西尾幹二・自由とは何か(ちくま新書、2018)には、<古代ギリシャの奴隷制度>に言及する長い章がある。
とても要約できないが、「古代ギリシャ」の自由・芸術・スポーツ等々が「奴隷」制を前提とすることをしきりに指摘していて、ひょっとして「奴隷」制の肯定にまで進んでしまうのではないかとすら思ったものだった(だいぶ前のこと)。
さすがにそうは明記していなかった。だが、この人の<本音>、<本性>は、「食って生きて」いくための瑣末なことを自分でするのを拒み(つまり他の人々=ニーチェにおける「愚衆」に任せて)、自分は「高尚な、精神的」作業をしたい、というものだっただろう。
そうでなければ、西尾幹二が「つくる会」の会長等の要職にあったときに、会の理事や事務局長が次第に〈日本会議〉に「乗っ取られて」いることに気づかず、「分裂」後になってあれこれと八木秀次や〈日本会議〉を非難するに至る、というふうにはならなかった、と感じられる。
仔細は知らないので推測がかなり占めるが、この人は、会の中で自分は「貴族」で、「ほとんどお飾りのごとく君臨しておれる」、と勘違いしていたのではなかろうか。
但し、〈つくる会〉にやや遅れてすぐにあとに結成された〈日本会議〉が支援・友好団体であることを知って、急いで〈日本会議〉の主張を学習して、きわめて大まかには、仏教ではなく神道、という旨の講演を〈日本会議〉の母体団体主催の会合で講演したことは、事実として指摘しておく必要がある。
参照→①2491/批判051—神話と日本青年協議会①。
参照→②2492/批判052—神話と日本青年協議会②。
——
「自由」を表題とする書物を西尾は何冊も執筆・刊行してきた。
上掲書のほか、自由の悲劇(講談社現代新書、1990)、自由の恐怖(文藝春秋、1995)、自由と宿命(洋泉社新書、2001)、等々。
その西尾幹二の「自由」概念と「自由」論がどの程度のものであるかを、2018年の上掲書からいくつかを再び引用して、示しておこう。とりわけ②は、大笑いだ。
①「今、私たちは自由と平等のパラドックスの矛盾の矛盾たるゆえんを、二人の正反対の大統領、背中を向け合うオバマとトランプの出現によって、ありありと劇的に目撃するに至りました。
オバマは『平等』にこだわりつづけるでしょう。
トランプはその偽善を突き、強い者が勝つのは当然とする『自由』の自己主張の復権を唱えつづけるでしょう。
二人の見せつけるページェントがこれから先、何処に赴くかは今のところ誰にも分かりません。」p.154、第三章の最後の文章。
②「『自由』は存在しない、そこからすべてが始まることだけは確かだ、と私は先に申しました。
おそらく、想像するに、『自由』は持続形態ではなく、量の概念でも質の概念でもなく、人間が四方八方において不自由な存在でありながらそのことをすら超えた境地にあるという認識の大悟徹底の只中から、わずかに瞬間的に発現する何ものかでありましょう。」p.118、第二章の最後に近い文章。
2018年にこんなことしか書けない人物がなぜ、多数の書物を出版でき、本人編集とはいえ、<全集>まで刊行できるのか。日本の出版界の恥であり、悲劇だ。そして、戦後日本の恥であり、悲劇だ。大笑いして済ませることはできない。
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とても要約できないが、「古代ギリシャ」の自由・芸術・スポーツ等々が「奴隷」制を前提とすることをしきりに指摘していて、ひょっとして「奴隷」制の肯定にまで進んでしまうのではないかとすら思ったものだった(だいぶ前のこと)。
さすがにそうは明記していなかった。だが、この人の<本音>、<本性>は、「食って生きて」いくための瑣末なことを自分でするのを拒み(つまり他の人々=ニーチェにおける「愚衆」に任せて)、自分は「高尚な、精神的」作業をしたい、というものだっただろう。
そうでなければ、西尾幹二が「つくる会」の会長等の要職にあったときに、会の理事や事務局長が次第に〈日本会議〉に「乗っ取られて」いることに気づかず、「分裂」後になってあれこれと八木秀次や〈日本会議〉を非難するに至る、というふうにはならなかった、と感じられる。
仔細は知らないので推測がかなり占めるが、この人は、会の中で自分は「貴族」で、「ほとんどお飾りのごとく君臨しておれる」、と勘違いしていたのではなかろうか。
但し、〈つくる会〉にやや遅れてすぐにあとに結成された〈日本会議〉が支援・友好団体であることを知って、急いで〈日本会議〉の主張を学習して、きわめて大まかには、仏教ではなく神道、という旨の講演を〈日本会議〉の母体団体主催の会合で講演したことは、事実として指摘しておく必要がある。
参照→①2491/批判051—神話と日本青年協議会①。
参照→②2492/批判052—神話と日本青年協議会②。
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「自由」を表題とする書物を西尾は何冊も執筆・刊行してきた。
上掲書のほか、自由の悲劇(講談社現代新書、1990)、自由の恐怖(文藝春秋、1995)、自由と宿命(洋泉社新書、2001)、等々。
その西尾幹二の「自由」概念と「自由」論がどの程度のものであるかを、2018年の上掲書からいくつかを再び引用して、示しておこう。とりわけ②は、大笑いだ。
①「今、私たちは自由と平等のパラドックスの矛盾の矛盾たるゆえんを、二人の正反対の大統領、背中を向け合うオバマとトランプの出現によって、ありありと劇的に目撃するに至りました。
オバマは『平等』にこだわりつづけるでしょう。
トランプはその偽善を突き、強い者が勝つのは当然とする『自由』の自己主張の復権を唱えつづけるでしょう。
二人の見せつけるページェントがこれから先、何処に赴くかは今のところ誰にも分かりません。」p.154、第三章の最後の文章。
②「『自由』は存在しない、そこからすべてが始まることだけは確かだ、と私は先に申しました。
おそらく、想像するに、『自由』は持続形態ではなく、量の概念でも質の概念でもなく、人間が四方八方において不自由な存在でありながらそのことをすら超えた境地にあるという認識の大悟徹底の只中から、わずかに瞬間的に発現する何ものかでありましょう。」p.118、第二章の最後に近い文章。
2018年にこんなことしか書けない人物がなぜ、多数の書物を出版でき、本人編集とはいえ、<全集>まで刊行できるのか。日本の出版界の恥であり、悲劇だ。そして、戦後日本の恥であり、悲劇だ。大笑いして済ませることはできない。
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