一 伊東乾の文章は、ネット上のJBpressで興味深く定期的に読んでいる。
私よりかなり若くて、参考にもなる刺激的な文章を書く。「学歴」等々の無意味さを<日本の教育>に関して述べたいのだから矛盾してはいるが、この人の経歴と現職には驚かされる。
東京大学理学部物理学科卒業、現職は東京大学教授で「情報詩学研究室/生物統計・生命倫理研究室/情報基礎論研究室」に所属。作曲家・指揮者でもあり、『人生が深まるクラッシック音楽入門』(幻冬社新書、2012)等々の書物もある。
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二 比較的最近のものに、2023年6月29日付「タイタンの乗客をバラバラにした深海水圧はどれほど脅威か」がある。
これによると、水深2.4キロで240気圧が乗員・乗客を突然に襲ったとすると、「ぺちゃんこになる」どころか、おそらく「瞬時にしてバラバラ」になり、「海の藻屑となって四散した」だろう、という。
関連して想像したくなるのは、その死者たちは自分の「死」を意識する余裕があったのかだ。たぶん、意識する「脳・感覚細胞」すら、「瞬時に」破壊されたのだろう。
マスメディアでは報道されないが、「死」または「死体(遺体)」については、楽しくはない想像をしてしまうことが多い。
だいぶ前に御嶽の噴火で灰に埋まった人々がいて、中には翌年以降に発見された遺体もあったはずだが、その遺体はどういう状態だったのだろう。
知床半島近くの海に船の事故のために沈んでまだ「行方不明」の人々もいるはずだが、彼らの「遺体」はどうなっているのだろう。同じことは、東日本大震災のときの津波犠牲者で、まだ「行方不明」の人々についても言える。
まだ単純な家出と「行方不明」ならばともかく、ほとんどまたは完全に絶望的な「行方不明」者について、「遺体」またはせめて「遺品」でも見ないと、「死んだという気持ちになれない」というのは、理解することはできても、生きている者の一種の「傲慢さ」ではなかろうか。
2011年春の東日本大震災のあと一年余りあとに、瓦礫だけはもうなくなっていた(そして病院・学校の建物しか残っていなかった)石巻市の日和山公園の下の海辺を、自動車に乗せてもらって見たことがある。このときの感慨、不思議な(私の神経・感覚の)経験は、長くなるので書かない。
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三 2023年6月23日付は「東大程度が目標の教育なら日本は間違いなく没落する」という、種々の意味での「東大」関係者には刺激的だろう表題だ。
伊東乾が言っているのは、おそらく、正解・正答のある問題への解答ばかり学習して身につけた「知識」では役に立たない、あるいは「1945年以降の戦後教育が推進し、ある意味、明治~江戸幕藩体制期に先祖返りしていま現在に至る先例墨守、前例遵守の思考停止で共通の唯一正解しか求められないメンタリティ、能力とマインドセット」に落ち込んではダメだ、ということだ。
そして、「正解がない問題ではない複数の正解がありうる問題に、より妥当な解を目指して漸近していく、そういう知性」が求められる。「19世紀帝国大学的な唯一解教育の全否定」が必要だ。「人々の意識の底に潜む唯一の正解という亡霊を一掃」する必要がある。
このような旨の主張・指摘は、東京大学出身者である茂木健一郎がしばしば行なっている。特定大学名を出してのテレビ番組や同じくその番組類での出演者の「学歴表示」を、この人は嘲弄している(はずだ)。
同じく東京大学出身者である池田信夫の印象に残った言葉に(しごく当然のことなのだが)、<学歴は人格を表示しない>旨がある。
また、池田は<学歴のシグナリング機能>という言葉を、たぶん複数回用いていた。
これらに共感してきたから、伊東乾の文章も大きな異論なく読める。
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三 だが、「学歴」または「出身大学」意識は、日本社会と人々に蔓延していそうだ。いずれ書くが、「早稲田大学(第一)文学部卒」というのを、一つの重要な価値基準とする者も(とくに出版業界隈には、桑原聡等々)いるらしい。
しかし一方で、「大学教育」というものはほとんどの大学と学部で「すでに成立しなくなっている」こともまた、多くの人々にとって(大学教員にすら)自明のことだと思われる。
その「大学教育」を形だけは目指して、高校(・中学校)や予備校・塾での「教育」と「学習」が行なわれているのだから、こんなに「無駄」、「人的・経済的資源の浪費」であるものはない。
「大学授業料」無償化と叫ぶのは結構だとしても、そのいう「大学」での教育・学習の実態を無視した「きれいごと」の議論・主張では困る。
とりあえず、第一回。
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私よりかなり若くて、参考にもなる刺激的な文章を書く。「学歴」等々の無意味さを<日本の教育>に関して述べたいのだから矛盾してはいるが、この人の経歴と現職には驚かされる。
東京大学理学部物理学科卒業、現職は東京大学教授で「情報詩学研究室/生物統計・生命倫理研究室/情報基礎論研究室」に所属。作曲家・指揮者でもあり、『人生が深まるクラッシック音楽入門』(幻冬社新書、2012)等々の書物もある。
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二 比較的最近のものに、2023年6月29日付「タイタンの乗客をバラバラにした深海水圧はどれほど脅威か」がある。
これによると、水深2.4キロで240気圧が乗員・乗客を突然に襲ったとすると、「ぺちゃんこになる」どころか、おそらく「瞬時にしてバラバラ」になり、「海の藻屑となって四散した」だろう、という。
関連して想像したくなるのは、その死者たちは自分の「死」を意識する余裕があったのかだ。たぶん、意識する「脳・感覚細胞」すら、「瞬時に」破壊されたのだろう。
マスメディアでは報道されないが、「死」または「死体(遺体)」については、楽しくはない想像をしてしまうことが多い。
だいぶ前に御嶽の噴火で灰に埋まった人々がいて、中には翌年以降に発見された遺体もあったはずだが、その遺体はどういう状態だったのだろう。
知床半島近くの海に船の事故のために沈んでまだ「行方不明」の人々もいるはずだが、彼らの「遺体」はどうなっているのだろう。同じことは、東日本大震災のときの津波犠牲者で、まだ「行方不明」の人々についても言える。
まだ単純な家出と「行方不明」ならばともかく、ほとんどまたは完全に絶望的な「行方不明」者について、「遺体」またはせめて「遺品」でも見ないと、「死んだという気持ちになれない」というのは、理解することはできても、生きている者の一種の「傲慢さ」ではなかろうか。
2011年春の東日本大震災のあと一年余りあとに、瓦礫だけはもうなくなっていた(そして病院・学校の建物しか残っていなかった)石巻市の日和山公園の下の海辺を、自動車に乗せてもらって見たことがある。このときの感慨、不思議な(私の神経・感覚の)経験は、長くなるので書かない。
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三 2023年6月23日付は「東大程度が目標の教育なら日本は間違いなく没落する」という、種々の意味での「東大」関係者には刺激的だろう表題だ。
伊東乾が言っているのは、おそらく、正解・正答のある問題への解答ばかり学習して身につけた「知識」では役に立たない、あるいは「1945年以降の戦後教育が推進し、ある意味、明治~江戸幕藩体制期に先祖返りしていま現在に至る先例墨守、前例遵守の思考停止で共通の唯一正解しか求められないメンタリティ、能力とマインドセット」に落ち込んではダメだ、ということだ。
そして、「正解がない問題ではない複数の正解がありうる問題に、より妥当な解を目指して漸近していく、そういう知性」が求められる。「19世紀帝国大学的な唯一解教育の全否定」が必要だ。「人々の意識の底に潜む唯一の正解という亡霊を一掃」する必要がある。
このような旨の主張・指摘は、東京大学出身者である茂木健一郎がしばしば行なっている。特定大学名を出してのテレビ番組や同じくその番組類での出演者の「学歴表示」を、この人は嘲弄している(はずだ)。
同じく東京大学出身者である池田信夫の印象に残った言葉に(しごく当然のことなのだが)、<学歴は人格を表示しない>旨がある。
また、池田は<学歴のシグナリング機能>という言葉を、たぶん複数回用いていた。
これらに共感してきたから、伊東乾の文章も大きな異論なく読める。
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三 だが、「学歴」または「出身大学」意識は、日本社会と人々に蔓延していそうだ。いずれ書くが、「早稲田大学(第一)文学部卒」というのを、一つの重要な価値基準とする者も(とくに出版業界隈には、桑原聡等々)いるらしい。
しかし一方で、「大学教育」というものはほとんどの大学と学部で「すでに成立しなくなっている」こともまた、多くの人々にとって(大学教員にすら)自明のことだと思われる。
その「大学教育」を形だけは目指して、高校(・中学校)や予備校・塾での「教育」と「学習」が行なわれているのだから、こんなに「無駄」、「人的・経済的資源の浪費」であるものはない。
「大学授業料」無償化と叫ぶのは結構だとしても、そのいう「大学」での教育・学習の実態を無視した「きれいごと」の議論・主張では困る。
とりあえず、第一回。
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