Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
結章・ロシア革命に関する省察。試訳のつづき。
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第七節・革命の人的犠牲(human cost)。
(01) 革命はロシアに、途方もない人的損失を負わせた。
統計資料はきわめて衝撃的で、疑問を生じさせるほどだ。
しかし、誰かが別の数字を示すことができないかぎり、歴史家はそれを受け容れざるを得ない。共産主義者と非共産主義者の人口統計学者たちが似たような数字を提示しているので、いっそうそうなる。//
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(02) 以下の表は、1926年の国境内部でのソヴィエト同盟の人口を示している(単位は100万人)。
1917年秋/147.6
1920年初/140.6
1920年初/136.8
1922年初/134.9 (注19)
人口の減少—1270万人—の原因は、まず、戦闘と感染症による死亡だった(それぞれ約200万人)。また、脱出(約200万人)。そして、飢饉(500万人以上)。//
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(03) しかし、これらの数字は物語の半分しか伝えていない。通常の条件のもとでは、人口は静止したままではなく、明らかに増加するだろうからだ。
ロシアの統計学者の推算が示すのは、1922年に人口は1億3500万ではなく、1億6000万以上を数えたはずだった、ということだ。
この数字を考慮するならば、脱国者(エミグレ)の数を除いても、ロシアでの革命の人的犠牲者は—現実のそれと出生の減少とで—、2300万人以上に達する。(*) これは、第一次世界大戦の全交戦諸国が被った戦死者数の二倍半で、当時のスカンジナヴィア4カ国にオランダを合わせた人口数にほぼ匹敵する。
現実の死亡者は16歳〜49歳の年代集団で最も多く、とくにその世代の男性に多い。彼らのうちの29パーセントが、1920年8月までに死んだ。つまり、飢饉が起きる前に。(20)//
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(04) このような前例のない厄災を、平静に見ることができるか? 平然と見なければならないのか?。
我々の時代の科学の威厳はきわめて高いので、少なからぬ学者たちは、調査に関する科学的方法とともに、道徳的かつ情緒的な冷静さという科学者の習慣を、別言すれば全ての現象を「自然な」ものと、ゆえに倫理的に中立的なものと見る習癖を、身につけてきた。
彼らは、歴史的事象に人間の意欲を入り込ませるのを嫌う。自由な意思は予測できないので、科学的分析に馴染まないからだ。
歴史的「不可避性」は、彼らには科学者にとっての自然の法則なのだ。
しかし、科学の対象と歴史学の対象は大きく異なることがこれまでに知られてきた。
我々は正当に、医師による病気の診断や、冷静で感情を交えない治療方法の提示を期待する。
会社の財務状況を分析する会計士、設備の安全性を検査する技師、敵国の能力を評価する情報将校は明らかに、感情に左右されないままでいなければならない。
その理由は、彼らの調査の目的は適切な決定に到達するのを可能にすることにあるからだ。
しかし、歴史家にとっては、決定は他者によってすでになされており、冷静さがあっても理解に何も付け加えはしない。
実際には、理解を妨げる。なぜなら、熱情の火の中で生み出された事象を、どうやって熱情なくして理解することができるのか?
「Historiam puto scribendam esse et cum ira et cum studio」—「私は、歴史は怒りと熱狂でもって書かれるべきだ、と主張する」と、ある19世紀のドイツの歴史家は述べた。
全ての問題について中庸を説いたアリストテレスは、「怒りを欠くこと」が受容し難い状況がある、と書いた。「怒るべき事物に対して怒らない者たちは、馬鹿だと見なされるからだ」。(注21)
関連性のある事実を集めることは、たしかに、冷静に、怒りや狂熱なくして、行なわれなければならない。歴史家の仕事のこの側面は、科学者のそれと異なるところはない。
しかし、これは、歴史家の任務の始まりにすぎない。なぜなら、これらの事実を分類すること自体が—どれが「関連性がある」かに関する決定なのだから—、判断を必要とし、そしてこの判断は、価値に依存する。
事実それ自体には、意味がない。事実を選択する指針を与えはしないし、命令しもしない。そして、強調すれば、過去の「意味を理解する」ためには、歴史家は何らかの原理的考え方に従わなければならない。
歴史家は通常は、原理的考え方を持っている。意識していようといまいと、最も「科学的な」歴史家ですら、諸前提を置いて仕事をしている。
総じて言えば、この諸前提は、経済的決定論に根ざしている。経済的、社会的な基礎資料は、統計学的な論証を導き、この論証は公平さという幻想を生むからだ。
歴史的事象に関する判断を経るのを拒絶することも、道徳的諸価値にもとづく。すなわち、起きることは全て自然であり、ゆえに正しい(right)という暗黙の前提に立っている。これは、たまたま勝利を獲得した者たちを弁明することにつながる。//
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後注。
(19) Iu. A. Poliakov, Sovetskaia strana posle okonchaniia grazhdanskoi voiny (1986), p.94.
(20) S. G. Strumilin, Problemy ekonomiki truda (1957), p.39.
(21) Aristotle, Nicomachaean Ethics, IV, p.5.
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第七節、終わり。つづく。
結章・ロシア革命に関する省察。試訳のつづき。
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第七節・革命の人的犠牲(human cost)。
(01) 革命はロシアに、途方もない人的損失を負わせた。
統計資料はきわめて衝撃的で、疑問を生じさせるほどだ。
しかし、誰かが別の数字を示すことができないかぎり、歴史家はそれを受け容れざるを得ない。共産主義者と非共産主義者の人口統計学者たちが似たような数字を提示しているので、いっそうそうなる。//
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(02) 以下の表は、1926年の国境内部でのソヴィエト同盟の人口を示している(単位は100万人)。
1917年秋/147.6
1920年初/140.6
1920年初/136.8
1922年初/134.9 (注19)
人口の減少—1270万人—の原因は、まず、戦闘と感染症による死亡だった(それぞれ約200万人)。また、脱出(約200万人)。そして、飢饉(500万人以上)。//
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(03) しかし、これらの数字は物語の半分しか伝えていない。通常の条件のもとでは、人口は静止したままではなく、明らかに増加するだろうからだ。
ロシアの統計学者の推算が示すのは、1922年に人口は1億3500万ではなく、1億6000万以上を数えたはずだった、ということだ。
この数字を考慮するならば、脱国者(エミグレ)の数を除いても、ロシアでの革命の人的犠牲者は—現実のそれと出生の減少とで—、2300万人以上に達する。(*) これは、第一次世界大戦の全交戦諸国が被った戦死者数の二倍半で、当時のスカンジナヴィア4カ国にオランダを合わせた人口数にほぼ匹敵する。
現実の死亡者は16歳〜49歳の年代集団で最も多く、とくにその世代の男性に多い。彼らのうちの29パーセントが、1920年8月までに死んだ。つまり、飢饉が起きる前に。(20)//
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(04) このような前例のない厄災を、平静に見ることができるか? 平然と見なければならないのか?。
我々の時代の科学の威厳はきわめて高いので、少なからぬ学者たちは、調査に関する科学的方法とともに、道徳的かつ情緒的な冷静さという科学者の習慣を、別言すれば全ての現象を「自然な」ものと、ゆえに倫理的に中立的なものと見る習癖を、身につけてきた。
彼らは、歴史的事象に人間の意欲を入り込ませるのを嫌う。自由な意思は予測できないので、科学的分析に馴染まないからだ。
歴史的「不可避性」は、彼らには科学者にとっての自然の法則なのだ。
しかし、科学の対象と歴史学の対象は大きく異なることがこれまでに知られてきた。
我々は正当に、医師による病気の診断や、冷静で感情を交えない治療方法の提示を期待する。
会社の財務状況を分析する会計士、設備の安全性を検査する技師、敵国の能力を評価する情報将校は明らかに、感情に左右されないままでいなければならない。
その理由は、彼らの調査の目的は適切な決定に到達するのを可能にすることにあるからだ。
しかし、歴史家にとっては、決定は他者によってすでになされており、冷静さがあっても理解に何も付け加えはしない。
実際には、理解を妨げる。なぜなら、熱情の火の中で生み出された事象を、どうやって熱情なくして理解することができるのか?
「Historiam puto scribendam esse et cum ira et cum studio」—「私は、歴史は怒りと熱狂でもって書かれるべきだ、と主張する」と、ある19世紀のドイツの歴史家は述べた。
全ての問題について中庸を説いたアリストテレスは、「怒りを欠くこと」が受容し難い状況がある、と書いた。「怒るべき事物に対して怒らない者たちは、馬鹿だと見なされるからだ」。(注21)
関連性のある事実を集めることは、たしかに、冷静に、怒りや狂熱なくして、行なわれなければならない。歴史家の仕事のこの側面は、科学者のそれと異なるところはない。
しかし、これは、歴史家の任務の始まりにすぎない。なぜなら、これらの事実を分類すること自体が—どれが「関連性がある」かに関する決定なのだから—、判断を必要とし、そしてこの判断は、価値に依存する。
事実それ自体には、意味がない。事実を選択する指針を与えはしないし、命令しもしない。そして、強調すれば、過去の「意味を理解する」ためには、歴史家は何らかの原理的考え方に従わなければならない。
歴史家は通常は、原理的考え方を持っている。意識していようといまいと、最も「科学的な」歴史家ですら、諸前提を置いて仕事をしている。
総じて言えば、この諸前提は、経済的決定論に根ざしている。経済的、社会的な基礎資料は、統計学的な論証を導き、この論証は公平さという幻想を生むからだ。
歴史的事象に関する判断を経るのを拒絶することも、道徳的諸価値にもとづく。すなわち、起きることは全て自然であり、ゆえに正しい(right)という暗黙の前提に立っている。これは、たまたま勝利を獲得した者たちを弁明することにつながる。//
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後注。
(19) Iu. A. Poliakov, Sovetskaia strana posle okonchaniia grazhdanskoi voiny (1986), p.94.
(20) S. G. Strumilin, Problemy ekonomiki truda (1957), p.39.
(21) Aristotle, Nicomachaean Ethics, IV, p.5.
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第七節、終わり。つづく。