「鳥羽伏見戦争」は終わっていた1968年8月に明治天皇が即位式を挙行し、その年の元日に遡って「明治」と改元してから、1945年8月に<敗戦>するまで、単純に引き算して、ちょうど77年。
 1945年に単純に77を足すと、2022年。
 明治の初めから明治憲法発布、日清・日露戦争等々を経て、対アメリカ戦争の敗戦までに至る時間の経過以上に長い期間が、「戦後」にもう過ぎているのだ。
 明治改元から2023年のちょうど中間に、1945年の敗戦が位置していることになる。
 明治初年から「敗戦」まで、日本は大きく変化した。開国・文明開化、明治憲法、日清・日露戦争、関東大震災、対中国戦争、対米国戦争、原爆投下・敗戦。
 1945年〜1951年にも、新憲法施行や「戦後改革」、サ講和条約発効等の大きな変化があった。
 だが、1951年以降に、明治時代の大変革やその後の「戦前」にあった変化以上の「変革」・「変化」が、あったのだろうか。
 すぐに思いつくのは、IT関係、情報通信環境の変化だ。また、1950年前後から、炊飯器・冷蔵庫・洗濯機や個人用自動車等の普及によって、「生活」の便宜や快適さが格段に増えてきていた。
 しかし、1868年・明治改元—1945年・「敗戦」までにあったような国家・行政それ自体にかかわる大変化は起きてこなかったように見える。
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  さて、池田信夫ブログマガジン2023年7月24日号から、長いが、再び引用する。
 「日本の法律は、官僚の実感によると、独仏法よりもさらにドグマティックな超大陸型だという。
 ルールのほとんどが法律や省令として官僚によってつくられ、逐条解釈で解釈も官僚が決め、処罰も行政処分として執行される。
 法律は『業法』として縦割りになり、ほとんど同じ内容の膨大な法律が所管省庁ごとに作られる。
 このように省令・政令を含めた『法令』で決まる文書主義という点では、日本の統治機構は法治主義である。
 これはコンピュータのコードでいうと、銀行の決済システムをITゼネコンが受注し、ほとんど同じ機能のプログラムを銀行ごとに作っているようなものだ。」
 「しかも内閣法制局が重複や矛盾をきらうので、一つのことを多くの法律で補完的に規定し、法律がスパゲティ化している」。
 「一つの法律を変えると膨大な『関連法』の改正が必要になり、税法改正のときなどは、分厚い法人税法本則や解釈通達集の他に、租税特別措置法の網の目のような改正が必要になるため、税制改正要求では財務省側で10以上のパーツを別々に担当する担当官が10数人ずらりと並ぶという。」
 「こういうレガシーシステムでは、高い記憶力と言語能力をそなえた官僚が法律を作る必要があるが、これはコンピュータでいえば、デバッガで自動化されるような定型的な仕事だ。
 優秀な官僚のエネルギーの大部分が老朽化したプログラムの補修に使われている現状は、人的資源の浪費である。」
 「問題はこういう官僚機構を超える巨視的な意思決定ができないことだ。
 実質的な立法・行政・司法機能が官僚機構に集中しているため、その裁量が際限なく大きくなる。
 国会は形骸化し、政治家は官僚に陳情するロビイストになり、大きな路線変換ができない。」
 「必要なのはルールをモジュール化して個々の法律で完結させ、重複や矛盾を許して国会が組み換え、最終的な判断は司法に委ねる法の支配への移行である。
 これは司法コストが高いが、官僚機構が劣化した時代には官僚もルールに従うことを徹底させるしかない。」
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  「省令・政令を含めた『法令』で決まる文書主義という点で」の日本の統治機構の「法治主義」から、「レガシーシステム」によるのではなくルールの「 モジュール化」をして重複や矛盾を許すよう「国会が組み換え、最終的な判断は司法に委ねる」という「法の支配」への移行が必要だ。
 たぶんこれが、基本的な趣旨だろう。
 「レガシーシステム」やルールの「モジュール化」という語には馴染みがないし、「法治主義」と「法の支配」の異同も、おおいに気になる。また、上の「官僚の実感」は適切かという問題はあるし、「優秀な官僚のエネルギーの…」と書いているけれども、日本の現在の「官僚」は—総じて今日までと比較して—本当に「優秀」なのか、という疑問はある。そもそも日本の「司法」はさほどに信頼できるか、という問題もある。
 だが、最大の問題は、池田がどのような時期的展望をもっているかは定かでないが、このような<行政スタイル>(塩野宏・行政法I-行政法総論(有斐閣、2015)の言葉)の大変革が、近い将来に日本で実際に起きる可能性はあるのだろうか、ということだ。
 どうも、否定的にならざるを得ない。少しずつでも池田が描くように変わってきているとも思えない。だからと言って、現在の<行政スタイル>を続けても、日本の国家運営・行政運営が突然に<破綻>したり、<崩壊>したりするとも思えない。
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  唐突ながら、新聞紙面でかつてから気になっているのは、「政治」面と「社会」面のあいだにあってしかるべき「行政」面の欠落だ。「政治」面は国会解散の意向はと何度も訊く、自民党の派閥や政党に関心を向ける政治部記者によって書かれ、「社会」面はほとんどが「警察ネタ」情報で、「警察署回り」で得られるが、「警察」は「行政」の一部にすぎない。このような感覚は、新聞を通じてテレビ等の関係者にも浸透してしまっているようだ。
 恒例行事の公示地価(行政関係「地価」には関係法令の違いに則して数種類があるのだが)に関する報道はあっても、例えば、<街づくり(防災にも関係する)>に直接かかわる建築基準法、都市計画法上の「用途地域」等の変更・改正に関する報道を、日本のマスメディアは全くかほとんど、してきていない。こうした幼稚で遅れたマスメディア、ジャーナリズムは、<日本の行政>を取り囲む重要な環境の一つでもある。
 原発または原発関係訴訟に関する記事も、公有水面埋立をめぐる国(これにも事業主体としての国と権力行使権限をもつ国との二種がある)と沖縄県(または沖縄県知事)のあいだの争訟に関する記事も、関係諸法の関係諸規定を知らない記者たちが書いているに違いない。ある意味では、行政「官僚」よりもこちらの方が恐ろしい。