西尾幹二全集第8巻(2013)の「後記」の第一頁(p.787)には、前回に触れたいくつかの点以外に、注目を惹く文章がある。
 第一に、1980-90年の約10年、「思想家としても、行動家としても、限界までやったという思いももちろんないではない」、とある。
 これは2013年時点の感慨なのか、1990年初頭にすでに抱いたものなのかは明確ではない。
 しかし、少なくとも2013年の時点ですでに、自らのことを「思想家」かつ「行動家」だと書いている。
 秋月瑛二は、2019年1月の文春オンライン上で(私には)「『日本から見た世界史の中におかれた日本史』の記述を目指し、明治以来の日本史の革新を目ざす思想家」としての思いがある(だから椛島有三と妥協できなかった)と語った部分が、最初かと思っていた。
 2013年に、何の限定も付けずに、かつ自らの文章で「思想家」(かつ「行動家」)と称していたのだ。
 なお、いつの時点であれ、西尾を本当に「思想家」だと見なしている人は何人いるのだろうか。
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 第二に、「人生で一番よいものの書ける、体力もある充実した歳月に私は教育改革のテーマに集中していた」約10年が経った後について、こうある。一文ずつ改行する。
 「フッと憑きものが落ちたかのように、この世界から離れてしまった。
 そのあと二度とこの種の教育論は書いていない
 日本の教育の行方に絶望したからだともいえるし、教育を考えること自体に飽きたからともいえる。」
 これは、じつに驚くべき文章だ。1990年前半での述懐ならばまだ分かる。
 しかし、西尾幹二はその後、「教育学」研究者の藤岡信勝と出会い、1996-1997年に〈新しい歴史教科書をつくる会〉を設立し(記者会見は1996年12月)、自分が「初代会長」になったのではないか。
 この「つくる会」とその運動は、名称上も「歴史教科書」に関係するもので、日本の「歴史教育」を正面から問題にしていたのではないか。当然に、「教育改革」と関連する。
 それにもかかわらず、いかに「会」とは直接の関係がなくなっていたとは言え、2013年に、1990年初頭以降は「日本の教育の行方に絶望した」または「教育を考えること自体に飽きた」、という旨(こうとしか読めない)を書けるとは、いったいどういう<神経>のもち主なのだろうか。
 この人にとっては、「教科書」も「教育」も大した問題ではなく、これらとは別の次元の「思想」・「精神」または「歴史哲学」に、あるいは自分が「会長」として目立っていて〈有名〉であることに、最も大きな関心があったのかもしれない。
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 第三に、「人生の重要な時間を費やした貴重な体験からもパッと離れ、たちまち遠くなってしまう」ことについて、こうある。
 「ある意味で悪い癖で、私は感動だけを求めていて、これはその後の人生でも繰り返されたパターンである」。
 これは、西尾が「その後の人生」や自己の「癖」について語っていて、興味深い文章だ。
 そして、最も気になる重要な言葉は、「私は感動だけを求めてい」た、という部分だと思われる。
 西尾がそれだけを求めていた(その後でもそうだったとする)「感動」とは何か
 「真実」でも、「正義」でもない、「感動」だ。
 この「感動」は、教育改革に自分の見解が採用された、それに影響を与えた、というものではないだろう。
 そして、教育改革(そのための「臨教審」・「中教審」答申等)をめぐって(当時は2013年時点よりも多様な全国紙を含む)諸情報媒体から、西尾幹二個人の発言または原稿執筆が求められ、西尾の名前が知られ、注目され、〈有名になった〉こと、これこそがこの人にとっての「感動」であったように思われる。
 すでにこの欄に書いたことだが、「真実」、「正義」、「合理」性は、西尾幹二が追求してきたものではない〈有名〉・〈高名〉な「えらい人」と多数の人々に認知されるという「陶酔感」、「感動」を得ることこそが、この人が追求してきた最大の価値だった、と考えられる。
 もちろん、そうした「願望」が実現されたかは、別の問題になる。
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 つづく。