一 Mac-OSの中に付属しているGarageBand という演奏・作曲補助アプリも、近年開発されているらしい諸コンセプトを告げれば自動的に作曲をするというAIアプリも、坂本龍一の「戦場のメリークルスマス」も、<十二平均律>にもとづいている。
それによると1オクターブは12音(両端を含めると13音)で構成される。だが、この1オクターブが12音で構成されるということは、決して「自然」または「当然」のことではない。
一方で、ある音に1あるいは2オクターブ上の音、1あるいは2オクターブ下の音が存在するということは、「自然」の現象だ。
ある音の周波数を2倍、4倍、1/2倍、1/4倍にしたものを同時に響かせると、最も振幅の短い、多数の周波数をもつ音に全てが吸収されて、人間の通常の聴感覚では「同じ一つの」音に聞こえる、というのは、人為を超えた「自然」なことだ。
----
しかし、1オクターブが12音で構成されるというのは、「人為的・歴史的」な現象だ。なぜ、そうなったのか。
<十二平均律>では基音の1オクターブ上の音は基音のちょうど2倍の周波数をもつ。そして、その1オクターブの中に高さの異なる12の音を「平均的」に配置したのが<十二平均律>だ。「平均的」=隣り合う音の周波数比が全ての音の間について同一に。
だが、1オクターブを一定の数の音に「平均」的に配置するだけならば、<10平均律>でも、<15平均律>等々でもよいはずだ。なぜ、<12平均律>なのか。
----
ピタゴラス・コンマを除去する前の(1オクターブ内での諸音設定のための)計算過程では、「12」回めの数値は前回に記したように約2.0273になる(これは基音1に3/2を乗じ続けることを前提としての数値だ。3/2で除し(割り)続けることを前提にすると「12」回めの数値は約1.9731になる)。
上のような計算を「53」回続けると、計算結果の数値はさらに2に近づき、差異は0.01以下の約2.0042になるとされている(12回を超えて13回、14回と増えるごとに徐々に2に接近していくのではない)。
素人判断ながら、このことは今日にでも<53平均律>が語られることにつながっていると見られる。
しかし、1オクターブ内に53の異なる高さの音を配置するのは、人間の通常の聴感覚からして、現実的ではない。なぜなら、ふつうの人間は1オクターブ内の異なる53もの多くの音を聞き分けることができないだろうからだ。
53というのは、例えばピアノの1オクターブ内に現在の4倍以上の鍵盤を設ける(一つの白鍵・黒鍵をさらに上下左右に分ける?)ことを意味する。
楽器製作の便宜はともかくとしても、現在に言う「半音」一つがさらに4つ以上に分割された場合、よほどに「耳の良い」人は例外として、聴き分けることができるとは思えない。
----
1オクターブ12音とされる歴史の中で決定的に重要だったのは、ピタゴラス音律の成立過程で、「12」回めの計算でほぼ2という数値(=ちょうどほとんど1オクターブ上の周波数値)が得られたことだと考えられる。
かつまた、その「12」という数字に魅力、魔力があったからだ、と見られる。
----
二 「12」という数字の魅力、魔力、「特別の意味」と言うだけでは、厳密な答えにはなっていないだろう。
だが、この点は、多くの人が容易に思いつくことがあるだろうので、多言は省略する。
素人論議だが、数点だけ書いておきたい。
----
第一。キリスト教世界では元々、こういう考え方があった、とされる。神は、全てを「完璧に」、「美しく」創造した。音、「音楽」の世界も完璧で美しく構成されているはずだ。
そして、ピタゴラス音律での1オクターブ「12」音もこれを背景にしている、という旨の説明を読んだことがある。
たしかに、西欧には1ダース(12個)という日本には元来はない観念があり、13-19とは違って11と12には日本にはない特別の数字用の言葉がある。eleven, twelve、elf, zwoelf で、thirteen,dreizehn と言っても、two-teen、zwei-zehn とは言わない。
また、キリストには12人の「使徒」がいた、とも言われる。
そうすると、ピタゴラス音律が結局は1オクターブ12音を採用したことも理解できなくはない。あるいはその前に、弦の長さを調節している過程で、弾いた音がちょうど1オクターブ上になる場合を(長さを3/2または2/3にするのを繰り返して12回めに)発見した、と感じたのかもしれない。
もっとも、1から出発して3/2または2/3の乗除を続ける計算では「永遠に」ぴったり2にならないことは、古代の数学でも分かっていたと思われる。
それでもしかし、約2.0273(または約1.9731)は2と同一視できる範囲内だと考えたのかもしれない。またその上に、この端数であるピタゴラス・コンマを除去して正確に2にするために、必ずしも簡単ではない「工夫」を(12種の音の設定自体の過程で)したのかもしれない。
----
第二。東洋でもピタゴラス音律に似た音階設定の考え方はあったとされるのだが、それは別としても、「12」という数字への注目は、東洋にも、そして日本にもあったし、今でもある。
子丑寅…の<12支>だ。またこれと<10干>を連結した言葉もある(壬申の乱、戊辰戦争等。明治新政府は「邪教」としたのかもしれない「陰陽五行説」の影響が残っている)。薬師如来を守護する仏(神)としての「12神将」というのも知られている(奈良市・新薬師寺に大きいもの、山形県寒河江市・慈恩寺に小さいものが残っている)。
----
三 これらにも関心は向くのだが、そもそも、「12」というのは、ヒト、人間にとって、太古の昔からきわめて重要な数だったと思われる。
自分たちが生きる地球と太陽の関係(天道か地道か)を正確には知らなくとも、日出・日没あるいは昼夜の反復ごとに「一日」を感じるのは極北・極南にいないかぎりヒトの発生以降普遍的なことだっただろう(この感覚は、ヒトの「睡眠」神経中枢の形成に関係したかもしれない)。また、寒暖または季節の変化の反復によって、「一年」という感覚も生じただろう。
同時に、地球と月の関係についての正確な知識はなかったにしても、月の満ち欠けを大昔から知っていたに違いなく、新月または満月の繰返しは、太陽(日)との関係で知覚していた「一年」の間にほぼ12回あるという知識も積み重ねていっただろう。
暦の歴史に関する知識は全くないが、太陰暦が太陽暦に先行したらしいことも十分に理解することができる。一年を一日以上の単位で区切るとすれば、曖昧な寒暖や四季を別にすると、「12」しかなかったのだ。
その12ヶ月=一年は、太陽暦になっても維持されている(閏月もなくなって月の実際の干満との不適合が大きくなっても)。「三日月」とか「十五夜」という言葉は、今でも使われている。
----
「とき」、時間をどう把握し、どう区切るかは、人の生活にとって、そして人間集団の諸活動にとって、きわめて重要だったはずだ。
1、2、4に次いで、3、5、6、8と同程度の意味・重要性を、12はもっていただろう。
そのことは、現在の「時計」を見てもよく分かる。数字付きであれば、1から12までがある。1時間=60分=5分の12倍。午前12時間、午後12時間。
日本でも「12支」を使って一日の間の時刻を表現することが行われていた(丑三どき等)。なお、方角の指示も、これによっていた(丑寅・鬼門、巽=辰巳等)。
----
四 常識的なことを上で長々と書いたかもしれないが、要するに、つぎのようなことだ。
<平均律>というだけならば、非現実的な<53平均律>でなくとも、<10平均律>でも<13平均律>でも、<15平均律>でもよいはずだ。
1オクターブ内の異なる高さの15-16音くらいまでは、通常の人間の聴感覚で区別できるのではないかと思われる。
なぜ<十二平均律>になったのかが、疑問とされなければならない。
直接の背景・根拠だと考えられるのは、純正律でも、その前のピタゴラス音律でも、<1オクターブ12音>が採用されていた、ということだ。このような歴史的背景がある、ということだ。
この意味で、ピタゴラス音律が「音楽」の世界に与えた影響はきわめて大きかったと思われる。
そして、そこでの「12音」の採用には、「12」という数字の一般的な重要性も影響した、と考えられる。
—-
なお、念のために書いておく。ピタゴラス音律と<十二平均律>は、<1オクターブは異なる高さの12音で構成される>という点では同じだ。しかし、一定の最初の音(基音)以外の11の音の高さ(周波数)は全て、同じではない。1オクターブの中に12の音があることに変わりはないので、ある程度は似たような高さの音が設定されるとしても。
----
五 欧米で<十二平均律>がすでに支配的になっていた時代に、日本は「西洋音楽」を輸入した。「文明開花」の時代、「西洋文明の継受」の時代だ。この時代には、今日に言う戦前・戦後の間以上の大きな変化があったと思われる。
音楽の世界では、音楽大学等を通じて、おそらくドイツ(・オーストリア)の「音楽理論」が急いで直輸入された。三Bの最後のブラームスでも、1833年〜1897年没。モーツァルトは、1756年生〜1791年没。シューベルトは、1797年〜1828年没。
(余計ながら、「完全五度」・「完全四度」、「長三度」・「短三度」等の術語や<十二平均律>を主体にしてピタゴラス音律や純正律等との差異を「セント」という単位を使って説明するという方法は、現在の「専門」音楽教育でも依然として使われているようだ。いいかげんに改めた方がよいと素人の私には感じられるものがある)。
----
そうだとすると、「西洋音楽」の背景にあったかもしれない教会音楽、宗教音楽、そしてキリスト教という宗教の影響を、日本が受けても不思議ではなかった。だが、日本は「表面」または「形式」・「様式」だけを導入した。あるいは「魂」ではなく「技術」だけをすみやかに継受した。
ところで、「君が代」は古歌・古謡とされ、明治期以前にすでに各地方に「民謡」があったに違いない。だが、日本独自の音階「論」があったわけではなさそうなのは不思議なことだ。仏教寺院での声明(しょうみょう)という経の唱え方は一種の旋律で、楽譜にあたるものもある、とも言えそうだが、仏教界以外の音楽一般へと発展はしなかったようだ。
むしろ、実際にそうであるように、「君が代」も各種「民謡」も、おそらく「西洋音楽」を前提とした楽譜(高低二種の五線譜)で表現され得るものであることが、「西洋音楽」の広さ・深さを感じさせる(琉球民謡もアラビア風旋律も同じ)。楽譜に写され得ないとすれば、いわゆる半音の4分の1、8分の1程度の微細な高さの違いがあるのだろう。
楽譜化できる日本音階(和音階)での長調と短調という話題に発展させることができなくもないが、立ち入らない(「君が代」はレミソラドレ(上昇時)という音階による)。
----
六 12(13)音のうち主要なのは、ピアノでは白鍵で叩かれる、C=ドとしてのドレミファソラシ(ド)という7(8)音だ。あるいは、イロハニホヘト、ABCDEFGの7音。「幹音」とも称される。
これら以外はなぜ、♯(嬰)や♭(変)付きで表現されるのだろうか。この疑問とほぼ同じ意味であるのも不思議、あるいは興味深いが、ピアノ・オルガン類でこれらだけが白鍵で、その他は黒鍵で弾かれるのは、いったいなぜだろうか。
この問題についても、素人的な想定・仮説を持っている。やはりピタゴラス音律の生成過程に関係する。別に記してみる。
——
それによると1オクターブは12音(両端を含めると13音)で構成される。だが、この1オクターブが12音で構成されるということは、決して「自然」または「当然」のことではない。
一方で、ある音に1あるいは2オクターブ上の音、1あるいは2オクターブ下の音が存在するということは、「自然」の現象だ。
ある音の周波数を2倍、4倍、1/2倍、1/4倍にしたものを同時に響かせると、最も振幅の短い、多数の周波数をもつ音に全てが吸収されて、人間の通常の聴感覚では「同じ一つの」音に聞こえる、というのは、人為を超えた「自然」なことだ。
----
しかし、1オクターブが12音で構成されるというのは、「人為的・歴史的」な現象だ。なぜ、そうなったのか。
<十二平均律>では基音の1オクターブ上の音は基音のちょうど2倍の周波数をもつ。そして、その1オクターブの中に高さの異なる12の音を「平均的」に配置したのが<十二平均律>だ。「平均的」=隣り合う音の周波数比が全ての音の間について同一に。
だが、1オクターブを一定の数の音に「平均」的に配置するだけならば、<10平均律>でも、<15平均律>等々でもよいはずだ。なぜ、<12平均律>なのか。
----
ピタゴラス・コンマを除去する前の(1オクターブ内での諸音設定のための)計算過程では、「12」回めの数値は前回に記したように約2.0273になる(これは基音1に3/2を乗じ続けることを前提としての数値だ。3/2で除し(割り)続けることを前提にすると「12」回めの数値は約1.9731になる)。
上のような計算を「53」回続けると、計算結果の数値はさらに2に近づき、差異は0.01以下の約2.0042になるとされている(12回を超えて13回、14回と増えるごとに徐々に2に接近していくのではない)。
素人判断ながら、このことは今日にでも<53平均律>が語られることにつながっていると見られる。
しかし、1オクターブ内に53の異なる高さの音を配置するのは、人間の通常の聴感覚からして、現実的ではない。なぜなら、ふつうの人間は1オクターブ内の異なる53もの多くの音を聞き分けることができないだろうからだ。
53というのは、例えばピアノの1オクターブ内に現在の4倍以上の鍵盤を設ける(一つの白鍵・黒鍵をさらに上下左右に分ける?)ことを意味する。
楽器製作の便宜はともかくとしても、現在に言う「半音」一つがさらに4つ以上に分割された場合、よほどに「耳の良い」人は例外として、聴き分けることができるとは思えない。
----
1オクターブ12音とされる歴史の中で決定的に重要だったのは、ピタゴラス音律の成立過程で、「12」回めの計算でほぼ2という数値(=ちょうどほとんど1オクターブ上の周波数値)が得られたことだと考えられる。
かつまた、その「12」という数字に魅力、魔力があったからだ、と見られる。
----
二 「12」という数字の魅力、魔力、「特別の意味」と言うだけでは、厳密な答えにはなっていないだろう。
だが、この点は、多くの人が容易に思いつくことがあるだろうので、多言は省略する。
素人論議だが、数点だけ書いておきたい。
----
第一。キリスト教世界では元々、こういう考え方があった、とされる。神は、全てを「完璧に」、「美しく」創造した。音、「音楽」の世界も完璧で美しく構成されているはずだ。
そして、ピタゴラス音律での1オクターブ「12」音もこれを背景にしている、という旨の説明を読んだことがある。
たしかに、西欧には1ダース(12個)という日本には元来はない観念があり、13-19とは違って11と12には日本にはない特別の数字用の言葉がある。eleven, twelve、elf, zwoelf で、thirteen,dreizehn と言っても、two-teen、zwei-zehn とは言わない。
また、キリストには12人の「使徒」がいた、とも言われる。
そうすると、ピタゴラス音律が結局は1オクターブ12音を採用したことも理解できなくはない。あるいはその前に、弦の長さを調節している過程で、弾いた音がちょうど1オクターブ上になる場合を(長さを3/2または2/3にするのを繰り返して12回めに)発見した、と感じたのかもしれない。
もっとも、1から出発して3/2または2/3の乗除を続ける計算では「永遠に」ぴったり2にならないことは、古代の数学でも分かっていたと思われる。
それでもしかし、約2.0273(または約1.9731)は2と同一視できる範囲内だと考えたのかもしれない。またその上に、この端数であるピタゴラス・コンマを除去して正確に2にするために、必ずしも簡単ではない「工夫」を(12種の音の設定自体の過程で)したのかもしれない。
----
第二。東洋でもピタゴラス音律に似た音階設定の考え方はあったとされるのだが、それは別としても、「12」という数字への注目は、東洋にも、そして日本にもあったし、今でもある。
子丑寅…の<12支>だ。またこれと<10干>を連結した言葉もある(壬申の乱、戊辰戦争等。明治新政府は「邪教」としたのかもしれない「陰陽五行説」の影響が残っている)。薬師如来を守護する仏(神)としての「12神将」というのも知られている(奈良市・新薬師寺に大きいもの、山形県寒河江市・慈恩寺に小さいものが残っている)。
----
三 これらにも関心は向くのだが、そもそも、「12」というのは、ヒト、人間にとって、太古の昔からきわめて重要な数だったと思われる。
自分たちが生きる地球と太陽の関係(天道か地道か)を正確には知らなくとも、日出・日没あるいは昼夜の反復ごとに「一日」を感じるのは極北・極南にいないかぎりヒトの発生以降普遍的なことだっただろう(この感覚は、ヒトの「睡眠」神経中枢の形成に関係したかもしれない)。また、寒暖または季節の変化の反復によって、「一年」という感覚も生じただろう。
同時に、地球と月の関係についての正確な知識はなかったにしても、月の満ち欠けを大昔から知っていたに違いなく、新月または満月の繰返しは、太陽(日)との関係で知覚していた「一年」の間にほぼ12回あるという知識も積み重ねていっただろう。
暦の歴史に関する知識は全くないが、太陰暦が太陽暦に先行したらしいことも十分に理解することができる。一年を一日以上の単位で区切るとすれば、曖昧な寒暖や四季を別にすると、「12」しかなかったのだ。
その12ヶ月=一年は、太陽暦になっても維持されている(閏月もなくなって月の実際の干満との不適合が大きくなっても)。「三日月」とか「十五夜」という言葉は、今でも使われている。
----
「とき」、時間をどう把握し、どう区切るかは、人の生活にとって、そして人間集団の諸活動にとって、きわめて重要だったはずだ。
1、2、4に次いで、3、5、6、8と同程度の意味・重要性を、12はもっていただろう。
そのことは、現在の「時計」を見てもよく分かる。数字付きであれば、1から12までがある。1時間=60分=5分の12倍。午前12時間、午後12時間。
日本でも「12支」を使って一日の間の時刻を表現することが行われていた(丑三どき等)。なお、方角の指示も、これによっていた(丑寅・鬼門、巽=辰巳等)。
----
四 常識的なことを上で長々と書いたかもしれないが、要するに、つぎのようなことだ。
<平均律>というだけならば、非現実的な<53平均律>でなくとも、<10平均律>でも<13平均律>でも、<15平均律>でもよいはずだ。
1オクターブ内の異なる高さの15-16音くらいまでは、通常の人間の聴感覚で区別できるのではないかと思われる。
なぜ<十二平均律>になったのかが、疑問とされなければならない。
直接の背景・根拠だと考えられるのは、純正律でも、その前のピタゴラス音律でも、<1オクターブ12音>が採用されていた、ということだ。このような歴史的背景がある、ということだ。
この意味で、ピタゴラス音律が「音楽」の世界に与えた影響はきわめて大きかったと思われる。
そして、そこでの「12音」の採用には、「12」という数字の一般的な重要性も影響した、と考えられる。
—-
なお、念のために書いておく。ピタゴラス音律と<十二平均律>は、<1オクターブは異なる高さの12音で構成される>という点では同じだ。しかし、一定の最初の音(基音)以外の11の音の高さ(周波数)は全て、同じではない。1オクターブの中に12の音があることに変わりはないので、ある程度は似たような高さの音が設定されるとしても。
----
五 欧米で<十二平均律>がすでに支配的になっていた時代に、日本は「西洋音楽」を輸入した。「文明開花」の時代、「西洋文明の継受」の時代だ。この時代には、今日に言う戦前・戦後の間以上の大きな変化があったと思われる。
音楽の世界では、音楽大学等を通じて、おそらくドイツ(・オーストリア)の「音楽理論」が急いで直輸入された。三Bの最後のブラームスでも、1833年〜1897年没。モーツァルトは、1756年生〜1791年没。シューベルトは、1797年〜1828年没。
(余計ながら、「完全五度」・「完全四度」、「長三度」・「短三度」等の術語や<十二平均律>を主体にしてピタゴラス音律や純正律等との差異を「セント」という単位を使って説明するという方法は、現在の「専門」音楽教育でも依然として使われているようだ。いいかげんに改めた方がよいと素人の私には感じられるものがある)。
----
そうだとすると、「西洋音楽」の背景にあったかもしれない教会音楽、宗教音楽、そしてキリスト教という宗教の影響を、日本が受けても不思議ではなかった。だが、日本は「表面」または「形式」・「様式」だけを導入した。あるいは「魂」ではなく「技術」だけをすみやかに継受した。
ところで、「君が代」は古歌・古謡とされ、明治期以前にすでに各地方に「民謡」があったに違いない。だが、日本独自の音階「論」があったわけではなさそうなのは不思議なことだ。仏教寺院での声明(しょうみょう)という経の唱え方は一種の旋律で、楽譜にあたるものもある、とも言えそうだが、仏教界以外の音楽一般へと発展はしなかったようだ。
むしろ、実際にそうであるように、「君が代」も各種「民謡」も、おそらく「西洋音楽」を前提とした楽譜(高低二種の五線譜)で表現され得るものであることが、「西洋音楽」の広さ・深さを感じさせる(琉球民謡もアラビア風旋律も同じ)。楽譜に写され得ないとすれば、いわゆる半音の4分の1、8分の1程度の微細な高さの違いがあるのだろう。
楽譜化できる日本音階(和音階)での長調と短調という話題に発展させることができなくもないが、立ち入らない(「君が代」はレミソラドレ(上昇時)という音階による)。
----
六 12(13)音のうち主要なのは、ピアノでは白鍵で叩かれる、C=ドとしてのドレミファソラシ(ド)という7(8)音だ。あるいは、イロハニホヘト、ABCDEFGの7音。「幹音」とも称される。
これら以外はなぜ、♯(嬰)や♭(変)付きで表現されるのだろうか。この疑問とほぼ同じ意味であるのも不思議、あるいは興味深いが、ピアノ・オルガン類でこれらだけが白鍵で、その他は黒鍵で弾かれるのは、いったいなぜだろうか。
この問題についても、素人的な想定・仮説を持っている。やはりピタゴラス音律の生成過程に関係する。別に記してみる。
——