗した、ボルシェヴィキによる権力奪取の企てだったのかどうか。
 あるいは、のちのクーのために試験をするという、ボルシェヴィキの戦術の一部だったのか。
 あるいは、躊躇している指導部を行動へと強いようとする、ボルシェヴィキ党員たちの努力だったのか。
 あるいは、急進化した兵士や労働者たちの調整済みでない行動ですら、党は最初は支援することに同意しており、のちに瞬時に権力奪取のために使おうと考えたが、成功しないことが明瞭になったので撤退した、のだったか。
 ほとんどの歴史家は、つぎの点では同意している。ボルシェヴィキの一般活動家がこの事件できわめて大きな役割を演じたこと、大多数の労働者や兵士たちは指導を求めて党を見つめていたこと。
 そして、臨時政府の打倒がボルシェヴィキの課題〔agenda〕になっていたことに、ほとんど疑いはない。
 問題は、いつ行なうか、だった。
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 (14) 地方〔provinces〕の後進性というステレオタイプ的見方とは矛盾するが、臨時政府への支持や階級を超えた統合が解体していった早さは、ペテルブルクやモスクワよりもむしろ、地方で急速だった。
 例えば Saratov では、Donald Raleigh が資料文書を示したように、地方のリベラルな新聞は6月に、『都市部だけではなく地方全体で、権力は現実には労働者、兵士の代表者の(地方)ソヴェトへと移った』と報告した。
 穏健な社会主義者と急進的なそれのあいだの断裂もまた、中心部以上に急速に進んだ。例えば、ボルシェヴィキは5月に、リベラル・ブルジョアジーとの協働に抗議して、Saratov ソヴェトから脱退した。
 同様に、地方の労働者、兵士、農民たちはもっと早くに妥協に耐え難くなり、即時のかつ直接的な諸問題の解決に賛成した。これが意味したのは、ボルシェヴィキに傾斜する、ということだった(12)。
 Kazan やNizhny-Novgorod のような別の地方の町々では、またそれらの周囲の農村地帯では、Sarah Babcock が示したように、ほとんどの民衆にとっての地方『政治』の本質は、政党への帰属や選挙への関与ではなく、経済的、社会的な必需品のための直接的な闘いだった。
 エリート全員に対する不信は、主要な諸都市で以上に、おそらく地方の一般民衆のあいだで、より強いものがあった(13)。
 紀律ある国家の最も熱烈な支持者だと広く考えられているDon 地域の多数のコサックですら、中央の権力よりも地方の権力を支持した(14)。
 このような地方主義と権力の断片化は、ペテルブルクでの政治的決定や国家権力をめぐる闘争より以上にではかりになくとも、それと同等に革命を規定した。
 臨時政府の権威は急速に低下し、地方ソヴェト、委員会、労働組合その他の諸制度の力の増大によって掘り崩された。
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 (15) ロシアじゅうの社会的権威が突如として断片化してきた。それは、直接的行動が唯一の解決方法だと思わせるような、経済的危機のさらなる悪化によって促進された。だがまた、『ブルジョアジー』とそれと結びついた政治的エリート層に対する不信によっても。
 兵士たちは将校を無視し、選出された兵士委員会にのみ耳を傾けた。
 農民たちは、自分たちが土地を奪ったり地主を追放するのを妨げるものはほとんどないと分かって、土地改革を待つのをやめた。
 労働者たちは、作業場の条件を直接に統御する直接的行動をとった。—多くの工場では、『労働者支配』—理論を適用したのではなく実践の中で生まれて発展した考え—が、進展していった。工場委員会が、管理者側の決定を監視し始めたのみならず、重要な経営上の決定を自ら行ない始めるようになるとともに。
 雇用者または経営者が例えば燃料不足を理由とする一時解雇〔lay-off〕で威嚇したとき、工場委員会は、新しい燃料供給源を探して、輸送と支払いについて取り決めすることがあり得た。また、利用可能な燃料のより経済的な使用方法を取り決めたり、会社の経費支出への監督権を要求したり、全員の労働時間を平等に削減することを裁可したり、あるいは、一時解雇される者を選定する、労働者の集団的権利を要求したりすることがあり得た。
 稀な場合、通常は雇用者が工場の閉鎖を選ぼうとした場合だが、労働者委員会は、自分たちで工場の操業を決定した(15)。
 多くの観察者にとって、こうした事態は『アナーキー』で『カオス』だった。
 多くの別の観察者にとっては、これは下からの『民主主義』だった。
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 (16) 七月の危機の後で、臨時政府は社会主義者が多数派になるよう再構成され、社会主義者で法律家であるAlexander Kerensky が率いた。この臨時政府は、このような権力の断片化と国家の弱体化を許容できなかった。
 臨時政府は、『アナーキー』に対する戦争を宣告した(16)。
 しかし、政府の、当時に称された『国家主義』〔statism〕は、状況を悪化させたにすぎなかったかもしれない。次の政治的危機を誘発し、そうしてさらに、国家の権威を弱いものにした。
 七月事件は、間違った危険を明らかにし、間違った解決策を生んだものだったかもしれない。すなわち、容易に判別できるボルシェヴィキによる騒乱の脅威によって、より大きい、より困難な、社会的、民族的、地域的な両極化と断片化の脅威が、覆い隠された。
 臨時政府は7月に、それが理解する脅威に応じて、数百人のボルシェヴィキ指導者を逮捕した(逮捕を逃れて隠れた多数の中にレーニンがいたけれども)。
 市民的自由は公共の秩序のために制限された。
 死刑が前線にいる兵士について復活した。叛逆、脱走、戦闘からの逃亡、戦闘の拒否、降伏への煽動、反抗、あるいは命令への不服従すらあったが、これらにより野戦法廷で有罪と宣告された者たちについてだった。
 ペテログラードでの街頭行進は、つぎの告知があるまで禁止された。
 そして、将軍のLavr Kornilov が、この人物は軍事的かつ公民的な紀律の擁護者として保守的界隈で尊敬されていた、屈強な気持ちをもつコサックだったが、新しい最高司令官に任命された。
 Kerensky 首相は、騒擾を克服できる強い政治的実行者だと見られるのを望んだ。
 彼は七月事件の際に暴徒と闘って殺されたコサックたちの葬儀で演説をし、こう宣言した。「アナーキーと無秩序を助長する全ての企ては、この無垢の犠牲者たちの血の名において、容赦なく処理されるだろう」(17)。
 おそらくは象徴的な動きとして、また安全上の理由から、Kerensky は、臨時政府の役所を冬宮(Winter Palace)へと移した。
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 つづく。