Orlando Figes, Just Send Me Word -A True Story of Love and Survival in the Gulag (New York, London, 2012). の試訳のつづき。
第7章末まで終わっている。第8章〜第10章は、さしあたり割愛。
これは、Orlando Figes 作の「小説」ではない。
第二次大戦が終わっていた1953年、レフ(Lev)は北極海に近いペチョラ(Pechora)の強制労働収容所にいた。スヴェータ(Svetlana)は、モスクワにいた。
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第11章①。
(01) スターリンは、1953年3月5日に死んだ。
彼は脳発作に襲われ、5日間意識不明で横たわった後に死んだ。
その病は、ソヴィエトの新聞では3月4日に報道された。
レフは2日後、スヴェータに書き送った。
「この新しい知らせを、少しも予期していなかった。
このような場合、現代の医薬の重要性がきわめて明瞭になる。//
重要な人々が病気になったとき、自然のなりゆきより少しでも長く人間の健康を維持することが不可能であることが、完全に明らかになる。」
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(02) スターリンの死は、3月6日に全国民に発表された。
3日後の葬儀まで、彼の遺体は赤の広場近くのthe Hall of Columns に安置された。
巨大な群衆が、敬意を示すべく訪れた。
首都の中心部は、涙ぐむ送葬者で溢れた。彼らはソヴィエト同盟の全ての地域から、モスクワに旅してきていた。
数百人が、押しつぶされて死んだ。
スターリンを失ったことは、ソヴィエトの人々には感情的な衝撃だった。
ほとんど30年近く—この国の歴史で最も精神的打撃を受けた時代—、人々はスターリンの影のもとで生きた。
スターリンは、彼らには精神的な拠り所だった。—教師、ガイド、父親的保護者、国民的指導者で敵に対する救い主、正義と秩序の保証人(レフの叔母オルガは、何らかの不正があったとき、「いつもスターリンいる」と言ったものだった)。
人々の悲しみは、彼の死を受けて感じざるをえない当惑についての自然な反応だった。スターリン体制のもとでの人々の体験とはほとんど関係なく。
スターリンの犠牲者ですら、悲しみを感じた。//
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(03) レフとスヴェータは、他の者たちと同じく、3月6日にラジオでこのニュースを知った。
大きな衝撃と昂奮の状態にあり、二人ともに、本当にどう感じたのかを語ることができなかった。
レフは3月8日に、こう書いた。
「スターリンの死を全く予期していなかったので、最初は本当のことだと信じるのが困難だった。
そのときの感情は、戦争が始まった日のそれと同じだった。」
重大な報せについて、レフはそれ以上、付け加えなかった。労働収容所に関する政策の変化が生じ、早期に自分が釈放されるのではないかと望んだに違いないけれども。
スヴェータもまた、用心深かった。だが、この人生の転機となる可能性のあるラジオ放送があったことで、レフと結びついて生きてきたことの喜びを隠すことができなかった。
3月11日に、レフにあてて書き送った。
「モスクワで先週にあったようなことは、今までなかった。
そして何度も思いました。ラジオが発明されて、人々が同じことを同じ時に聞けるのはなんと素晴らしいことか、と。
新聞があるのも、よいことです。
今までより頻繁に語りかけるつもりですが、感じていることを数語で明確に語ろうと考える必要はないのだから、今はしません。」//
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(04) スターリンの死が明からさまな喜びでもって歓迎された一つの場所は、労働収容所や収容所入植地区だった。
もちろん例外はあり、当局または情報提供者による監視が収監者たちの喜びの表現を抑えた収容所もあった。だが、一般的には、スターリンの死の報せは、歓喜の声の自然発生的な爆発でもって迎えられた。
レフは、「誰一人、スターリンのために泣きはしなかった」と思い出す。
収監者たちは疑いなく、スターリンは自分たちの惨めさの原因だ、と考えていた。そして、そうして安全だと分かったときは、恐がることなくスターリンに対する蔑みの言葉を発した。
レフは、1952年10月以降の事態を思い出す。その10月、彼の営舎の仲間たちは、党中央委員会最高幹部会での選挙の結果について、ラジオ放送に耳を傾けた。
候補者たちが獲得した投票数が次々と読み上げられ、それが終わった後でアナウンサーは言った。「Za Stalina !! Za Stalina !!」(「スターリン万歳 !! 」)。
収監者のうち何人かは、その代わりに「Zastavili !! Zastavili !!」(「強制だ !!」)と唱え始めた。これは、選挙は不正だ、ということを意味した。
誰もがこれに加わり、この冗句を愉しんだ。//
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(05) 収監者たちの間では、スターリンの死によって釈放されるだろうと、一般に推測された。
3月27日に政府は、5年以下の判決に服している受刑者の恩赦を発表した。これらは、経済的犯罪者とされた55歳以上の男性、50歳以上の女性および治療不可能の病気をもつ受刑者だった。ーつぎの数ヶ月間に、約100万の受刑者が釈放される見通しだった。
木材工場では、1953年中に恩赦の対象になるのは、受刑者数のおよそ半分だった(1263名から627名へと減る)。
釈放される者たちのほとんどは犯罪者だった。この者たちは暴れ回り、店舗から略奪し、家屋から強奪し、女性を強姦し、町中でテロルを繰り広げるまでになった。
レフは〔1953年〕4月10日に、スヴェータにこう書き送った。
「我々の仲間の何人かはもう外に出て、意のままにペチョラを徘徊している。
彼らは、あらゆる機会を利用して、力ずくで盗んでいる。
最悪の者たちは、自由気儘にやっている。
髭を生やした見映えのよい、Makarovだ。…この人は武装強盗をして8年間服役した。
Kolya Nazhinsky も、いなくなった。—この人は6キロの粥〔kasha〕を盗んで1947年にはここにすでに10年間いた。
そして、去年に仲間の一人から300ルーブルを盗み、Nやその隣人から少しずつ金をくすねた。
でもしかし、みんなはこの人の愚かさと彼に対する元々の判決の不公平さを憐れむばかりだ。この判決がなければ、彼は窃盗をしなかっただろうから。」//
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第11章②((06)〜)へとつづく。
第7章末まで終わっている。第8章〜第10章は、さしあたり割愛。
これは、Orlando Figes 作の「小説」ではない。
第二次大戦が終わっていた1953年、レフ(Lev)は北極海に近いペチョラ(Pechora)の強制労働収容所にいた。スヴェータ(Svetlana)は、モスクワにいた。
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第11章①。
(01) スターリンは、1953年3月5日に死んだ。
彼は脳発作に襲われ、5日間意識不明で横たわった後に死んだ。
その病は、ソヴィエトの新聞では3月4日に報道された。
レフは2日後、スヴェータに書き送った。
「この新しい知らせを、少しも予期していなかった。
このような場合、現代の医薬の重要性がきわめて明瞭になる。//
重要な人々が病気になったとき、自然のなりゆきより少しでも長く人間の健康を維持することが不可能であることが、完全に明らかになる。」
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(02) スターリンの死は、3月6日に全国民に発表された。
3日後の葬儀まで、彼の遺体は赤の広場近くのthe Hall of Columns に安置された。
巨大な群衆が、敬意を示すべく訪れた。
首都の中心部は、涙ぐむ送葬者で溢れた。彼らはソヴィエト同盟の全ての地域から、モスクワに旅してきていた。
数百人が、押しつぶされて死んだ。
スターリンを失ったことは、ソヴィエトの人々には感情的な衝撃だった。
ほとんど30年近く—この国の歴史で最も精神的打撃を受けた時代—、人々はスターリンの影のもとで生きた。
スターリンは、彼らには精神的な拠り所だった。—教師、ガイド、父親的保護者、国民的指導者で敵に対する救い主、正義と秩序の保証人(レフの叔母オルガは、何らかの不正があったとき、「いつもスターリンいる」と言ったものだった)。
人々の悲しみは、彼の死を受けて感じざるをえない当惑についての自然な反応だった。スターリン体制のもとでの人々の体験とはほとんど関係なく。
スターリンの犠牲者ですら、悲しみを感じた。//
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(03) レフとスヴェータは、他の者たちと同じく、3月6日にラジオでこのニュースを知った。
大きな衝撃と昂奮の状態にあり、二人ともに、本当にどう感じたのかを語ることができなかった。
レフは3月8日に、こう書いた。
「スターリンの死を全く予期していなかったので、最初は本当のことだと信じるのが困難だった。
そのときの感情は、戦争が始まった日のそれと同じだった。」
重大な報せについて、レフはそれ以上、付け加えなかった。労働収容所に関する政策の変化が生じ、早期に自分が釈放されるのではないかと望んだに違いないけれども。
スヴェータもまた、用心深かった。だが、この人生の転機となる可能性のあるラジオ放送があったことで、レフと結びついて生きてきたことの喜びを隠すことができなかった。
3月11日に、レフにあてて書き送った。
「モスクワで先週にあったようなことは、今までなかった。
そして何度も思いました。ラジオが発明されて、人々が同じことを同じ時に聞けるのはなんと素晴らしいことか、と。
新聞があるのも、よいことです。
今までより頻繁に語りかけるつもりですが、感じていることを数語で明確に語ろうと考える必要はないのだから、今はしません。」//
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(04) スターリンの死が明からさまな喜びでもって歓迎された一つの場所は、労働収容所や収容所入植地区だった。
もちろん例外はあり、当局または情報提供者による監視が収監者たちの喜びの表現を抑えた収容所もあった。だが、一般的には、スターリンの死の報せは、歓喜の声の自然発生的な爆発でもって迎えられた。
レフは、「誰一人、スターリンのために泣きはしなかった」と思い出す。
収監者たちは疑いなく、スターリンは自分たちの惨めさの原因だ、と考えていた。そして、そうして安全だと分かったときは、恐がることなくスターリンに対する蔑みの言葉を発した。
レフは、1952年10月以降の事態を思い出す。その10月、彼の営舎の仲間たちは、党中央委員会最高幹部会での選挙の結果について、ラジオ放送に耳を傾けた。
候補者たちが獲得した投票数が次々と読み上げられ、それが終わった後でアナウンサーは言った。「Za Stalina !! Za Stalina !!」(「スターリン万歳 !! 」)。
収監者のうち何人かは、その代わりに「Zastavili !! Zastavili !!」(「強制だ !!」)と唱え始めた。これは、選挙は不正だ、ということを意味した。
誰もがこれに加わり、この冗句を愉しんだ。//
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(05) 収監者たちの間では、スターリンの死によって釈放されるだろうと、一般に推測された。
3月27日に政府は、5年以下の判決に服している受刑者の恩赦を発表した。これらは、経済的犯罪者とされた55歳以上の男性、50歳以上の女性および治療不可能の病気をもつ受刑者だった。ーつぎの数ヶ月間に、約100万の受刑者が釈放される見通しだった。
木材工場では、1953年中に恩赦の対象になるのは、受刑者数のおよそ半分だった(1263名から627名へと減る)。
釈放される者たちのほとんどは犯罪者だった。この者たちは暴れ回り、店舗から略奪し、家屋から強奪し、女性を強姦し、町中でテロルを繰り広げるまでになった。
レフは〔1953年〕4月10日に、スヴェータにこう書き送った。
「我々の仲間の何人かはもう外に出て、意のままにペチョラを徘徊している。
彼らは、あらゆる機会を利用して、力ずくで盗んでいる。
最悪の者たちは、自由気儘にやっている。
髭を生やした見映えのよい、Makarovだ。…この人は武装強盗をして8年間服役した。
Kolya Nazhinsky も、いなくなった。—この人は6キロの粥〔kasha〕を盗んで1947年にはここにすでに10年間いた。
そして、去年に仲間の一人から300ルーブルを盗み、Nやその隣人から少しずつ金をくすねた。
でもしかし、みんなはこの人の愚かさと彼に対する元々の判決の不公平さを憐れむばかりだ。この判決がなければ、彼は窃盗をしなかっただろうから。」//
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第11章②((06)〜)へとつづく。