江崎道朗はかつて、「日本会議専任研究員」という肩書きで月刊正論(産経新聞)に執筆していた。私がこの雑誌を読み始めた頃は、「評論家」になっていた。日本会議の専任研究員になる前は、日本会議の有力構成団体である日本青年協議会の月刊誌『祖国と青年』の編集長をしていた。
 江崎道朗・コミンテルンの謀略と日本の敗戦(PHP新書、2017)。
 この新書は秋月瑛二の<産経新聞的・保守>に対する不信を決定的なものにした記念碑的?著作だった。この書については多数回、すでに触れた(まだ指摘したいことはあったが、アホらしくなってやめた)。
 上の江崎書が相当に依拠していたのは、つぎだった。
 小田村寅二郎・昭和史に刻む我らが道統(日本教文社、1978)。
 小田村寅二郎(1919〜1999)は、「日本教文社」という出版元からある程度は推察されるだろうように、かつての<成長の家>関係者だった(この組織の現在の政治的主張はまた別のようだ)。
 江崎道朗が依拠する聖徳太子理解を小田村が戦前に執筆したのは戦前の<成長の家>の新聞か雑誌だった。
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  今回に再び述べたいのは、以上のことではない。
 江崎道朗の「血筋」・「血族」または「家系」に関する単純な感覚を、その小田村寅二郎への言及の仕方は示している。
 すなわち、江崎は、上の新書の中で少なくとも4回、繰り返して、つぎのように小田村を紹介または形容した。
 小田村は「吉田松陰の妹の曾孫」だった。
 一度だけならよいが、短い頁数の中に、小田村を形容する常套句のごとく、上の言葉が出てくる。
 これはやや異常であるとともに、「吉田松陰」の縁戚者であることをもって、小田村の評価を高めたいからだろう。そのような「血族」または「家系」の中に位置づけられる「きちんとした」人物だ、と言いたいのだろう。
 しかし、まず、「吉田松陰」を相当に高く評価している者に対してのみ通用する言及の仕方だ。この前提を共有しない者にとっては、何の意味もない。
 ついで、「吉田松陰の妹の曾孫」なのだから、松陰の直系の子孫ではない。妹の三世の孫というだけだ。実際のことだとしても、松陰は小田村の曾祖母の兄なので、親等数で言うと5親等離れている。
 だが、そもそもの疑問は、いったいなぜ、曾祖母の兄が松陰だということが小田村寅二郎の評価と関係があるのか、だ。
 ある人物の評価を過去の5親等離れた者の評価と関係づける、という発想自体が、私には異様だと感じられる
 かつまた、きわめて危険だと思われる。
 吉田松陰は当時の犯罪者であり刑死者でもあったが、松陰に限らずとも、一般論としてつぎのように言い得るだろう。
 5親等離れた者の中に犯罪者がいる(あるいは死刑になった者がいる)ことをもって、その旨を探索して、その人物を非難する、貶める、ということは許されるべきではない。江崎道朗の発想と叙述は、このような思考方法、人物評価方法の容認へと簡単につながるものだ。
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  江崎道朗の影響を受けた者に、つぎの人物がいる。
 竹内洋(1942〜)。京都大学名誉教授。
 竹内洋は<知識人と大衆>主題とする書物を多数刊行している。不思議だとかねて思ってきたのは、竹内は自分が「知識人」の中に含まれることをおそらく全く疑うことなく、叙述していることだ。新潟県佐渡から京都大学に入ったことだけではまだ「知識人」と言えないとすると、(とくに文科系の)大学教員であることをもって、「知識人」だと自己認識しているのだろうか。
 この竹内洋は、上記の江崎道朗書の「書評」を産経新聞に掲載した(2017年9月)。
 「伝統にさおさし、戦争を短期決戦で終わらせようとした小田村寅二郎(吉田松陰の縁戚)などの思想と行動」を著者・江崎は「保守本流」の「保守自由主義」と称する。この語はすでにあったが、これを「左翼全体主義と右翼全体主義の中で位置づけたところが著者の功績」。
 このように江崎書の「功績」を認めるのも噴飯ものだが、ここで注目すべきは、つぎだ。
 「小田村寅二郎(吉田松陰の縁戚)」
 竹内洋は、さして長文ではない文章の中で、わざわざ、小田村は「吉田松蔭の縁戚」者だと書いているのだ。5親等離れた「縁戚」者なのだが。
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  「血族」、「家系」あるいは「縁戚」という意識・感覚というのは、なかなかすさまじいものだ。
 竹内洋は、江崎道朗もだが、以下の事例をどう感じるのだろうか。他にも、多様な事例があるものと思われる。なお、「縁戚者」の「自殺」の動機を、私は正確に知っているのではない。
 ①1972年2月、<浅間山事件>を起こした連合赤軍の活動家の一人の「父親」が—直近の「縁戚」者だ—、その一人の逮捕・拘束の前に、滋賀県の自宅で自殺した。
 ②2021年6月、<和歌山カレー毒殺事件>の犯人として死刑判決を受けて拘禁中の者の「長女」が—直近の「縁戚」者だ—、その娘とともに大阪湾に飛び降りて自殺した。
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