Bernice Glatzer Rosenthal, New Myth, New World -From Nietzsche to Stalinism(2002).
/B. G. ローゼンタール・新しい神話·新しい世界—ニーチェからスターリン主義へ(2002年)。
一部の試訳のつづき。p.173〜。
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第三編/新経済政策(NEP) の時期のニーチェ思想—1921-1927。
序
第一節。
(01) 新経済政策(NEP)のもとで、政府は「管制高地」(大工場と工場群、信用、外国通商)を支配したが、農民たちは納税後の余剰を売ることができた。私的な取引も許容された。
1927年の末までに、生産はほとんどの分野で1913年の水準を回復した。
しかしながら、労働者たちの生活は、ひどく悪い状態のままだった。農民たちの穀物を売ろうという意欲は売って得られる対価に左右され、消費用製品の価格とも関係があった。//
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(02) 1921年の夏、レーニンの健康が悪くなり始めた。
彼は、1924年1月24日に死亡した。
レーニンの4回めの発作のあとの1923年3月に、後継者争いが始まっていた。レーニンは、無能となって取り残された。
スターリンは、トロツキーを孤立させるために、Grigory Zinoviev(Radomysky, 1883-1936)およびLev Kamenev(Rozenfeld, 1883-1936)と同盟した。
1924年半ばに、スターリンは方針を変えて、Bukharin、Aleksei Rykov(1881-1938)およびMikhail Tomsky(1880-1936)と手を組んだ。
スターリンとブハーリンは、1924年から1928年まで、共同支配者だった。
第5回党大会(1927年2月)で、スターリンは政治局の全権を握り、トロツキーは党を除名され、スターリンはNEPに逆行し始めた。
レーニンが生きていたならばNEP はどのくらい長く継続したか、を判断するのは不可能だ。この問題についてのレーニンの言明は、矛盾を孕んでいた。//
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(03) NEP の時期は、それ以前やそれ以降と比較してのみ、リベラル(liberal)だった。
私的な活字出版業や劇場が始まった(または再開した)。
検閲は緩和されたが、消滅はしなかった。ニーチェのものを含む危険な書物は、1920年に始まる人民図書館から排除されていた。
党のAgitprop(煽動と宣伝)部門は、膨らんだ。
チェカはGPU に替わった。そして、エスエルの指導者たちや「協力者たち」の見せしめ裁判が、1922年に繰り広げられた。
Ivanov-Razumnik は、被告人の一人だった。
その頃までに、拡大した文化機構が出現した。これには、「文化に関する党員起業家」(Christopher Read の用語)、文学や芸術を高く評価しているとしても元来の忠誠心は革命に向けられていた者たち、が配属された。
彼らの任務は、大衆の意識を鋳造(mold)することだった。//
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第二節へとつづく。
/B. G. ローゼンタール・新しい神話·新しい世界—ニーチェからスターリン主義へ(2002年)。
一部の試訳のつづき。p.173〜。
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第三編/新経済政策(NEP) の時期のニーチェ思想—1921-1927。
序
第一節。
(01) 新経済政策(NEP)のもとで、政府は「管制高地」(大工場と工場群、信用、外国通商)を支配したが、農民たちは納税後の余剰を売ることができた。私的な取引も許容された。
1927年の末までに、生産はほとんどの分野で1913年の水準を回復した。
しかしながら、労働者たちの生活は、ひどく悪い状態のままだった。農民たちの穀物を売ろうという意欲は売って得られる対価に左右され、消費用製品の価格とも関係があった。//
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(02) 1921年の夏、レーニンの健康が悪くなり始めた。
彼は、1924年1月24日に死亡した。
レーニンの4回めの発作のあとの1923年3月に、後継者争いが始まっていた。レーニンは、無能となって取り残された。
スターリンは、トロツキーを孤立させるために、Grigory Zinoviev(Radomysky, 1883-1936)およびLev Kamenev(Rozenfeld, 1883-1936)と同盟した。
1924年半ばに、スターリンは方針を変えて、Bukharin、Aleksei Rykov(1881-1938)およびMikhail Tomsky(1880-1936)と手を組んだ。
スターリンとブハーリンは、1924年から1928年まで、共同支配者だった。
第5回党大会(1927年2月)で、スターリンは政治局の全権を握り、トロツキーは党を除名され、スターリンはNEPに逆行し始めた。
レーニンが生きていたならばNEP はどのくらい長く継続したか、を判断するのは不可能だ。この問題についてのレーニンの言明は、矛盾を孕んでいた。//
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(03) NEP の時期は、それ以前やそれ以降と比較してのみ、リベラル(liberal)だった。
私的な活字出版業や劇場が始まった(または再開した)。
検閲は緩和されたが、消滅はしなかった。ニーチェのものを含む危険な書物は、1920年に始まる人民図書館から排除されていた。
党のAgitprop(煽動と宣伝)部門は、膨らんだ。
チェカはGPU に替わった。そして、エスエルの指導者たちや「協力者たち」の見せしめ裁判が、1922年に繰り広げられた。
Ivanov-Razumnik は、被告人の一人だった。
その頃までに、拡大した文化機構が出現した。これには、「文化に関する党員起業家」(Christopher Read の用語)、文学や芸術を高く評価しているとしても元来の忠誠心は革命に向けられていた者たち、が配属された。
彼らの任務は、大衆の意識を鋳造(mold)することだった。//
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第二節へとつづく。