Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
第9章/新体制の危機、の試訳のつづき。原書、p.466〜。
——
第五節・レーニンの孤立②。
(07) スターリンは、レーニンから下級層まで、全ての者を欺瞞する素晴らしい演技を行なった。
彼は、他の誰もしようとはしない不可欠の仕事を引き受けた。党細胞から政治局へ、政治局から党細胞への書類発送などの単調な骨折り仕事。他に、無数の人員配置の仕事も。
誰も気づかなかったように見える。このような仕事によって形成されたのは、スターリンが自らを無敵の政治的機械として作り上げることができる後援の基盤だった、ということを。
彼はつねに、党にとって良いことが最高の価値だと思っている、と主張した。
彼には個人的な野望や虚栄心がないように見え、トロツキー、カーメネフ、およびジノヴィエフに公的な光を浴びさせていた。
これを巧妙に行なったので、1923年には、レーニンの後継者争いはトロツキーとジノヴィエフの間で繰り広げられる、と広く考えられていた。(注132)
スターリンは、党の統一が至高の善であって、そのためには原理すら犠牲ににしなければならないと、強く主張しただろう。
彼は別のときには、原理を維持するのが必要だとすれば、分裂を回避してはならない、と論じただろう。
そのときどきに自分に適したものに依拠して、あるときはこれ、別のときはあれ、と使い分けただろう。
討論の方法はつねに、分別に頼ること、つまりは気高い規準をときどきの都合に合わせようとすることだった。これが穏健さの模範であり、誰に対しても脅威にならないことだった。
スターリンには、あり得るトロツキーを別にすれば、敵がいなかった。トロツキーに対してすらも、断固として拒否するまでは友好的であろうとした。トロツキーはスターリンを「党の著名な凡庸人(〈vydaiushchaiasia posredstvennosst'〉)」と称し、わざわざ論じるほどの意味はない、と無碍に否認したのだったが。
スターリンは田舎の別荘で、ときどきは妻や子どもたちとともに党の指導者たちを集め、内容のあることを議論するとともに、思い出話をしたり、歌ったり、踊ったりしただろう。(注133)
社交的な外面の下には殺戮の意思が潜んでいると示唆することを、彼は行わなかったし、語らなかった。
彼は、無害の昆虫を擬態する捕食動物のように、疑っていない餌食のど真ん中に自らを棲息させていた。//
----
(08) 1922年9月11日、レーニンは、政治局に関する覚書をスターリンに宛てて送った。その中で、Rykov が休暇にために出発するときが近づき、Tsiurupa は負担全部を一人では処理できないことを考慮すると、二人の代理職者が任命されるべきだ、と書いた。一人は人民委員会議を、もう一人は労働国防評議会(STO)をそれぞれ監督するのを補佐する。いずれも政治局とレーニン自身による厳格な監視のもとで仕事をする。
この役職について、レーニンは、トロツキーとカーメネフを提案した。
トロツキーの友人と敵は、この依頼のように、きわめて多くのことを行なってきた。友人の中には、レーニンは後継者にトロツキーを選んだと主張する者までいた(例えば、Max Eastman は、まもなくレーニンはトロツキーに、「ソヴィエト政府の長になり、そうして世界の革命運動の指導者になる」よう求めた、と書いた)。(注134)
現実は、他愛のないものだった。
レーニンの妹によると、この提示は「外交的な理由」で、すなわちトロツキーの疲れた羽根を温めて優しくするために、行なわれた。(注135)
実際のところ、その職は重要でなかったのでトロツキーが得るものは何もないことが、提案の理由だった。
政治局がレーニンの動議を票決したとき、スターリンとRykov は賛成し、カーメネフとTomskii は保留し、カリーニンは「反対しない」と述べ、トロツキーは「端から(categorically)断わる」と記した。(*)
トロツキーはスターリンに、提示を受けることができない理由を説明した。
彼は従前に〈zamy〉制を、実質がないことを理由に批判した。今は手続を理由とする追加的反対意見を述べた。この提案は政治局でも中央委員会総会でも議論されていない、と。また、ともあれ、自分は4週間の休暇に出るところだ、とした。(注136)
彼の本当の理由は、提案の性格を傷つけることにあったようだ。すなわち、彼は四人の代理者の一人になるのだが—一人は政治局委員ですらなかった—、明確に画定された職責のない、そのような無意味の「代理者」だ。
提示を受容するのは、彼にとって屈辱だったのだろう。
しかしながら、トロツキーが断わったことは、彼の敵たちに恐るべき武器を与えることになった。
ソヴィエトの政府高官が「端から(categorically)」指名を拒否するというのは、全く前代未聞のことだったからだ。//
----
(脚注*) , RTsKhDNI, F. 2, op. 1, delo 26002; Stalin in Dvenadtsatyi S"ezd, p.198n. この逸話についてのスターリンの回想は、第12回党大会(1923年)の議事録の初版からはスターリンの求めにより削除された。同上、p.199n.
-----
(09) スターリンは、翌日にGorki に戻った。
二時間の出会いの間にレーニンと何を話し合ったかは、知られていない。
しかし、レーニンの提示をトロツキーが拒否したことが話題の一つだった、と推定しても不合理ではない。
いや、つぎに起きたことを考えると、レーニンがトロツキーを正式に譴責することに同意したことを疑う理由すらない。
9月14日(1922年)のトロツキーは欠席した政治局会議は、提示された職をトロツキーが受容すべきだと考えなかったのは「遺憾」だ、と表明した、
これは、トロツキーの信用を失墜させる運動の第一撃だった。
ほどなく、三人組体制のために行動するカーメネフは、レーニンに個人的な意向伝達を行ない、トロツキーを除名することを提案した。
レーニンの反応は、激怒だった。
「トロツキーを国外追放すること—これがきみが示唆していることだ、他の解釈はあり得ない—は、きわめて馬鹿げている。
きみが私をその見込みなく騙そうと思っているのでなければ、きみはどうしてそう考えることができるのだ??? …」(+)
----
(脚注+) RTsKhICIDNI, F. 2, op. 2, delo 1239. 文書資料庫は、この文書の日付を「1922年7月12日より後」としている。V. Naumov in Kommunist, No. 5 (1991) p.36 が論じているように、1922年10月というのが、よりありそうな日付のように思われる。
トロツキーを党から排除することはカーメネフとジノヴィエフの提案とほとんど確実に結びついていた。—スターリンは反対した。後述、p,485 〔第八節〕参照。
----
(10) しかしながら、政治的な位置関係は、突然にトロツキーに有利に変化した。
9月に、レーニンが仕事を再開することについて、医師たちの許可が出た。
10月2日、彼の健康への影響を懸念したスターリンとカーメネフの反対はあったが、レーニンはクレムリンに再び現われた。そして、一日に10時間と12時間のあいだを業務し続けるという、多忙な予定表を採用した。
不在中のトロイカ体制の活動をより詳しく知って、レーニンは懐疑心を掻き立てられた。
トロツキーは、本当は存在しないレーニンとの協力関係を想定して、こう書いた。
「彼(レーニン)は、ほとんど感知し難い陰謀の糸筋が自分の病気に関係して我々の背後で編まれている、と察知しているように見えた」。(注137)
レーニンは実際に、自分を孤立させることが目的の陰謀を感知した。
彼は、同僚たちは表面的な服従を装いつつ、自分を諸案件の指揮から排除しようと間断なく準備している、と感じ、やがてそれは確信に変わった。
証拠の材料の一つは、政治局会議の後の手続だった。
彼はすぐに疲労したので、しばしば早めにこの会議から離れなければならなかった。
翌日、彼の不在中に重大な決定がなされていたことを知ることになる。(注138)
レーニンは、このような実務を止めるべく、政治局会議は三時間以上は続けない(午前11時から午後2時までに限る)、という決まりを作った。未解決の案件の処理は、次回の会議へと持ち越される。
また、議題は遅くとも24時間前に配布されるものとされた。(注139)//
----
(11) レーニンがのちに結ぶトロツキーとの親交関係は、外国通商の独占という、小さな問題に関して始まった。
これが明確になったのは、同時期に勃発したジョージア問題をめぐってスターリンと合意しなかったことによってだった(後述)。
レーニンが不在中、中央委員会はソヴィエトの起業家や商社に外国との取引に関して大きな自由を付与した。
Krasin は、これでは外国貿易に関する国家独占が侵害されると考え、ソヴィエト・ロシアは国家独占によって外国やその企業と競争して取引をするに際して多大な優越性を獲得しているという理由で、中央委員会決定に反対した。(注140)
レーニンにとっては、外国通商の国家独占は新経済政策のもとで国家に留保された「管制高地」の一つだった。
この決定に対する彼の怒りは、つぎのような感情に由来した。すなわち、同僚たちは、自分の不在を利用して、自分が資本主義の復活に対する防止策として設定したものを、破壊しようとしている。
トロツキーは自分と同意見だと知って、レーニンは12月13日と15日に覚書を口述筆記させ、中央委員会総会のつぎの会合では二人の共通する立場を擁護してほしい、と頼んだ。(注141)
トロツキーはそのようにし、12月18日に中央委員会で、何とか大きな困難なく、レーニンの立場を採用させることができた。//
----
後注。
(132) Carr, Interregnum, p.270.
(133) Alliuyeva, Twenty Letters, P.29-31; Volkogonov, Triumf I/1, p.191.
(134) Max Eastman, Since Lenin Died (1925), p.18.
(135) IzvTsK, No. 12/299 (1989.12), p.198.
(136) TP, II, p.831.
(137) Trotskii, Moia zhizn', II, p.212.
(138) V. Naumov in Kommunist, No. 5 (1991), p.36.
(139) Lenin, PSS. XLV, p.327.
(140) Boris Souvarine, Staline (1977), p.269-270; L. B. Krasin in Vospominaniia o V. I. Lenine, II (1957), p570-5.
(141) Lenin, PSS, LIV, p.324, p.325-6.
——
③へと、つづく。
第9章/新体制の危機、の試訳のつづき。原書、p.466〜。
——
第五節・レーニンの孤立②。
(07) スターリンは、レーニンから下級層まで、全ての者を欺瞞する素晴らしい演技を行なった。
彼は、他の誰もしようとはしない不可欠の仕事を引き受けた。党細胞から政治局へ、政治局から党細胞への書類発送などの単調な骨折り仕事。他に、無数の人員配置の仕事も。
誰も気づかなかったように見える。このような仕事によって形成されたのは、スターリンが自らを無敵の政治的機械として作り上げることができる後援の基盤だった、ということを。
彼はつねに、党にとって良いことが最高の価値だと思っている、と主張した。
彼には個人的な野望や虚栄心がないように見え、トロツキー、カーメネフ、およびジノヴィエフに公的な光を浴びさせていた。
これを巧妙に行なったので、1923年には、レーニンの後継者争いはトロツキーとジノヴィエフの間で繰り広げられる、と広く考えられていた。(注132)
スターリンは、党の統一が至高の善であって、そのためには原理すら犠牲ににしなければならないと、強く主張しただろう。
彼は別のときには、原理を維持するのが必要だとすれば、分裂を回避してはならない、と論じただろう。
そのときどきに自分に適したものに依拠して、あるときはこれ、別のときはあれ、と使い分けただろう。
討論の方法はつねに、分別に頼ること、つまりは気高い規準をときどきの都合に合わせようとすることだった。これが穏健さの模範であり、誰に対しても脅威にならないことだった。
スターリンには、あり得るトロツキーを別にすれば、敵がいなかった。トロツキーに対してすらも、断固として拒否するまでは友好的であろうとした。トロツキーはスターリンを「党の著名な凡庸人(〈vydaiushchaiasia posredstvennosst'〉)」と称し、わざわざ論じるほどの意味はない、と無碍に否認したのだったが。
スターリンは田舎の別荘で、ときどきは妻や子どもたちとともに党の指導者たちを集め、内容のあることを議論するとともに、思い出話をしたり、歌ったり、踊ったりしただろう。(注133)
社交的な外面の下には殺戮の意思が潜んでいると示唆することを、彼は行わなかったし、語らなかった。
彼は、無害の昆虫を擬態する捕食動物のように、疑っていない餌食のど真ん中に自らを棲息させていた。//
----
(08) 1922年9月11日、レーニンは、政治局に関する覚書をスターリンに宛てて送った。その中で、Rykov が休暇にために出発するときが近づき、Tsiurupa は負担全部を一人では処理できないことを考慮すると、二人の代理職者が任命されるべきだ、と書いた。一人は人民委員会議を、もう一人は労働国防評議会(STO)をそれぞれ監督するのを補佐する。いずれも政治局とレーニン自身による厳格な監視のもとで仕事をする。
この役職について、レーニンは、トロツキーとカーメネフを提案した。
トロツキーの友人と敵は、この依頼のように、きわめて多くのことを行なってきた。友人の中には、レーニンは後継者にトロツキーを選んだと主張する者までいた(例えば、Max Eastman は、まもなくレーニンはトロツキーに、「ソヴィエト政府の長になり、そうして世界の革命運動の指導者になる」よう求めた、と書いた)。(注134)
現実は、他愛のないものだった。
レーニンの妹によると、この提示は「外交的な理由」で、すなわちトロツキーの疲れた羽根を温めて優しくするために、行なわれた。(注135)
実際のところ、その職は重要でなかったのでトロツキーが得るものは何もないことが、提案の理由だった。
政治局がレーニンの動議を票決したとき、スターリンとRykov は賛成し、カーメネフとTomskii は保留し、カリーニンは「反対しない」と述べ、トロツキーは「端から(categorically)断わる」と記した。(*)
トロツキーはスターリンに、提示を受けることができない理由を説明した。
彼は従前に〈zamy〉制を、実質がないことを理由に批判した。今は手続を理由とする追加的反対意見を述べた。この提案は政治局でも中央委員会総会でも議論されていない、と。また、ともあれ、自分は4週間の休暇に出るところだ、とした。(注136)
彼の本当の理由は、提案の性格を傷つけることにあったようだ。すなわち、彼は四人の代理者の一人になるのだが—一人は政治局委員ですらなかった—、明確に画定された職責のない、そのような無意味の「代理者」だ。
提示を受容するのは、彼にとって屈辱だったのだろう。
しかしながら、トロツキーが断わったことは、彼の敵たちに恐るべき武器を与えることになった。
ソヴィエトの政府高官が「端から(categorically)」指名を拒否するというのは、全く前代未聞のことだったからだ。//
----
(脚注*) , RTsKhDNI, F. 2, op. 1, delo 26002; Stalin in Dvenadtsatyi S"ezd, p.198n. この逸話についてのスターリンの回想は、第12回党大会(1923年)の議事録の初版からはスターリンの求めにより削除された。同上、p.199n.
-----
(09) スターリンは、翌日にGorki に戻った。
二時間の出会いの間にレーニンと何を話し合ったかは、知られていない。
しかし、レーニンの提示をトロツキーが拒否したことが話題の一つだった、と推定しても不合理ではない。
いや、つぎに起きたことを考えると、レーニンがトロツキーを正式に譴責することに同意したことを疑う理由すらない。
9月14日(1922年)のトロツキーは欠席した政治局会議は、提示された職をトロツキーが受容すべきだと考えなかったのは「遺憾」だ、と表明した、
これは、トロツキーの信用を失墜させる運動の第一撃だった。
ほどなく、三人組体制のために行動するカーメネフは、レーニンに個人的な意向伝達を行ない、トロツキーを除名することを提案した。
レーニンの反応は、激怒だった。
「トロツキーを国外追放すること—これがきみが示唆していることだ、他の解釈はあり得ない—は、きわめて馬鹿げている。
きみが私をその見込みなく騙そうと思っているのでなければ、きみはどうしてそう考えることができるのだ??? …」(+)
----
(脚注+) RTsKhICIDNI, F. 2, op. 2, delo 1239. 文書資料庫は、この文書の日付を「1922年7月12日より後」としている。V. Naumov in Kommunist, No. 5 (1991) p.36 が論じているように、1922年10月というのが、よりありそうな日付のように思われる。
トロツキーを党から排除することはカーメネフとジノヴィエフの提案とほとんど確実に結びついていた。—スターリンは反対した。後述、p,485 〔第八節〕参照。
----
(10) しかしながら、政治的な位置関係は、突然にトロツキーに有利に変化した。
9月に、レーニンが仕事を再開することについて、医師たちの許可が出た。
10月2日、彼の健康への影響を懸念したスターリンとカーメネフの反対はあったが、レーニンはクレムリンに再び現われた。そして、一日に10時間と12時間のあいだを業務し続けるという、多忙な予定表を採用した。
不在中のトロイカ体制の活動をより詳しく知って、レーニンは懐疑心を掻き立てられた。
トロツキーは、本当は存在しないレーニンとの協力関係を想定して、こう書いた。
「彼(レーニン)は、ほとんど感知し難い陰謀の糸筋が自分の病気に関係して我々の背後で編まれている、と察知しているように見えた」。(注137)
レーニンは実際に、自分を孤立させることが目的の陰謀を感知した。
彼は、同僚たちは表面的な服従を装いつつ、自分を諸案件の指揮から排除しようと間断なく準備している、と感じ、やがてそれは確信に変わった。
証拠の材料の一つは、政治局会議の後の手続だった。
彼はすぐに疲労したので、しばしば早めにこの会議から離れなければならなかった。
翌日、彼の不在中に重大な決定がなされていたことを知ることになる。(注138)
レーニンは、このような実務を止めるべく、政治局会議は三時間以上は続けない(午前11時から午後2時までに限る)、という決まりを作った。未解決の案件の処理は、次回の会議へと持ち越される。
また、議題は遅くとも24時間前に配布されるものとされた。(注139)//
----
(11) レーニンがのちに結ぶトロツキーとの親交関係は、外国通商の独占という、小さな問題に関して始まった。
これが明確になったのは、同時期に勃発したジョージア問題をめぐってスターリンと合意しなかったことによってだった(後述)。
レーニンが不在中、中央委員会はソヴィエトの起業家や商社に外国との取引に関して大きな自由を付与した。
Krasin は、これでは外国貿易に関する国家独占が侵害されると考え、ソヴィエト・ロシアは国家独占によって外国やその企業と競争して取引をするに際して多大な優越性を獲得しているという理由で、中央委員会決定に反対した。(注140)
レーニンにとっては、外国通商の国家独占は新経済政策のもとで国家に留保された「管制高地」の一つだった。
この決定に対する彼の怒りは、つぎのような感情に由来した。すなわち、同僚たちは、自分の不在を利用して、自分が資本主義の復活に対する防止策として設定したものを、破壊しようとしている。
トロツキーは自分と同意見だと知って、レーニンは12月13日と15日に覚書を口述筆記させ、中央委員会総会のつぎの会合では二人の共通する立場を擁護してほしい、と頼んだ。(注141)
トロツキーはそのようにし、12月18日に中央委員会で、何とか大きな困難なく、レーニンの立場を採用させることができた。//
----
後注。
(132) Carr, Interregnum, p.270.
(133) Alliuyeva, Twenty Letters, P.29-31; Volkogonov, Triumf I/1, p.191.
(134) Max Eastman, Since Lenin Died (1925), p.18.
(135) IzvTsK, No. 12/299 (1989.12), p.198.
(136) TP, II, p.831.
(137) Trotskii, Moia zhizn', II, p.212.
(138) V. Naumov in Kommunist, No. 5 (1991), p.36.
(139) Lenin, PSS. XLV, p.327.
(140) Boris Souvarine, Staline (1977), p.269-270; L. B. Krasin in Vospominaniia o V. I. Lenine, II (1957), p570-5.
(141) Lenin, PSS, LIV, p.324, p.325-6.
——
③へと、つづく。