西尾幹二という人物、その人が書く文章を信用してはならない、ということは、諸々のかたちでこれまでこの欄で示してきた。
 再述だが、「真面目に受け取る」ことの危険性を示すものとしてとくにつぎの二つを取り上げたことがある。
 ①月刊正論2002年6月号=同・歴史と常識(扶桑社、2002)p.65-p.66。
 「日本の運命に関わる政治の重大な局面で思想家は最高度に政治的でなくてはいけない」。
 「いよいよの場面で、国益のために、日本は外国の前で土下座しなければならないかもしれない。そしてそれを、われわれ思想家が思想的に支持しなければならないのかもしれない。正しい『思想』も、正しい『論理』も、そのときにはかなぐり捨てる、そういう瞬間が日本に訪れるでしょう、否、すでに何度も訪れているでしょう。」
 ②月刊諸君!2009年2月号、p.213。
 「思想家や言論人も百パーセントの真実を語れるものではありません。世には書けることと書けないことがあります。」
 「公論に携わる思想家や言論人も私的な心の暗部を抱えていて、それを全部ぶちまけてしまえば狂人と見なされるでしょう」。
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 だいぶ昔の文章だと感じられるかもしれない。
 しかし、すでにかなり昔の文章ではあるが、これらを読んで、当時の西尾幹二の関係者、とくに出版社の編集担当者や表向きの「仲間たち」が、この人物の<本質>に気づかなかったようであることが、不思議でならない。
 上の②は、率直に公に書けば「狂人」と見なされるだろう「私的な心の暗部」を、西尾幹二もまたもっていることを告白?するものだ。当時の誰一人、このことを訝しく感じなかったのだろうか。例のごとく、<レトリック>だとして済ませたのだろうか。
 なお、「世には書けることと書けないことがあります」という明言も、さすがに「文章執筆請負」を業としてきた、<空気>を気にせざるを得ない者の言葉ではある。
 以下は、上の①についてに限る。
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  思想家が「正しい『思想』も、正しい『論理』も」「かなぐり捨てる」、「そういう瞬間が日本に訪れるでしょう、否、すでに何度も訪れているでしょう」。等々。
 これは一般論としても興味深いが、西尾幹二が「つくる会」の会長をしていて、かつ西部邁と小林よしのりが同会を退会した直後に書かれたものだ。
 小林らはアメリカの対応に批判的だったが、西尾幹二はそうではなく、日本政府の対応も容認した。これを不満として小林は西尾幹二らを批判したが、西尾をはじめ月刊正論・産経新聞社グループは、小林よしのりへの全面的批判・攻撃をするに至った。
 ①の西尾の文章は、小林を批判し、自己の立場を正当化する文章の中で出現した。
 月刊正論2002年6月号での表題はこうだった。
 「臆病者の『思想』を排す—小林よしのりを論ず」
 なお、西尾は西部邁に対しては「保守派の反米主義に異議あり—おゝブルータスよお前もか!」(月刊正論2002年3月号)を書き、産経新聞2月19日付紙上には「嘆かわしい保守思想界の左翼返り」を書いた(上記の単行本所収に際して「保守思想界一部」に変更)。
 西尾幹二の、「思想家」は「高度に政治的」であるべきだ、日本が「国益」のために外国に「土下座」するのを「われわれ思想家が思想的に支持する」時期はくるだろうし、すでに来ているかもしれないとの論述は、こうした状況の中で書かれた。
 つまりは、自らの「容米」の立場を正当化し、当時の「反米」論を批判するために、当時「つくる会」会長だった西尾が書いた。
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 ここで、西尾幹二が「つくる会」について、のちに2017年にはこう語ったことを、想起せざるを得ない(全集第17巻/歴史教科書問題、p.712)。「つくる会」20周年集会での「挨拶」(代読)の中でだ。
 「つくる会」は、「反共だけでなく、反米の思想も『自己本位主義』のためには必要だと考え、初めてはっきり打ち出しました」。竹山道雄・福田恆存に「反米」の思想はなかった。三島由紀夫・江藤淳が先鞭をつけたが、「はっきりした自覚をもって反共と反米を一体化して新しい歴史観を打ち樹てようとしたのは『つくる会』です」。「反共だけでなく反米の思想も日本の自立のために必要だということを、われわれが初めて言い出した」。たんに「敗戦史観からの脱却だけが目的ではなく、これがわれわれの本来の理想の表われだったということを、今確認しておきたい」。
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  日本共産党やその幹部・不破哲三と同じく、<何とでも言える>ものだ。
 それはともかく、「反共だけでなく反米の思想も」初めて言い出したというのは、「つくる会」に関する歴史的事実だろうか。西尾は、「つくる会」の歴史も、自らの現在(この場合は2017年)に都合のよいように<捏造>しようとしている、と思われる。
 「つくる会」発足当時の諸文書の中に、<反共+反米>の思想を実証できるものはあるのだろうか。
 むしろ、「反米」姿勢の強かった西部邁や小林よしのりに対する西尾の厳しい批判は、上のような叙述と完全に矛盾しているのではないか。
 いや、「思想」と「政治」は別だ、だから上の①のように書いておいたのだ、と西尾は釈明するのかもしれない。
 だが、「正しい『思想』」を放擲して「高度に政治的に」、「政治」を優先する必要があり得ることを明言して承認する「思想」とは、あるいは「思想家」とは、そもそも「思想」や「思想家」の名に値するのだろうか。
 ともあれ、西尾幹二は、その程度の「思想家」なるものであることを、2002年の時点ですでに自ら認めていたことに注目しなければならない。
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 なお、小林よしのり・新ゴーマニズム宣言12/誰がためにポチは鳴く(小学館、2002)の第166章が、西尾の上の論考に対する反論になっている(初出はSAPIO(平凡社))。表題は、つぎのとおり。
 「小林を排除せよと叫ぶ西尾ポチ」。p.69。
 小林よしのりは、「今回、西尾の文章で、つくづくもう手の施しようがないなと思った部分を紹介しておく」として、最後に、上記の①の西尾の第二の文章を引用している。p.75。
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  2017年の時点で、西尾幹二は、「つくる会」会長だった2002年の頃に西部邁や小林よしのりと対立したことを、きちんと記憶していたのだろうか。自分は彼らに対する「容米」派だった時期のことだ。
 こんな疑問を抱くのも、内容的に矛盾していることのほか、つぎのような理由がある。
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 2019年1月に<文春オンライン>上で、西尾幹二は、インタビューへの回答・対談記事を載せた。
 その中で、2002年頃の小林よしのりの「つくる会」脱会に関して触れている部分を、全て以下に引用する。西部邁だけが関係する部分は省略する。
 「 ――1996年12月に『つくる会』は“日本に誇りが持てる教科書づくり”を目的として発足します。初期の主なメンバーには伊藤隆、藤岡信勝、小林よしのり、西部邁、坂本多加雄、高橋史朗などの各氏。会長は西尾さんでした。しかし、会はその後、幹部の対立と分裂を繰り返してしまいます。今、振り返ってどのようなことを思われますか。
 西尾 2002年に西部と小林が会を去った原因は、私たち幹部の対立に他なりません。もっと言えば、みんな『西尾憎し』だったのかもしれない。「国民の歴史」がベストセラーになったことが口惜しかったのでしょう。」 〈以下、中略〉
 「 ――同じく2002年に脱会する小林よしのりさんとはどんな関係だったのでしょう。
 西尾 彼とは今も付き合いがありますが、『つくる会』時代も仲が良かった。小林としては『俺は宣伝マンじゃない』という気持ちがあったのかもしれないが、協力者としては非常に便利でしたし、ありがたかった。叙述もうまいんだよ。だから私は歴史教科書の執筆の多くを彼に任せました。太平洋戦争開幕のところや、特攻隊について、それから日本神話の部分も小林のライティングです。
 ――西尾さんによるキャスティングだったんですね。
 西尾 そうです。彼の才能を買っていましたから。市販本の歴史教科書自体は40万部くらいのベストセラーになったと思いますが、これには小林に対する人気もあってのこと。だから、その頃までは蜜月だったの。
 ――西尾さんが『国民の歴史』を書かれるときにも、小林さんは後押しされたとか。
 西尾 そうですね、版元の扶桑社がああだこうだと私に要求ばかりしてきたときに、小林は『俺は西尾さんの仕事を待っている』『どれだけ遅れたって構いはしない』と、一貫して私の支持者でいてくれた。彼はね、物を作ることの困難をよく知っているんですよ。
 ――漫画家としての経験があるからですか。
 西尾 そう。自分で人を雇って、アシスタントをまとめる責任感を持っている。その苦しみも知っている。他のメンバーは学校の先生だから無責任で、外側からワイワイ言っているだけだったが、小林には男らしいところがあった。
 ――それほどの信頼関係がありながら、なぜ別れることになったのでしょうか。
 西尾 私にも明確にはわからない。ただ一つだけ、私も態度を硬くしてしまったと思うのが、小林に漫画を描かれたとき。小林は私の顔を犬にして『アメリカべったりのポチ保守』と描いたんだったかな。
 ――ありましたね。
 西尾 それで僕、怒ったんだよね。
 ――そりゃそうですよね。
 西尾 我慢すりゃいい話だったかもしれないが、そうもいかなかった。加えて2006年に八木が脱会した分裂紛争というのは、…〈以下、省略〉」。
 以上。
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 以上が、全て。
 西尾幹二は自分が月刊正論2002年6月号で「臆病者の『思想』を排す—小林よしのりを論ず」と題して書いたことを、すっかり忘れていると思われる。
 <思想家は「高度に政治的に」なければならない>等々と書いたことを明らかに忘れているようだ。
 また、小林よしのりと「別れ」た理由は「私にも明確にはわからない」とのうのうと語っている。
 西部邁との対立についてもそうなのだが、「『国民の歴史』がベストセラーになったことが悔しかったのでしょう」などと言いつつ、<対テロ戦争>の発生にも、西部邁と小林よしのりがこの点で「反米」派だったこと、自分はこの点で「容米」派だったことには全く触れていない。すっかり忘れてしまっていたのだろう。
 その代わりに、小林よしのりが自分の顔を漫画で戯画化した、それで怒った、ということだけはよく憶えている。
 こんな調子だから、西尾が2017年に「つくる会」は「反共+反米」を初めて明確に打ち出したと語ったとき、かつて2002年頃に「反米」派と対立したことを全くかほとんど忘却していたとしても、何ら不思議ではない。
 のちには、西尾幹二は、「高度の政治的」判断を忘れて?、<保守>派の中では際立って「反米」性の強い主張をするようになった。
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 政治的認識や見解の変化は、もちろんあり得る。しかし、とても容赦することができない、と感じるのは、かつて「会長」だった2002年頃の自分の主張・見解をすっかり忘れて、2017年になって、「会」は「反共+反米」を初めて明確に打ち出したと、ぬけぬけと語っていることだ。
 なぜ、こういうことが生じるのか。
 西尾幹二にとって、見解・主張の内容やその変化などは、本質的問題ではない、どうでもよいことなのだ。
 この人にとって重要なのは、自分が「有名」であること、「えらい人」だと感じさせること、自分が関係した「運動」の意義を自分が理解するように理解し解釈させること、自分の「面子(メンツ)」が維持されていること、なのだ。
 誰にもある程度はこういう面があるかもしれない。しかし、西尾幹二の場合は、異様に大きすぎる。
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