Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 結章・ロシア革命に関する省察。試訳のつづき。原書、p.493〜。
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 第一節・革命の原因②。
 (08) 農奴制の伝統と農村ロシアの社会制度—共有の家族資産とほとんど一般的な共同体による土地保有の制度—は、農民層が近代的市民性のために必要な性質を発展させるのを妨げた。
 農奴制は奴隷制ではなかったけれども、農奴は奴隷と同じく法的権利をもたず、ゆえに法の感覚がなかった点では共通していた。
 ロシアの指導的な古典的古代の歴史家で1917年の目撃者だったMichael Rostovtseff は、こう結論づけた。農奴制は、自由を全く知らず、そのことで農奴が真の市民たる性質を獲得するのが妨げられたという点では、奴隷制よりも悪かった、と。彼の見解では、これは、ボルシェヴィズムの主要な教条だった。(注4)
 農奴にとっては、権威とはまさにその性質からして恣意的だ。そして、それから自衛するために彼らは、法的権利や道徳上の権利への訴えに頼らないで、策略に依拠した。
 彼らは、原理にもとづいて政府を理解することができなかった。彼らにとっての生活は、ホッブズの全てに対する全ての者の戦いだった。
 このような姿勢は、専制主義(despotism)を助長した。内的な紀律と法への敬意が不在であれば、外部から課されるべき秩序が必要になるからだ。
 専制主義が作動するのを止めたとき、無政府状態が発生した。
 そして、いったん無政府主義が行路を進み始めるや、それは不可避的に、新しい専制主義を生み出すことになった。//
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 (09) 農民層は、ある一点でのみ、革命的だった。すなわち、農民層は、土地の私的所有を承認しなかった。
 彼らは革命の前夜に国の耕作地の10分の9を保有していたけれども、地主、商人、共同体に属さない農民がもつ残りの10パーセントを強く欲しがった。
 経済的な議論も法的なそれも、彼らの意思を変えなかった。彼らは、その土地に対して神から付与された権利をもつ、いつかは自分たちのものになる、と感じていた。
 そして、自分たちという言葉で意味させたのは、構成員に公正に土地を分与する共同体だった。
 ヨーロッパ・ロシアで共同体による土地保有が優勢だったのは、農奴制の遺産であるとともに、ロシア社会の歴史の基礎的な事実だった。
 これが意味したのは、法の感覚が微小にしか育たなかったことのほか、農民もまた個人的な私的財産をほとんど尊重しない、ということだった。
 急進的知識人たちは、農民層を現状に対抗させようとする彼らの目的のために、こうした傾向をいずれも利用した。(*)//
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 (脚注*) 1880年代に革命家の経歴を開始し、レーニンの独裁を目撃したVera Zasulich は、1918年に、ボルシェヴィズムを支持する社会主義者の責任は財産を奪おうと労働者—農民層をこれに加えることができよう—を扇動したが、市民の義務については何も教えなかったことにある、ということを承認した。NV, No. 74/98 (1918.4.16), p.3.
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 (10) ロシアの工業労働者たちが潜在的に不安定だったのは、革命的イデオロギーを吸収したがゆえにではなかった。—そうしたのは彼らのうちごく少数で、その者たちですら革命的諸政党の指導的地位からは排除された。
 そうではなく、彼らのほとんどは一世代前に、またはせいぜい二世代前に、農村から移り住み、表面的にだけ都市化していたので、彼らは工場へと農村的態度を持ち込み、ごく僅かにだけ工業の環境に適応していたからだ。
 彼らは社会主義者でななく、サンディカリスト(syndicalist)だった。彼らの村落が全ての土地について権利を与えられたように、彼らも工場について権利がある、と考えた。
 彼らが政治に関心をもったのは、農民層と同じような程度でだった。この意味でも、彼らは、原始的な、イデオロギー性のない無政府主義の影響下にあった。
 さらに、ロシアの工業労働者は、数の上で取るに足らず、革命で大きな役割を果たさなかった。せいぜい300万人の労働者では(彼らの多くは季節雇用の農民でもあった)、全国民の僅か2パーセントを代表しているにすぎなかった。
 教授たちに指導された大学卒業生の多数は、西側、とくにアメリカ合衆国でと同様にロシアでも、革命以前のロシアの労働者に急進主義の証拠があったことを探し出そうとして、せっせと歴史的資料を調べた。
 その結果として学術書ができたが、ほとんどが無意味な出来事や統計資料で充たされた。そして、歴史はつねに興味深いが、歴史書は空虚でも退屈でもあり得るということを、あらためて証明した。//
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 (11) 革命が起きた主要で、議論の余地はあるが決定的な要因は、知識人層(the intelligentsia)だった。ロシアの知識人たちは、他のどこよりも大きな影響力をもっていた。
 帝制時代の公務員の独特な「階位」制度は外部者を管理部門から排除した。最高の教育を受けた者を遠ざけ、西ヨーロッパでは構想されたが実行されなかった、社会改革のための空想的計画を、その者たちが受け入れやすいようにした。  
 代表的〔準議会〕制度と自由なプレスが1906年までなかったことで、教育の普及と結びついて、文化的エリートにはもの言わぬ民衆に代わって発言する権利がある、という主張をすることが可能になった。
 知識人が「大衆」の意見を実際に反映していた、とする証拠資料は存在していない。反対に、証拠が示しているのは、革命の前も後も、農民と労働者たちは知識人に対して強い不信の念をもっていた、ということだ。
 このことは、1917年とそれに続く数年で明確になった。 
 しかし、民衆の本当の意思はそれを表現する回路がなかったので、ともかくも1906年に短命の立憲的秩序が導入されるまでは、知識人たちは民衆の代弁者であるとの虚像を作ることができた。//
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 (12) 政治機構を正当化するものが存在しない他諸国のように、ロシアの知識人は自分たちで一つの階層を構成した。そして、思想が彼らに一体性と団結を与えたので、彼らは、極端な知的偏狭さを身に付けた。
 人間は環境により塑形される物質的実在にすぎないという、またその帰結として環境の変化は不可避的に人間の本性を変化させるという、啓蒙主義の考え方を採用して、知識人たちは、「革命」はある政府を別の政府に変えることではなく、比較にならないほどに大がかりなものだ、と見た。人間の新しい種を生み出すという目的をもつ、人間の環境の全体的な大変造なのだ。—むろんロシアでのことだが、他のどこでも同じだ。
 現状の不公平さを強調するのは、民衆の支持を獲得する手段にすぎなかった。こうした不公平さをどんなに是正しても、急進的な知識人たちはその革命的熱意の放棄を説得されなかっただろう。
 このような信念は、多様な左翼党派を結合させた。アナキスト、社会主義革命家〔エスエル〕、メンシェヴィキ、そしてボルシェヴィキ。 
 科学的用語を使っても、彼らの見解は矛盾する根拠に気づいておらず、そのゆえに宗教的信仰にきわめて近いものだった。//
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 (13) 知識人層は、我々は権力を渇望する知識人と形容したのだが、既存の秩序に全的かつ非妥協的に敵対した。
 自殺をするなら別として、ツァーリ体制が行うことができたもので、彼らを満足させるものは一つもなかっただろう。
 彼らは、民衆の条件を改良するためにではなく、民衆への支配を獲得して、民衆を自分たちのイメージに作り変えるために革命家になった。
 だが、帝制に立ち向かったにせよ、のちにレーニンが持ち込んだような手段を使う以外には、挑戦し、攻撃する方法をもっていなかった。
 諸改革は、1860年代のであれ1905-6年のであれ、急進派の欲求を強めただけで、革命的な過度の行動へといっそう彼らを刺激した。//
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 (14) 農民の要求に苦しめられ、急進的知識人層から直接の攻撃を享けて、崩壊を避けるためには帝制には一つの手段しかなかった。それは、社会の保守的要素と権力を分有し、権威の基盤を拡張することだった。
 歴史の先例が示すのは、成功した民主政体はもともとは権力分有を上位階層に限っていた、それがやがてその他の国民の圧力を受けるに至り、その結果として上位階層の特権がふつうの権利になった、ということだ。 
 数の上では急進派よりもはるかに多い保守層を巻き込むことは、政策決定と行政の両面で、政府と社会の間に有機的紐帯のようなものを作り出すだろう。そして、大変動の事態のときには帝制への支持を保障し、同時に、急進派を孤立させるだろう。
 帝制に対して、このような行路の選択が、何人かの先見の明のある官僚や私人から強く勧められた。
 大改革のあった、1860年代にこれが採用されるべきだっただろう。だが現実には、そうされなかった。
 ついに1905年に、民衆全体に広がる反乱によって議会制の導入を余儀なくされたとき、君主制の側はもうこの選択肢を利用しなかった。合同したリベラル派と急進派の反対勢力が、民主主義的参政権に近いものを認めるよう強いたからだ。
 この結果として、議会(ドゥーマ、Duma)での保守派は、戦闘的な知識人と無政府主義の農民に覆い隠されてしまった。//
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 (15) 第一次世界大戦は全ての交戦諸国に甚大な負担を課した。その負担は、愛国主義の名のもとでの政府と市民層の緊密な協力によってのみ克服することができた。
 ロシアでは、このような協力関係は一度も実体化されなかった。
 軍事的失敗によって元々の愛国的熱狂が消散し、国が消耗戦争を遂行しなければならなくなったとき、ツァーリ体制は民衆の支持を動員することができないことを知った。
 崇敬者ですら、それの挫折の時点で君主制は漂浪していることに同意した。//
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 (16) 政治権力を支持者たちと分有するのをツァーリ体制は拒否し、そしてそれを強いられたときには不承々々かつ欺瞞的にそうした。その動機は、複雑だった。
 心の奥底で王室、官僚機構、職業的将校たちに浸透していたのは、ロシアはツァーリの私的領有物だと見る因習的考え方だった。
 18-19世紀のモスクワ公国の推移の中で伝統的制度は次第に廃止されていったけれども、精神性は生き残った。
 そして、官僚層のみならず、農民層もまた伝来的な語句でもって思考して、強くて不可分の権威の存在を信じ、土地は帝制の財産だと見なした。
 ニコライ二世は、その継承者として専制を維持することを当然視した。無制限の権威は彼にとって受託した権能であって、弱める権利があるはずのない財産権と同等のものだった。
 彼は、皇位を守るために1905年に国民が選出した議員たちと権威を分かち合うのを同意したことについて、罪の感覚を拭い去ることができなかった。//
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 (17) ツァーリとその補佐者たちはまた、社会の少数部分とすら権限を分有するのは官僚制機構を混乱させ、民衆がさらなる参加を要求することになるだろうと怖れた。
 上の後者の場合、主要な受益者は、ツァーリとその補佐者たちが全くの無能だと考えている知識人層になるだろう。
 加えて、このような譲歩を農民たちが誤解して、暴動に進むという懸念もあった。
 また最後に、ツァーリに対してのみ責任を負い、その裁量によって国の行政を行ない、そこから多数の利益を得ている官僚機構が改革に反対している、ということもあった。//
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 (18) このような要因は君主の側が政府への発言権を保守派に付与することを拒んだことの説明にはなるが、正当化はしない。それが直面した問題の多様さや複雑さによって、いずれにせよ官僚機構が多くの効果的な権限を奪われたとしても、そうだ。 
 19世紀の後半に資本主義的諸制度が出現して、国の資源の統制権の多くは私人の手に移った。これは、家父長的財産制の残余を破壊した。//
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 (19) 要するに、帝制の崩壊は不可避ではなかったが、それは、ツァーリ体制が国の経済的文化的成長に適応するのを妨げた文化的および政治的欠陥が、そして第一次大戦により生まれた圧力のもとでは致命的な欠陥が、根深いところにあったことによる、と言えそうだ。
 このような適応の可能性が存在したとしても、政府を転覆させてロシアを世界革命の跳躍台として用いようと決意する戦闘的知識人層の活動によって、挫折しただろう。 
 ツァーリ体制の崩壊の原因となったのはこうした性格の文化的、政治的欠陥だったのであり、「抑圧」や「窮乏」ではなかった。
 我々はここで、原因はこの国の過去に遠く遡る民族的悲劇を論述している。
 経済的、社会的苦難は、1917年以前にあった革命の脅威に大きく寄与したのではなかった。
 「大衆」が—現実的にであれ夢想的にであれ—どのような不満を抱いていても、彼らは革命を必要としなかったし、革命を望みもしなかった。
 革命に関心を寄せた唯一のグループは、知識人層だった。
 言うところの民衆の不満や階級の対立の強調は、現実にある事実にではなく、イデオロギー上の先入観に由来した。すなわち、政治的進展はつねにかつどこでも社会経済的対立によって駆り立てられている、それは現実に人間の運命を動かしている潮流の表面にある「水泡」にすぎない、という信用の措けないないイデオロギーにだ。//
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 後注
 (04) Michael Rostovtseff in NV, No. 109/133 (1918.7.5), p.2.
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 結章・第一節、終わり