Anne Applebaum, Red Famine -Stalin's War on Ukraine (2017).
 =アン.アプルボーム・赤い飢饉—スターリンのウクライナ戦争(2017年)。
 第15章の試訳のつづき。
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 第15章・歴史と記憶の中のホロドモール。
 第四節②。
 (10) 注目した全ての者が肯定的なのではなかった。多くの専門的雑誌は、Conquest 著を全く書評しなかった。
 一方で、何人かの北米の歴史家は、Conquest を政治的右翼の一員であるとともにソヴィエト史のより伝統的な学派の代表者だと見なし、この書物をあからさまに非難した。
 J, Arch Getty は〈London Review of Books〉で、Conquest の見方は保守的シンクタンクのアメリカの起業(Enterprize)研究所から助成を受けていると不満を述べ、「西側にいるウクライナ人エミグレ」と結びついているがゆえに、彼の根拠資料を「パルチザン的」だとして否定した。
 Getty はこう結論した。「その言う『悪の帝国』とともにある今日の保守的な政治的雰囲気の中では、この本は確実に人気を博するだろう」。
 当時、今のように、ウクライナに関する歴史的議論は、アメリカの国内政治によって形づくられていた。
 飢饉の研究がそもそもなぜ「右翼」か「左翼」のいずれかだと考えられるべきなのかについての客観的な理由は存在しないけれども、冷戦時代の学界政治によれば、ソヴィエトの悪業について書くどの学者も、簡単に色眼鏡でもって見られる、ということを意味した。(注56)//
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 (11) 〈悲しみの収穫〉はやがて、ウクライナ自体の内部で反響を見出すことになる。当局はこの書物の流入を阻止しようとしたけれども。
 Harvard の研究企画(project)が1981年に開始されたのとちょうど同じ頃、ウクライナ・ソヴェト社会主義共和国に関する国連使節団の代表たちが大学を訪問して、ウクライナ研究所がその企画を断念するように求めた。
 その代わりとして研究所に提示されたのは、当時としては稀少なことだったが、ソヴィエトの公文書資料の利用だった。
 Harvard 大学は、拒否した。 
 Conquest 著の要約版がトロントの〈Globe and Mail〉に掲載されたあとで、ソヴィエト大使館の第一書記が編集者に対して、怒りの手紙を書き送った。
 その第一書記は、こう出張した。そのとおり、ある程度の者たちは飢えた、彼らはしかし、旱魃とクラクによる妨害の犠牲者だった。(注57)
 いったん書物が出版されると、それをウクライナ人から隠し通すことは不可能だった。
 1986年の秋に、アメリカが後援し、München に基地局のある自由ラジオ(Radio Liberty)で、その書物の内容はソ連内部のリスナーに向けて朗読された。//
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 (12) より手の込んだソヴィエトの反応が、1987年に届いた。〈欺瞞、飢饉とファシズム—ウクライナ・ジェノサイド、ヒトラーからハーヴァードへの神話〉の刊行によって。
 表向きの著者のDouglas Tottle は、カナダの労働活動家だった。
 彼の書物は、飢饉はウクライナのファシストと西側の反ソヴィエト集団によって考案され、プロパガンダされた悪ふざけ(hoax)だと叙述した。 
 Tottle は悪天候と集団化後の混乱が食料不足の原因となったことを承認したけれども、悪意のある国家が飢餓の拡大に何らかの役割を果たしたことを認めるのを拒んだ。
 彼の書物は、ウクライナ飢饉を「神話」だと書いたのみならず、それに関する全ての説明資料は定義上、ナツィによるプロパガンダで成っている、と論じた。
 Tottle の書物は、とりわけ、つぎのように断定した。
 ウクライナ人離散者たちは全員が「ナツィス」だ。飢饉関係の書物や論文集は、西側の情報機関とも結びついた、反ソヴィエトのナツィ・プロパガンダだ。Havard 大学は長く反共産主義の調査、研究、教育の中心で、CIAと連結している。飢饉についてMalcolm Muggeridge が書いたものは、ナツィがそれを利用したがゆえに、道徳的に腐敗している。Muggeridge 自身が、イギリスの工作員だ。(注58)//
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 (13) モスクワとKyiv の両方にある党史研究所は、Tottle の原稿作成を助けた。
 修正や説明のために、未署名の草稿が彼と二つの研究所のあいだを行き来した。
 ソヴィエトの外交部は書物の刊行と進行を支持し、可能な場所ではそれを促進した。(注59)
 やがてその書物は、少数者を惹きつけた。1988年1月に、〈Village Voice〉は「ソヴィエトのホロコーストの探求。55年前の飢饉が右翼に栄養を与える」という記事を掲載した。これはTottle の著作を無批判に用いていた。(注60)//
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 (14) 遡ってみると、Tottle の書物は、ほとんど30年後に何がやってくるかを示す先駆けとして重要だった。
 その中心にある主張は、ウクライナ「ナショナリズム」とファシズムおよびアメリカとイギリスの情報機関との間の連結という想定を基礎にしていた。—ウクライナでのソヴィエトの抑圧やウクライナの独立または主権に関する議論の全てはウクライナ「ナショナリズム」と定義された。
 かなりのちに、同じ連結の一体—ウクライナ・ファシズム・CIA—が、ウクライナの独立や2014年の反腐敗運動に対するソヴィエトの情報キャンペーンで用いられることになる。
 まさに現実的意味で、その情報キャンペーンの基礎は1987年に築かれていた。//
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 (15) 〈欺瞞、飢饉とファシズム〉は、当時のソヴィエトの釈明と同様に、1932-33年にウクライナとロシアで一定の飢えがあったことを承服しはするが、大量の飢餓の原因を、「近代化」の要求、クラクの妨害、言うところの悪天候に求めた。
 真実の一端が、最も手の込んだ糊塗活動に結びつけられたのと同様に、虚偽と誇張とにも結合された。 
 Tottle の書物は、当時に1933年のものとされた写真のいくつかは実際には1921年の飢饉の際に撮られたものだ、と正確に指摘した。
 それはまた、1930年代についての間違ったまたは誤解を与える報告があることも、正確に見抜いた。 
 Tottle は最後に正しく、一定のウクライナ人はナツィスに協力した、ナツィスはウクライナ占領中に飢饉に関してきわめて多くのことを書き、話した、と書いた。//
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 (16) こうしたことは1932-32年の悲劇を消失させたのでも、その原因を変更したのでもなかったけれども、飢饉に関して書く者をそもそも傷つけることを意図して、単純に「ナツィ」と「ナショナリスト」の連想が用いられた。
 ある一定範囲では、この策略は有効だった。飢饉についてのウクライナ人の記憶や飢饉に関する歴史研究者に対抗するソヴィエトの情報活動は、不確定性という汚名を残した。
 Hitchens ですら、〈絶望の収穫〉での彼の論述の中で、ウクライナ人のナツィへの協力に言及せざるをえなかった。また、学界の一部はつねに、Conquest の書物を警戒心をもって扱った。(注61)
 公文書を利用することができなかったので、1980年代には、1933年春の飢饉を引き起こした一連の意図的な諸決定について叙述するのは、まだ不可能だった。
 その余波、隠蔽工作または抑圧された1937年統計調査について詳しく叙述することも、不可能だった。//
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 (17) それにもかかわらず、〈絶望の収穫〉と〈悲しみの収穫〉のいずれをも生んだ研究企画は、さらなる影響をもたらした。
 1985年に、アメリカ合衆国議会はウクライナの飢饉を調査研究する超党派の委員会を立ち上げ、Mace を主任調査官に任命した。
 その目的は、「飢饉に関する世界の知識を拡大し、ソヴィエトの飢饉への役割を明らかにすることでアメリカ国民のソヴィエト・システムに関する理解を向上させるために、1932-33年ウクライナ飢饉に関する研究を行う」ことだった。(注62)
 その委員会は、3年かけて報告書と離散者で飢饉からの残存者の口頭および文書による証言録を取りまとまた。これは依然として、これまでに英語で公刊された最大のものだ。
 委員会がその成果を1988年に発表したとき、その結論はソヴィエトの主張とは真っ向から矛盾していた。委員会は、こう結論づけた。
 「つぎのことに疑いはない。ソヴィエト連邦ウクライナと北部コーカサス地方のきわめて多数の住民が、1932-33年の人為的飢饉によって飢えて死んだ。その原因は、ソヴィエト当局による1932年の収穫の剥奪にある。」//
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 (18) 加えて、委員会はこう述べた。
 「『クラクの妨害』に飢饉のあいだの全ての責任があるというソヴィエトの公式の主張は、虚偽である。
 飢饉は、主張されるような旱魃とは関係がなかった。
 飢えている人々が食料をより容易に調達できる地域へと旅行することを禁止する措置がとられた。」
 委員会はまた、こう述べた。
 「1932-33年ウクライナ飢饉は、農村地帯の住民から農業生産物を剥奪することで惹き起こされた」。言い換えると、「悪天候」や「クラクの妨害」によってではなかった。(注63)
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 (19) こうした知見は、Conquest のそれを反映していた。
 それはまたMaceの威厳を立証し、その後の年月に他の研究者たちが利用することのできる、山のような新しい資料を提供した。
 しかし、委員会が1988年に最終報告書を発表したときまでに、ウクライナ飢饉に関する最も重要な議論が、ヨーロッパやアメリカではなく、ウクライナそれ自身の内部でようやく起こり始めていた。//
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 第15章第四節、終わり。