Orlando Figes, Revolutionary Russia 1891-1991-A History (2014).
第8章の試訳の続き。
第7章、第19章、第20章の試訳は、すでにこの欄に掲載した。
——
第8章/レーニン・トロツキー・スターリン②。
第二節。
(01) 第12回党大会は、ついに1923年4月に開催された。
遺書は、レーニンが意図していたようには、代議員たちに読み上げられなかった。
三人組は、そのように取り計らった。
トロツキーは、その決定に反対しようとはしなかった。
彼は、中央委員会での自分の力は弱いことを知っていた。//
----
(02) トロツキーは、その代わりに、指導部の「警察体制」に対抗する一般党員の代弁者を任じた。
10月8日、彼は「中央委員会への公開書簡」を書き送り、党内の民主主義の抑圧を追及し(内戦中のトロツキー自身の超中央志向性からすると偽善的主張だ)、そのことが原因でソヴィエト・ロシアでの最近の労働者のストライキや、労働者が共産党に幻滅したドイツでの革命運動の失敗、が生じていると述べた。
1923年から1927年までに三頭制に反対した左翼反対派の基礎を成す宣言を書いたPiatakov やSmirnov を含む「グループ46」というボルシェヴィキ指導者たちに、トロツキーは支持されていた。
だが、彼の敵たちは、彼を「分派主義」だとして追及するのに必要な証拠を得た(「分派主義」は1921年3月の分派禁止以降、最悪の犯罪だった)。
彼らはトロツキーを「ボナパルティズム」としても責め立てた。これは、専横だというトロツキーへの評価にもとづく責任追及だった。//
----
(03) 10月の党総会で、トロツキーは、高い役職をというレーニンの申し出を何度も固辞したことを思い起こさせて、自己を防衛した。—一度は、1917年10月で(内務人民委員のとき)、もう一度は1922年(ソヴナルコム副議長のとき)。固辞した理由は、ロシアに反ユダヤ主義の問題があるので、そのような地位にユダヤ人が就くのは賢明ではない、ということだった。
前者の場合、レーニンは彼の異議を却下したが、後者の場合は同意した。
トロツキーは、党内での自分への反感はユダヤ人であるからだと示唆すべく、レーニンの権威を持ち出していた。
党の前に非難されて立っているという生涯のこの重大な瞬間に、ユダヤ出自の問題を振り返らなければならないのは、トロツキーにとって、悲劇だった。—革命家としてのみならず、人間としても。
自分はユダヤ人だと一度も感じてこなかった者にすれば、これはトロツキーがいかに孤独だったかを示していた。//
----
(04) トロツキーの感情的な訴えは、代議員たちにほとんど感銘を与えなかった。—彼らのほとんどは、スターリンによって選抜されていた。
総会は、102対2の票決でもって、「分派主義」を理由とするトロツキー非難の動議を採択した。
カーメネフとジノヴィエフは、党からの除名を主張したが、スターリン(つねに中庸の意見の主張者として立ち現れたかった)はこれには反対し、この主張による動議は否決された。
いずれにせよ、スターリンは急ぐ必要がなかった。
トロツキーは、ソヴィエト同盟での大きな政治勢力の一つとして終わった。
左翼反対派は三頭制に対する口うるさい批判者であり続けたが、いっそうスターリンの手中に入りつつある党機構を前にしては、無力だった。//
----
(05) このことは、第13回党大会の前の会議で、確認された。1924年のレーニンの死後数ヶ月後のことで、Krupskaya の要求にもとづいて、亡き夫の遺言が中央委員会その他の代議員たちに読み上げられた。
スターリンは辞任すると申し出たが、ジノヴィエフとカーメネフはスターリンを排除すべきとのレーニンの助言を無視するよう会議を説得した。その理由は、スターリンの何らかの行為が犯罪としての罪責があろうとも重大ではなく、彼はそれ以降に償いをしてきた、というものだった。
トロツキーは、人々を他に納得させる機会はもうないということを疑いなく意識しつつ、その会合で発言しなかった。
レーニンの遺書を各地域の代議員別に読み上げることが決定されたが、党大会でそれに関して議論するという決定はなかった。
実際には、遺書はレーニンが意図したスターリンを指導層から排除させるという効果を奪われていた。
その代わりに、党大会〔2024年〕は、スターリンを指導者とする党の統一の呼びかけにもとづいた、トロツキー非難の合唱に転じていた。
トロツキーは、抵抗することができなかった。
敗北した人間として、党大会を去った。//
----
(06) 1925年1月に人民委員部の役職を退任したあと、トロツキーは1927年11月12日に、党を除名された。
彼は十月の権力掌握10周年を祝う独立したデモ行進を組織した。だが、警察によって解散させられた。
彼の支持者のほとんどもまた、1927年12月の第15回党大会での決議に従って、排除された。この党大会では、「反対派」の見解は党員であることと両立しない、と宣言された。
このときに、ジノヴィエフとカーメネフも、党から除名された。
二人は1925年にスターリンと不仲になり、トロツキーの左翼反対派や従前の労働者反対派の若干の指導的人物と勢力を合同して、1926年に党内の表現の自由の増大を要求する統合反対派を結成した(実際に分派の禁止へと結末した)。
分派を構成したとして追放されたあと、二人はいずれものちに、誤りを認め、党に再加入した。
しかし、トロツキーには戻る途はなかった。
Kazakhstan に追放され、1929年にはソヴィエト同盟から国外追放となった。//
----
(07) スターリンはいつ、「権力に到達」したのか?
正確に語るのは困難だ。レーニンの承継問題について、彼が残した複雑さのゆえに。
レーニンの指導者性は、個人的な権威—ボルシェヴィキは〈彼の〉党だった—にもとづいていた。そして、その権力を是認するために、いかなる職位も彼は必要としなかった。
彼の死後、同じ権威を誰かの指導者個人が継承することはただちに可能ではなかった。
スターリンは、レーニン死後わずか一週間後の追悼会合でレーニンが始めた革命を完成させることを誓う演説を行なった。そのとき彼は、自分はレーニンの唯一の継承者だとする初期の主張を行なっていた。
しかし、本当は、スターリンは集団指導制の中で行動せざるを得なかった。
スターリンがその独裁に対する最後のくびきから自由になったのは、1930年代に入ってからだった。//
——
第三節。
(01) レーニンの死は、レーニン個人崇拝を復活させた。ボルシェヴィキ体制は、それ自体の正統性の感覚を、ますますこの個人崇拝に求めるようになっていく。
レーニン記念碑が、至るところに建立された。
指導者の巨大な肖像写真が、街頭に出現した。
ペテログラードは、レニングラードと改称された。
工場、役所、学校は、「レーニン区画」を作った。—彼の偉業を示す写真や遺品で成る聖なる場所。
レーニンは人間として死に、神として生まれた。
レーニン全集の第一版(〈Leninskii sbornik〉)づくりが始まった 。十月革命の聖典だ。//
----
(02) ジノヴィエフはレーニンの葬礼のとき、「レーニンは死んだ。だが、レーニン主義は生きている」と宣告した。
「レーニン主義」という用語が、かくして初めて用いられた。
三人組は、自分たちは「反レーニン主義者」のトロツキーに対抗する本当の防衛者だと描こうとした。
このときから、指導部は、その政策—それが何であれ—を正当化するために「レーニン主義」を援用して、批判者を「反レーニン主義者」だと非難するようになる。
レーニンの現実の思想は、つねに進化し、変転していた。
その思想は、しばしば矛盾していた。
聖書のように、彼の著作は多数の多様な事柄を支持するために用いることができた。そして、レーニンを支持する者たちはその事柄に適した部分を選抜するようになる。
スターリン、フルシチョフ、ブレジネフ、ゴルバチョフ—彼らは全て「レーニン主義者」だった。
しかし、変わらない原理が一つあるとすれば—四分の三世紀にわたるボルシェヴィキ独裁の基盤—、それは「党の統一」だった。つまり、人格を集団に融合させて、指導部の判断に服従するという全党員の「レーニン主義的義務」。
党の方針に疑問をもつことは、それが何であれ、「反レーニン主義」と見なされるということは、この絶対的な原理にもとづいていた。//
----
(03) レーニンは、ペテログラードにある母親の墓の隣に埋葬されるのを望んでいた。
しかしスターリンは、遺体を防腐処理させることを強く主張した。
レーニン個人崇拝を生きたままにするためには、遺体は展示されなければならなかった。聖人の遺物のように、それは腐敗してはならないものだった。
レーニンのアルコール漬けされた遺体は、木製の地下堂に置かれた。—のちに花崗岩の霊廟に移され、それは現在も赤の広場のクレムリンの内壁のそばに存在する。
一般民衆に公開されたのは、1924年8月だった。//
----
(04) レーニンの脳は身体から除去され、新しく設置されたレーニン研究所に移された。
脳は3万の断片に薄切りにされ、観察できる状態にすべくガラス板の間に保たれた。将来の世代の科学者たちが、それを研究して、「彼の天才性の実体」を発見するだろう。//
----
(05) かりにレーニンがあと数年生きていれば。どうなっていただろうか?
スターリンは権力を握っていただろうか?
革命は実際と同じ途を歩んでいただろうか?//
----
(06) スターリン主義体制の根本的要素—一党国家、テロルのシステム、指導者崇拝—は、1924年にはすでにあった。
党機構は、すでに大部分は、スターリンの手中の忠実な道具だった。
レーニンは、この全てが生じるのを許容していた。
政治改革をしようとの彼の遅れた努力は。ボルシェヴィキ独裁制の本性や、内戦で確固たるものになっていた一般党員の政治的姿勢を、いずれも変えるまでには至らなかった。//
----
(07) しかし、レーニンの体制とスターリンのそれの間には。大きな違いがあった。
レーニンのもとでの初期には、〔党内では〕わずかの者しか殺されなかった。
彼による分派禁止にもかかわらず、レーニンが生きている間は、党には、激しいが同志的な議論を行なえる余地がまだあった。—そして1930年代初頭までは、諸政策に反対し続けていたことだろう。
1930年代初頭になってスターリンは、反対する者を殺害するという効果を伴う厳格な党の方針を課した。
レーニンは、革命への反抗者を殺害するのに何の躊躇も持たなかった。だが、党内の同志については、彼らの政治的見解を理由として収監したり殺害したりはしなかった。//
----
(08) レーニンがスターリンと異なるのは、とりわけ、農民層に関する政策だった。
レーニンならば、スターリンが指導者となったときのような暴力的方法で農業の集団化を実施するのを、許さなかっただろう。
NEP でのレーニンの革命の見通しは、より農民に友好的で、より多元主義的で、より寛容だった。1928-29年にNEP を覆したときにスターリンが約束した「大分岐」と、長い期間で見れば、同様にユートピア的だったとしても。
さて、最後に、レーニンと革命の運命に関する問題は、NEP の成り行きにかかっている。そして、つぎの章で扱うのは、この問題だ。//
——
第8章、終わり。
第8章の試訳の続き。
第7章、第19章、第20章の試訳は、すでにこの欄に掲載した。
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第8章/レーニン・トロツキー・スターリン②。
第二節。
(01) 第12回党大会は、ついに1923年4月に開催された。
遺書は、レーニンが意図していたようには、代議員たちに読み上げられなかった。
三人組は、そのように取り計らった。
トロツキーは、その決定に反対しようとはしなかった。
彼は、中央委員会での自分の力は弱いことを知っていた。//
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(02) トロツキーは、その代わりに、指導部の「警察体制」に対抗する一般党員の代弁者を任じた。
10月8日、彼は「中央委員会への公開書簡」を書き送り、党内の民主主義の抑圧を追及し(内戦中のトロツキー自身の超中央志向性からすると偽善的主張だ)、そのことが原因でソヴィエト・ロシアでの最近の労働者のストライキや、労働者が共産党に幻滅したドイツでの革命運動の失敗、が生じていると述べた。
1923年から1927年までに三頭制に反対した左翼反対派の基礎を成す宣言を書いたPiatakov やSmirnov を含む「グループ46」というボルシェヴィキ指導者たちに、トロツキーは支持されていた。
だが、彼の敵たちは、彼を「分派主義」だとして追及するのに必要な証拠を得た(「分派主義」は1921年3月の分派禁止以降、最悪の犯罪だった)。
彼らはトロツキーを「ボナパルティズム」としても責め立てた。これは、専横だというトロツキーへの評価にもとづく責任追及だった。//
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(03) 10月の党総会で、トロツキーは、高い役職をというレーニンの申し出を何度も固辞したことを思い起こさせて、自己を防衛した。—一度は、1917年10月で(内務人民委員のとき)、もう一度は1922年(ソヴナルコム副議長のとき)。固辞した理由は、ロシアに反ユダヤ主義の問題があるので、そのような地位にユダヤ人が就くのは賢明ではない、ということだった。
前者の場合、レーニンは彼の異議を却下したが、後者の場合は同意した。
トロツキーは、党内での自分への反感はユダヤ人であるからだと示唆すべく、レーニンの権威を持ち出していた。
党の前に非難されて立っているという生涯のこの重大な瞬間に、ユダヤ出自の問題を振り返らなければならないのは、トロツキーにとって、悲劇だった。—革命家としてのみならず、人間としても。
自分はユダヤ人だと一度も感じてこなかった者にすれば、これはトロツキーがいかに孤独だったかを示していた。//
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(04) トロツキーの感情的な訴えは、代議員たちにほとんど感銘を与えなかった。—彼らのほとんどは、スターリンによって選抜されていた。
総会は、102対2の票決でもって、「分派主義」を理由とするトロツキー非難の動議を採択した。
カーメネフとジノヴィエフは、党からの除名を主張したが、スターリン(つねに中庸の意見の主張者として立ち現れたかった)はこれには反対し、この主張による動議は否決された。
いずれにせよ、スターリンは急ぐ必要がなかった。
トロツキーは、ソヴィエト同盟での大きな政治勢力の一つとして終わった。
左翼反対派は三頭制に対する口うるさい批判者であり続けたが、いっそうスターリンの手中に入りつつある党機構を前にしては、無力だった。//
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(05) このことは、第13回党大会の前の会議で、確認された。1924年のレーニンの死後数ヶ月後のことで、Krupskaya の要求にもとづいて、亡き夫の遺言が中央委員会その他の代議員たちに読み上げられた。
スターリンは辞任すると申し出たが、ジノヴィエフとカーメネフはスターリンを排除すべきとのレーニンの助言を無視するよう会議を説得した。その理由は、スターリンの何らかの行為が犯罪としての罪責があろうとも重大ではなく、彼はそれ以降に償いをしてきた、というものだった。
トロツキーは、人々を他に納得させる機会はもうないということを疑いなく意識しつつ、その会合で発言しなかった。
レーニンの遺書を各地域の代議員別に読み上げることが決定されたが、党大会でそれに関して議論するという決定はなかった。
実際には、遺書はレーニンが意図したスターリンを指導層から排除させるという効果を奪われていた。
その代わりに、党大会〔2024年〕は、スターリンを指導者とする党の統一の呼びかけにもとづいた、トロツキー非難の合唱に転じていた。
トロツキーは、抵抗することができなかった。
敗北した人間として、党大会を去った。//
----
(06) 1925年1月に人民委員部の役職を退任したあと、トロツキーは1927年11月12日に、党を除名された。
彼は十月の権力掌握10周年を祝う独立したデモ行進を組織した。だが、警察によって解散させられた。
彼の支持者のほとんどもまた、1927年12月の第15回党大会での決議に従って、排除された。この党大会では、「反対派」の見解は党員であることと両立しない、と宣言された。
このときに、ジノヴィエフとカーメネフも、党から除名された。
二人は1925年にスターリンと不仲になり、トロツキーの左翼反対派や従前の労働者反対派の若干の指導的人物と勢力を合同して、1926年に党内の表現の自由の増大を要求する統合反対派を結成した(実際に分派の禁止へと結末した)。
分派を構成したとして追放されたあと、二人はいずれものちに、誤りを認め、党に再加入した。
しかし、トロツキーには戻る途はなかった。
Kazakhstan に追放され、1929年にはソヴィエト同盟から国外追放となった。//
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(07) スターリンはいつ、「権力に到達」したのか?
正確に語るのは困難だ。レーニンの承継問題について、彼が残した複雑さのゆえに。
レーニンの指導者性は、個人的な権威—ボルシェヴィキは〈彼の〉党だった—にもとづいていた。そして、その権力を是認するために、いかなる職位も彼は必要としなかった。
彼の死後、同じ権威を誰かの指導者個人が継承することはただちに可能ではなかった。
スターリンは、レーニン死後わずか一週間後の追悼会合でレーニンが始めた革命を完成させることを誓う演説を行なった。そのとき彼は、自分はレーニンの唯一の継承者だとする初期の主張を行なっていた。
しかし、本当は、スターリンは集団指導制の中で行動せざるを得なかった。
スターリンがその独裁に対する最後のくびきから自由になったのは、1930年代に入ってからだった。//
——
第三節。
(01) レーニンの死は、レーニン個人崇拝を復活させた。ボルシェヴィキ体制は、それ自体の正統性の感覚を、ますますこの個人崇拝に求めるようになっていく。
レーニン記念碑が、至るところに建立された。
指導者の巨大な肖像写真が、街頭に出現した。
ペテログラードは、レニングラードと改称された。
工場、役所、学校は、「レーニン区画」を作った。—彼の偉業を示す写真や遺品で成る聖なる場所。
レーニンは人間として死に、神として生まれた。
レーニン全集の第一版(〈Leninskii sbornik〉)づくりが始まった 。十月革命の聖典だ。//
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(02) ジノヴィエフはレーニンの葬礼のとき、「レーニンは死んだ。だが、レーニン主義は生きている」と宣告した。
「レーニン主義」という用語が、かくして初めて用いられた。
三人組は、自分たちは「反レーニン主義者」のトロツキーに対抗する本当の防衛者だと描こうとした。
このときから、指導部は、その政策—それが何であれ—を正当化するために「レーニン主義」を援用して、批判者を「反レーニン主義者」だと非難するようになる。
レーニンの現実の思想は、つねに進化し、変転していた。
その思想は、しばしば矛盾していた。
聖書のように、彼の著作は多数の多様な事柄を支持するために用いることができた。そして、レーニンを支持する者たちはその事柄に適した部分を選抜するようになる。
スターリン、フルシチョフ、ブレジネフ、ゴルバチョフ—彼らは全て「レーニン主義者」だった。
しかし、変わらない原理が一つあるとすれば—四分の三世紀にわたるボルシェヴィキ独裁の基盤—、それは「党の統一」だった。つまり、人格を集団に融合させて、指導部の判断に服従するという全党員の「レーニン主義的義務」。
党の方針に疑問をもつことは、それが何であれ、「反レーニン主義」と見なされるということは、この絶対的な原理にもとづいていた。//
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(03) レーニンは、ペテログラードにある母親の墓の隣に埋葬されるのを望んでいた。
しかしスターリンは、遺体を防腐処理させることを強く主張した。
レーニン個人崇拝を生きたままにするためには、遺体は展示されなければならなかった。聖人の遺物のように、それは腐敗してはならないものだった。
レーニンのアルコール漬けされた遺体は、木製の地下堂に置かれた。—のちに花崗岩の霊廟に移され、それは現在も赤の広場のクレムリンの内壁のそばに存在する。
一般民衆に公開されたのは、1924年8月だった。//
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(04) レーニンの脳は身体から除去され、新しく設置されたレーニン研究所に移された。
脳は3万の断片に薄切りにされ、観察できる状態にすべくガラス板の間に保たれた。将来の世代の科学者たちが、それを研究して、「彼の天才性の実体」を発見するだろう。//
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(05) かりにレーニンがあと数年生きていれば。どうなっていただろうか?
スターリンは権力を握っていただろうか?
革命は実際と同じ途を歩んでいただろうか?//
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(06) スターリン主義体制の根本的要素—一党国家、テロルのシステム、指導者崇拝—は、1924年にはすでにあった。
党機構は、すでに大部分は、スターリンの手中の忠実な道具だった。
レーニンは、この全てが生じるのを許容していた。
政治改革をしようとの彼の遅れた努力は。ボルシェヴィキ独裁制の本性や、内戦で確固たるものになっていた一般党員の政治的姿勢を、いずれも変えるまでには至らなかった。//
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(07) しかし、レーニンの体制とスターリンのそれの間には。大きな違いがあった。
レーニンのもとでの初期には、〔党内では〕わずかの者しか殺されなかった。
彼による分派禁止にもかかわらず、レーニンが生きている間は、党には、激しいが同志的な議論を行なえる余地がまだあった。—そして1930年代初頭までは、諸政策に反対し続けていたことだろう。
1930年代初頭になってスターリンは、反対する者を殺害するという効果を伴う厳格な党の方針を課した。
レーニンは、革命への反抗者を殺害するのに何の躊躇も持たなかった。だが、党内の同志については、彼らの政治的見解を理由として収監したり殺害したりはしなかった。//
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(08) レーニンがスターリンと異なるのは、とりわけ、農民層に関する政策だった。
レーニンならば、スターリンが指導者となったときのような暴力的方法で農業の集団化を実施するのを、許さなかっただろう。
NEP でのレーニンの革命の見通しは、より農民に友好的で、より多元主義的で、より寛容だった。1928-29年にNEP を覆したときにスターリンが約束した「大分岐」と、長い期間で見れば、同様にユートピア的だったとしても。
さて、最後に、レーニンと革命の運命に関する問題は、NEP の成り行きにかかっている。そして、つぎの章で扱うのは、この問題だ。//
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第8章、終わり。