Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
結章・ロシア革命に関する省察。
この最後の章はこの欄に試訳を全て掲載したと思っていたが、間違いで、掲載済みは<第六節・レーニニズムとスターリニズム>だけだった。
→2018/11/08(1490再掲)、→2017/04/09(1490・日本共産党の大ウソ33)。
最初の第一節から試訳を掲載する。第六節も含める。「結章」という趣旨の言葉は使われていない。
——
結章/ロシア革命に関する省察。
第一節・革命の原因①。
(01) 1917年のロシア革命は一つの事件ではなく、一つの過程ですらなかった。そうではなく、多かれ少なかれ同時期に起きた、だが異なる、ある程度は矛盾する目標をもつ関係行動者たちを巻き込んだ、一続きの破壊的で暴力的な行動だった。
ロシア革命は、ロシア社会の最も保守的な要素の反乱として始まった。その保守的要素は、王室のRasputinとの親交関係や戦争遂行の不手際にうんざりしていた。
反乱は、保守派から、君主制が残れば革命が不可避になるという怖れから君主制に反対していたリベラル派へと、広がった。
君主制に対する攻撃は、もともとは、広く信じられているように厭戦気分からでななく、戦争をより効果的に遂行させようという望みから、行なわれた。革命を起こすためではなく、革命を防ぐためだった。
1917年2月、ペテログラード守備連隊が群衆市民に発砲するのを拒んだとき、将軍たちは、議会〔または準議会)の政治家たちの同意を得て、騒乱が前線にまで波及するのを阻止しようと、皇帝ニコライ二世に退位を承服させた。
軍事的な勝利のために行なわれた退位は、ロシアが国家であることを示す殿堂全体を引き倒した。//
----
(02) 元来は社会的不満分子も急進的知識人たちもこうした出来事に重要な役割を何ら果たさなかったけれども、いずれも、今まであった帝制の権威が崩壊する最前部へと移っていた。
1917年の春と夏、農民たちは共同体に属さない資産の奪取と自分たちへの配分を始めた。
次に、反乱は前線の兵団へと広がり、彼らは戦利品の分け前を奪い合って脱走した。また、工業企業体の指揮権を握った労働者へと、自治の拡大を望む民族少数派へと広がった。
各グループは、それぞれの目標を追求した。しかし、国の社会的経済的構造に対する攻撃が積み重なることによって、1917年の秋までに、ロシアにアナーキー(無政府)の状態が生まれた。//
----
(03) 1917年の諸事件が明らかにしたのは、広大な領域と強い権力があるにもかかわらず、ロシア帝国は脆弱な人為的構造物であり、支配者と被支配者を結びつける有機的紐帯によってではなく、官僚制、警察および軍隊が提供する機械的な連結関係によって一つにまとまっている、ということだった。
ロシアの1億5000万の住民は、強い経済的利害によっても、民族的一体性(national identity)によっても、結びついていなかった。
大部分は自然経済である国の数世紀にわたる専制的支配は、強い水平的紐帯が形成されるのを妨げた。帝国ロシアは、ほとんど布地のない縦糸だった。
このことを、ロシアの指導的な歴史家であり政治家であるPaul Miliukov は、当時に指摘していた。
「ロシア革命の特殊な性格を理解するためには、我々自身がロシアの歴史の全過程を通じて形成した特有の性質に、注意を向けなければならない。
私には、これら全ての特質は一つに収斂している、と思える。
ロシアの社会構造を他の文明諸国のそれと区分けする根本的差異は、社会を構成する諸要素の強い結合または接合の弱さまたは欠如だ。
ロシアの社会集団の統合の欠如は、文化生活の全ての諸側面に観察することができる。政治的、社会的、心理的、そして民族的諸側面。/
政治的観点からは、ロシアの国家制度はそれが支配している民衆一般との結合と融合を欠いていた。…
こうした様相の帰結として、東ヨーロッパの国家制度は、不可避的に西側のそれとは異なる一定の形態を採用した。
東側の国家には、有機的な進化の過程を経て内部から発生する時間的余裕がなかった。
それは、外部から東ヨーロッパへともたらされたのだ。」(注1)/
こうした要因を考慮すると、革命はつねに社会的(「階級的」)不満から生じる、というマルクス主義の考え方を支持することはできない、ということが明確になる。
どこでもそうであるように、そのような不満は帝国ロシアにも存在した。しかし、体制の崩壊とその結果としての混乱を生み出した決定的で直接的な要因は、圧倒的に政治的なものだった。//
----
(04) 革命は不可避だったか?
何事も全て起きるべくして起きる、と考えるのは自然だ。そして、この幼稚な信念を似非科学的な論拠でもって合理化する、そのような歴史家がいる。過去を予言すると主張するがごとくに適確に未来を予言できるならば、そのような者はいっそう確信をもつだろう。
お馴染みの法的格言を言い換えると、心理学的には、起きたこと自体が歴史的正当化の十分の九を提供する、と語り得るかもしれない。
E・バーク(Edmund Burke) は、フランス革命を疑問視したことで、狂人だと当時は広く見なされた。70年のちにも、Matthew Arnord によると、バークの考え方はなおも「時代遅れで、ゆえに事象によって克服される」と考えられていた。—歴史的事象に関するこのような合理性への、そのゆえに不可避性への信仰は、きわめて根深い。
歴史的事象が壮大で重要であればあるほど、それだけ、その帰結は疑問視するのが不可能な事物の自然な秩序の一部であるように、ますます思えてくる。//
----
(05) 最も語り得ることは、ロシアでの革命の蓋然性はなかった、といよりもあった、ということだ。これにはいくつかの理由がある。
もちろん、おそらく最も重要なのは、不可侵の権威によって支配されることに慣れていた—まさに、この不可侵性のうちに正統性の標識を見ていた—民衆から見て、帝制の威厳が着実に衰退していたことだった。
軍事的勝利と拡張の一世紀半のち、19世紀半ばから1917年まで、ロシアは、連続する屈辱を外国によって経験してきた。自分の領域内での敗北であるクリミア戦争、トルコに対する勝利の戦果のベルリン会議での喪失、日本との戦争での大失敗、そして、第一次大戦でのドイツへの大敗。(注2)
このように連続して敗北すれば、どんな政府であっても評価を落とすだろう。ロシアでは、致命的だった。
ツァーリ体制の恥辱と同時期に併せて発生したのは革命運動で、過酷な弾圧に訴えたにもかかわらず、体制は鎮圧することができなかった。
社会と権力を分け合うという1905年の気乗り薄い譲歩によっては、ツァーリ体制は反対派の人気を博することもなく、民衆全体から見てその威厳を高めもしなかった。一般民衆は、支配者はどのようにして政府機構に関する公的議論の場で嘲弄されるがままに放っておけるのか、理解することができなかっただろう。
T'ienming、あるいは天命(Mandate of Heaven)という孔子の原理は、その元来の意味では道理ある行動をする支配者の権威と結びついているが、ロシアでは、力強い行動に由来した。弱い支配者、「敗北者」はそれを失うのだ。
ロシアの国家の主を道徳性や大衆性を基準にして判断することほど、誤解を招くものはないだろう。重要なのは、皇帝が味方や敵に恐怖を掻き立てることにあった。—イワン四世に似て、ニコライ二世は「畏怖すべき」との異名に値した。
ニコライ二世は、憎悪されたためではなく、軽蔑されたがゆえに退位した。//
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(06) 革命が起きた要因の中には、政治的構造に一度も統合されなかった、ロシアの農民層の心性(mentality)があった。
農民たちはロシア住民の80パーセントを占めた。
彼らは、消極的な性質で変化の邪魔者のごとく、国家の問題に関係する行動にほとんど積極的には関与しなかった。しかし、同時に現状(status quo)に対する永続的な脅威でもあり、きわめて不安定な要素だった。
ロシアの農民は旧体制のもとで「抑圧された」と言われるのは通例のことだが、いったい誰が彼らを抑圧していたのかはさっぱり明瞭でない。
農民たちは、革命の直前には、十分な市民的権利、法的権利を享有していた。完全にか共同体としてかのいずれかで、彼らは国の農地の10分の9と、同じ割合の家畜を所有していた。
西ヨーロッパやアメリカの標準からすると貧しかったが、父親の世代よりは豊かで、おそらくは農奴だった可能性が高い祖父の世代よりは自由だった。
農民たちは、仲間たちから割り当てられた分与農地を耕作しながら、アイルランド、スペインまたはイタリアの小作農民たちよりは、確実により大きな保障を享けていた。//
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(07) ロシアの農民に関する問題は、抑圧ではなく孤立だった。
彼らは国の政治的、経済的、文化的生活から隔絶しており、そのゆえに、ピョートル大帝がロシアの西欧化の路線を設定したとき以降の変化の影響を受けなかった。
当時の多数の者たちは、農民層はモスクワ公国時代の文化に浸ったままだ、と観察した。
彼らは文化的には、イギリスのアフリカ植民地の元々の住民たちがヴィクトリア朝の英国と共通性がある以上には、ロシアの支配エリートや知識人と共通性がなかった。
ロシアの農民の大部分は、農奴に出自があった。君主制が大地主と官僚層の気紛れに任せて以降、彼らは臣民ですらなかった。
結果として、農村の住民にとっては、解放の後でも、国家は税を徴収し兵を募るがその代わりには何もしない、異質で悪意のある実力体だった。
農民たちは、望んだ土地を受け取るのを期待した遠く離れたツァーリに対する漠然とした傾倒を除けば、愛国心を持たず、政府への執着もなかった。
農民たちは本能的に無政府主義的で、national な生活に統合されることはなく、急進的反対派からと同様に保守的権益層からも疎遠だった。
彼らは、都市や髭を生やしていない男たちを見下した。Marquis de Custine は、早くも1839年に、ロシアではいずれ髭のある者による剃った者に対する反乱が起きるだろう、ということを耳にした。(注3)
疎遠にされ、潜在的には爆発的なこの農民大衆の存在は、政府を動けなくした。政府は、農民たちは怖れるがゆえに従順だと考え、いかなる政治的譲歩も弱さと反逆だと解釈するようになった。//
----
後注。
(01) Paul Miliukov, Russia To-day and To-morrow (1922), p.8-9.
(02) この点につき、Willoam C. Fuller, Jr., Strategy and Power in Russia, 1600-1914 (1992) を見よ。
(03) Marquis[A. de]Custine. Russia (1984), p.455.
——
第一節①、終わり。②へと、つづく。
結章・ロシア革命に関する省察。
この最後の章はこの欄に試訳を全て掲載したと思っていたが、間違いで、掲載済みは<第六節・レーニニズムとスターリニズム>だけだった。
→2018/11/08(1490再掲)、→2017/04/09(1490・日本共産党の大ウソ33)。
最初の第一節から試訳を掲載する。第六節も含める。「結章」という趣旨の言葉は使われていない。
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結章/ロシア革命に関する省察。
第一節・革命の原因①。
(01) 1917年のロシア革命は一つの事件ではなく、一つの過程ですらなかった。そうではなく、多かれ少なかれ同時期に起きた、だが異なる、ある程度は矛盾する目標をもつ関係行動者たちを巻き込んだ、一続きの破壊的で暴力的な行動だった。
ロシア革命は、ロシア社会の最も保守的な要素の反乱として始まった。その保守的要素は、王室のRasputinとの親交関係や戦争遂行の不手際にうんざりしていた。
反乱は、保守派から、君主制が残れば革命が不可避になるという怖れから君主制に反対していたリベラル派へと、広がった。
君主制に対する攻撃は、もともとは、広く信じられているように厭戦気分からでななく、戦争をより効果的に遂行させようという望みから、行なわれた。革命を起こすためではなく、革命を防ぐためだった。
1917年2月、ペテログラード守備連隊が群衆市民に発砲するのを拒んだとき、将軍たちは、議会〔または準議会)の政治家たちの同意を得て、騒乱が前線にまで波及するのを阻止しようと、皇帝ニコライ二世に退位を承服させた。
軍事的な勝利のために行なわれた退位は、ロシアが国家であることを示す殿堂全体を引き倒した。//
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(02) 元来は社会的不満分子も急進的知識人たちもこうした出来事に重要な役割を何ら果たさなかったけれども、いずれも、今まであった帝制の権威が崩壊する最前部へと移っていた。
1917年の春と夏、農民たちは共同体に属さない資産の奪取と自分たちへの配分を始めた。
次に、反乱は前線の兵団へと広がり、彼らは戦利品の分け前を奪い合って脱走した。また、工業企業体の指揮権を握った労働者へと、自治の拡大を望む民族少数派へと広がった。
各グループは、それぞれの目標を追求した。しかし、国の社会的経済的構造に対する攻撃が積み重なることによって、1917年の秋までに、ロシアにアナーキー(無政府)の状態が生まれた。//
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(03) 1917年の諸事件が明らかにしたのは、広大な領域と強い権力があるにもかかわらず、ロシア帝国は脆弱な人為的構造物であり、支配者と被支配者を結びつける有機的紐帯によってではなく、官僚制、警察および軍隊が提供する機械的な連結関係によって一つにまとまっている、ということだった。
ロシアの1億5000万の住民は、強い経済的利害によっても、民族的一体性(national identity)によっても、結びついていなかった。
大部分は自然経済である国の数世紀にわたる専制的支配は、強い水平的紐帯が形成されるのを妨げた。帝国ロシアは、ほとんど布地のない縦糸だった。
このことを、ロシアの指導的な歴史家であり政治家であるPaul Miliukov は、当時に指摘していた。
「ロシア革命の特殊な性格を理解するためには、我々自身がロシアの歴史の全過程を通じて形成した特有の性質に、注意を向けなければならない。
私には、これら全ての特質は一つに収斂している、と思える。
ロシアの社会構造を他の文明諸国のそれと区分けする根本的差異は、社会を構成する諸要素の強い結合または接合の弱さまたは欠如だ。
ロシアの社会集団の統合の欠如は、文化生活の全ての諸側面に観察することができる。政治的、社会的、心理的、そして民族的諸側面。/
政治的観点からは、ロシアの国家制度はそれが支配している民衆一般との結合と融合を欠いていた。…
こうした様相の帰結として、東ヨーロッパの国家制度は、不可避的に西側のそれとは異なる一定の形態を採用した。
東側の国家には、有機的な進化の過程を経て内部から発生する時間的余裕がなかった。
それは、外部から東ヨーロッパへともたらされたのだ。」(注1)/
こうした要因を考慮すると、革命はつねに社会的(「階級的」)不満から生じる、というマルクス主義の考え方を支持することはできない、ということが明確になる。
どこでもそうであるように、そのような不満は帝国ロシアにも存在した。しかし、体制の崩壊とその結果としての混乱を生み出した決定的で直接的な要因は、圧倒的に政治的なものだった。//
----
(04) 革命は不可避だったか?
何事も全て起きるべくして起きる、と考えるのは自然だ。そして、この幼稚な信念を似非科学的な論拠でもって合理化する、そのような歴史家がいる。過去を予言すると主張するがごとくに適確に未来を予言できるならば、そのような者はいっそう確信をもつだろう。
お馴染みの法的格言を言い換えると、心理学的には、起きたこと自体が歴史的正当化の十分の九を提供する、と語り得るかもしれない。
E・バーク(Edmund Burke) は、フランス革命を疑問視したことで、狂人だと当時は広く見なされた。70年のちにも、Matthew Arnord によると、バークの考え方はなおも「時代遅れで、ゆえに事象によって克服される」と考えられていた。—歴史的事象に関するこのような合理性への、そのゆえに不可避性への信仰は、きわめて根深い。
歴史的事象が壮大で重要であればあるほど、それだけ、その帰結は疑問視するのが不可能な事物の自然な秩序の一部であるように、ますます思えてくる。//
----
(05) 最も語り得ることは、ロシアでの革命の蓋然性はなかった、といよりもあった、ということだ。これにはいくつかの理由がある。
もちろん、おそらく最も重要なのは、不可侵の権威によって支配されることに慣れていた—まさに、この不可侵性のうちに正統性の標識を見ていた—民衆から見て、帝制の威厳が着実に衰退していたことだった。
軍事的勝利と拡張の一世紀半のち、19世紀半ばから1917年まで、ロシアは、連続する屈辱を外国によって経験してきた。自分の領域内での敗北であるクリミア戦争、トルコに対する勝利の戦果のベルリン会議での喪失、日本との戦争での大失敗、そして、第一次大戦でのドイツへの大敗。(注2)
このように連続して敗北すれば、どんな政府であっても評価を落とすだろう。ロシアでは、致命的だった。
ツァーリ体制の恥辱と同時期に併せて発生したのは革命運動で、過酷な弾圧に訴えたにもかかわらず、体制は鎮圧することができなかった。
社会と権力を分け合うという1905年の気乗り薄い譲歩によっては、ツァーリ体制は反対派の人気を博することもなく、民衆全体から見てその威厳を高めもしなかった。一般民衆は、支配者はどのようにして政府機構に関する公的議論の場で嘲弄されるがままに放っておけるのか、理解することができなかっただろう。
T'ienming、あるいは天命(Mandate of Heaven)という孔子の原理は、その元来の意味では道理ある行動をする支配者の権威と結びついているが、ロシアでは、力強い行動に由来した。弱い支配者、「敗北者」はそれを失うのだ。
ロシアの国家の主を道徳性や大衆性を基準にして判断することほど、誤解を招くものはないだろう。重要なのは、皇帝が味方や敵に恐怖を掻き立てることにあった。—イワン四世に似て、ニコライ二世は「畏怖すべき」との異名に値した。
ニコライ二世は、憎悪されたためではなく、軽蔑されたがゆえに退位した。//
----
(06) 革命が起きた要因の中には、政治的構造に一度も統合されなかった、ロシアの農民層の心性(mentality)があった。
農民たちはロシア住民の80パーセントを占めた。
彼らは、消極的な性質で変化の邪魔者のごとく、国家の問題に関係する行動にほとんど積極的には関与しなかった。しかし、同時に現状(status quo)に対する永続的な脅威でもあり、きわめて不安定な要素だった。
ロシアの農民は旧体制のもとで「抑圧された」と言われるのは通例のことだが、いったい誰が彼らを抑圧していたのかはさっぱり明瞭でない。
農民たちは、革命の直前には、十分な市民的権利、法的権利を享有していた。完全にか共同体としてかのいずれかで、彼らは国の農地の10分の9と、同じ割合の家畜を所有していた。
西ヨーロッパやアメリカの標準からすると貧しかったが、父親の世代よりは豊かで、おそらくは農奴だった可能性が高い祖父の世代よりは自由だった。
農民たちは、仲間たちから割り当てられた分与農地を耕作しながら、アイルランド、スペインまたはイタリアの小作農民たちよりは、確実により大きな保障を享けていた。//
----
(07) ロシアの農民に関する問題は、抑圧ではなく孤立だった。
彼らは国の政治的、経済的、文化的生活から隔絶しており、そのゆえに、ピョートル大帝がロシアの西欧化の路線を設定したとき以降の変化の影響を受けなかった。
当時の多数の者たちは、農民層はモスクワ公国時代の文化に浸ったままだ、と観察した。
彼らは文化的には、イギリスのアフリカ植民地の元々の住民たちがヴィクトリア朝の英国と共通性がある以上には、ロシアの支配エリートや知識人と共通性がなかった。
ロシアの農民の大部分は、農奴に出自があった。君主制が大地主と官僚層の気紛れに任せて以降、彼らは臣民ですらなかった。
結果として、農村の住民にとっては、解放の後でも、国家は税を徴収し兵を募るがその代わりには何もしない、異質で悪意のある実力体だった。
農民たちは、望んだ土地を受け取るのを期待した遠く離れたツァーリに対する漠然とした傾倒を除けば、愛国心を持たず、政府への執着もなかった。
農民たちは本能的に無政府主義的で、national な生活に統合されることはなく、急進的反対派からと同様に保守的権益層からも疎遠だった。
彼らは、都市や髭を生やしていない男たちを見下した。Marquis de Custine は、早くも1839年に、ロシアではいずれ髭のある者による剃った者に対する反乱が起きるだろう、ということを耳にした。(注3)
疎遠にされ、潜在的には爆発的なこの農民大衆の存在は、政府を動けなくした。政府は、農民たちは怖れるがゆえに従順だと考え、いかなる政治的譲歩も弱さと反逆だと解釈するようになった。//
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後注。
(01) Paul Miliukov, Russia To-day and To-morrow (1922), p.8-9.
(02) この点につき、Willoam C. Fuller, Jr., Strategy and Power in Russia, 1600-1914 (1992) を見よ。
(03) Marquis[A. de]Custine. Russia (1984), p.455.
——
第一節①、終わり。②へと、つづく。