ひらめいた、思いついた、又は引用したい文章をそのままこの欄に文字入力できれば、なんと楽なことだろうか。文字入力するより、読書している方が楽だし、かつはるかに刺激的で愉しい。
 あれこれと拾い読みをしていたら、つぎの文章を見つけた。
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 養老孟司・唯脳論(1998、電子書籍2010、ちくま学芸文庫)の一部。一行ずつ改行。
 「人文科学や社会科学の人たちは、脳と言えば自然科学の領域だと思っている。
 自然科学も何も、そう思っている考え自体が、自分の脳の所産ではないか。
 こうした諸科学から言語を抜いたら、何もできなくなるであろう。
 言語は感覚性言語中枢から運動性言語中枢へ抜けて、運動器によってきちんと外部に表出される。
 まさかその性質を知らないでよいという言い方はあるまい。
 人文学者であろうと、脳血管障害を起こせば言語をうまく使えなくなる可能性がある。
 それどころではない。
 大脳皮質が退行すればボケてしまい、かつて自分の言ったことすら理解できなくなる。
 要するに、あらゆる科学は脳の法則性の支配下にある。
 それなら、脳はすべての科学の前提ではないか。」
 以上。
 上での「科学」は「学問」、「〜学」程度の意味で、また、「文科系」の評論作業も含めてよいだろう。
 ついでに、つぎの対比も、面白い。
 「文科系における言葉万能および理科系における物的証拠万能に頼るだけではなく、…」。
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 別の最近の生物関連書物を見ていたら、細胞等の「構造」と「機能」を区別する説明があった。
 この区別は、だいぶ以前に出版された上の養老著でもなされている。
 すなわち、「脳」は「構造」であり、「心」は「機能」だ。だから「心」は「脳」の所産ではない、とする言い方自体に問題がある
 <心身二元論>に関係する一つの説明の仕方かもしれない。但し、熟読していないから論評ではない全くないが、「心」、「意識」、「感情」等を養老はどう区別しているのだろうという関心は残る。
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 <文科系>人間は—佐伯啓思のように「人体」は「自然」の一種かとまで問題視しなくとも—「人体」の中でも「脳」は特別だ、と思いたい、そういう<気分>をもっている、かもしれない。
 だが、「脳」と「(その他の)身体部分」は区別できない旨の、つぎの養老孟司の叙述が上記著の中にある。
 「脳と身体とは、明瞭には区別できない」。なぜなら、「身体のほぼいたるところに抹消神経が張りめぐらされており、しかも脳と神経とは、一連の連続する構造だからである」。「肝臓や腎臓を取り出すように神経系を取り出すことは、もともと不可能であ」る。
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