Richard Pipes, Russia Under Bolshevik Regime 1919-1924(1994年).
 第8章の試訳のつづき。
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 第8章/ネップ(NEP)-偽りのテルミドール。
 第三節・アントーノフの登場①。
 (01) 共産主義は農村の住民たちに、矛盾する態様で影響を与えた。(注29)
 私的土地のある共同体への配分は、割り当てを拡大し、「中間」農民を増やして貧農も富農もその数を減らした。このことは、農民共同村落(muzhik)の平等主義的心情を満足させた。
 しかしながら、農民は、獲得したものの多くを急速度のインフレで失い、蓄えも奪われた。
 農民は食料「余剰」の容赦なき徴発も受け、多数の労働上の負担に耐えることを強いられた。その中では、木を切って材木を荷車で運ぶ義務が最も重たかった。
 ボルシェヴィキは、内戦中に、消極的であれ積極的であれ食料徴発に抵抗した村落に対して、周期的に戦闘行為をしかけた。//
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 (02) ボルシェヴィズムは、文化的には、村落への影響をもたなかった。
 厳しさが政府の証明だと思っていた農民たちは、共産党当局に敬意を払い、それに順応した。彼らは、数世紀もの隷属状態によって、主人の宥め方と、同時に出し抜き方とを、学んでいた。
 Angelica Balabanoff は、驚きをもってこう記した。
 「農民たちは何とす早くボルシェヴィキの言葉遣いを身に付け、新しい語句を作り、何と適切に新しい法律の多数の条項を理解したことか。
 彼らは、これまでずっとその法律とともに生活してきたように見えた。」(注30)
 農民たちは、彼らの祖先がタタール人にしたごとく、外国の侵略者に対してしただろうように、新しい権威に適合した。
 しかしながら、ボルシェヴィキ革命の意味、ボルシェヴィキが呼号したスローガンは、彼らにとっては、解く価値のないミステリーだった。
 1920年代の共産党学者の調査によれば、革命後の村落は自らを維持し、他者からは閉ざして、それまでそうだったように、自分たちの不文の規則に従って生活していた。
 共産党の存在は、ほとんど感じられなかった。農村地帯で設立されるような党の細胞は、原理的に見て、都市部からの人員で補佐されていた。
 モスクワが1921年初頭にタンボフ(Tambov)地方の反乱を鎮圧させるために派遣したAntonov-Ovseenko は、レーニンへの秘密報告で、こう書き送った。
  農民たちは、ソヴィエト当局を「人民委員部または使節団」からの飛来する訪問者や食料徴発部隊でもって感知した。彼らは、「ソヴィエト政府は異質で、命令を発するだけで、強い意欲はあるが経済的感覚がほとんどない、と見るようになった」。(注31)//
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 (03) 識字能力のある農民たちは共産党の出版物を無視し、宗教文献や現実逃避的小説の方を好んだ。(注32)
 外部の事件についてのごく僅かの反響音だけが村落まで届き、届いたそれは捻れていて、誤解された。
 農村共同体(muzhiks)は、誰がロシアを統治しているかについて、ほとんど関心を示さなかった。1919年までに、観察者は旧体制への郷愁がある兆候に気づいていたけれども。(注33)
 したがって、共産党に対する農民反乱が消極的な目標をもった、というのは驚きではない。「叛乱は、モスクワまで行進するのではなく、共産党の影響を遮断することを目ざした」。(*)
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  (脚注*) Orlando Figes, Peasant Russia, Civil War (1989), p.322-3.
 例外は、タンボフ農民反乱の指導者、Antonov だった(後述参照)。 
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 (04) 農村の騒擾は1918年と1919年はずっと発生し、モスクワは、動員できる主要な軍隊で介入せざるを得なかった。
 内戦が激しさの高みにあるとき、広大な農村地帯は、緑軍団が統制していた。これは、反共産主義者、反ユダヤ主義者、反白軍感情の者たちと通常の山賊たちとの混成軍団だった。
 1920年に、これらの燻っている炎は、大爆発を起こした。//
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 (05) 反共産主義の反乱のうち最も暴力的なものが、タンボフ(Tambov)で勃発した。Tambov は工業がほとんどない比較的に肥沃な農業地方で、モスクワから南西に350キロメートル離れていた。(注34)
 ボルシェヴィキ・クーより前、この地方は毎年6000万puds (100万トン)の穀物を生産していた。この数字は、外国へ船で輸出される穀物の三分の一に近かった。
 1918-1920年に、Tambov は、強制的食料取立ての鉾先となったのを経験した。
 以下は、Antonov-Ovseenko がこの地方での「蛮族」の発生の背後にあった原因を叙述したものだ。
 「1920-21年の食料徴発の割り当て量は、前年の半分に減じられていたけれども、全体として多すぎるのが分かった。
 広大な播種されていない領域があり収穫がきわめて少なかったことで、この地方の相当の部分で、農民たち自身が食って生きるに十分なパンが不足した。
 Guberniia 供給委員会の専門家委員会のデータによれば、一人当たり4.2 puds の穀物しかなかった(播種の控除後には飼料用の控除がなかった)。
 1909-1913年の間、消費量の平均は…17.9 puds で、加えて飼料用の7.4 puds があった。
 言い換えると、Tambov 地方では、前年の地方収穫高は必要量のほとんど四分の一だった。
 予定では、この地方は、穀物1100万puds とジャガイモ1100万puds を供出しなければならなかった。
 農民たちがこの査定量の供出を100パーセント達成していたならば、彼らに残されたのは、一人当たり穀物1 puds とジャガイモ1.6 puds だっただろう。
 そうではあったが、査定量はほとんど50パーセント達成された。
 すでに(1921年)1月に、農民たちは飢餓状態に入っていた。」(注35) //
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 (06) 1920年8月にTambov 市近傍の村落で反乱が自然発生的に勃発した。その村落は食料徴発部隊に穀物を渡すのを拒み、部隊の数名を殺害した。また、増援部隊を撃退した。(注36)
 制裁のための派遣軍を予期して、その村落は、手にしていたもので武装した。何丁かの銃砲はあったが、主としては三叉鋤と棍棒だった。
 近くの諸村落も、加わった。
 反乱者たちは、あとに続いた赤軍との遭遇以降、勝利者として出現した。
 農民たちは、勝利に勇気づけられて、Tambov 地方で行進した。この地方の首都に接近するにつれて、農民大衆の数は膨れ上がった。
 ボルシェヴィキは増援部隊を送り、9月に反攻に出た。反乱側の村落を燃やし、捕えたパルチザンを処刑した。
 Alexander Antonov というカリスマ性をもつ人物が出現していなければ、暴乱はそのときに、そこで終わっていたかもしれなかった。//
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 (07) Antonov は、社会主義革命党〔エスエル〕の党員で、伝統工芸職人または同党が財源を補充すべく組織した強盗団(「収用部隊」)に1905-07年に参加していた金属労働者のいずれかの息子だった。
 彼は、逮捕され、有罪となり、シベリアでの重労働の判決を受けた。(注37)
 1917年に故郷に戻り、左翼エスエルに入党した。
 やがて彼はボルシェヴィキに協力したが、ボルシェヴィキの農業政策に抗議して、1918年夏に彼らと決裂した。
 その後の二年間、ボルシェヴィキ活動家に対するテロ行為を展開した。それが理由となって、欠席裁判で死刑判決を受けた。
 だが、うまく当局をかい潜り、民衆的英雄となった。
 彼は、小さな支持者集団とともに自分で行動した。党との関係はもう維持しなかったけれども、エスエルのスローガンを掲げて。//
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 後注
 (29) RR, 第16章。
 (30) Angelica Balabanoff, Impressions of Lenin (1964), p55-56.
 (31) TP, II, p.484-7. 〔TP=Trotzky Papers, 1917-1922 (1964-71).〕
 (32) Ia. Iakovlev, Derevnia kak ona est' (1923), p.86, p.96-98.
 (33) A. Okninskii, Dva goda sredi krest'ian (1936), p.290-2.
 (34) Radkey, Unknown Civil War, あちこちで。;Mikhail Frenkin, Tragediia krest'ianskikh vosstanii v Rossi, 1918-1921 gg. (1988) , Chap. V; Orlando Figes, Peasant Russia Civil War (1989), Chap. 7. 共産党の見方については、Trifonov, Klassy, 1, p.245-9 を見よ.
 軍事公文書庫からの新しい史料が近年に、P. A. Aptekar で出版された。Voennoistoricheskii zhurnal No. 1 (1993), p.50-55, No. 2 (1993), p.66-70. 私の注目は、Robert E. Tarleton 氏によるこの情報に引かれる。
 (35) TP, II, p.492-5.
 (36) Iurii Podbelskii, in RevR, No. 6, (1921.4), p. 23-24.
 (37) Radkey, Unknown Civil War, p.48-58.
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 第三節②へと、つづく。