Anne Applebaum, Red Famine -Stalin's War on Ukraine (2017).
=アン.アプルボーム・赤い飢饉—スターリンのウクライナ戦争(2017年)。
第15章第三節の試訳のつづき。
——
第15章・歴史と記憶の中のホロドモール。
第三節②。
(07) Pidhainy はカナダで、ロシア共産主義によるテロル犠牲者(Victims of Russian Communist Terror)ウクライナ人協会の設立を始めた。
また、目立ったエミグレ組織者にもなり、しばしばエミグレ仲間たちに語りかけ、飢饉だけではなくソヴィエト連邦での生活に関する記憶も書きとめておくよう激励した。
他のエミグレ集団も、同じことをしたか、すでに行なっていた。
1944年にWinnipeg に設立されたウクライナ文化教育センターは、1947年に回想記録大会を催した。
第二次大戦に関する資料を収集することを意図していたが、提出された回想録の多くは飢饉に関係しており、やがてそのセンターは豊富な収集物を蓄えることになった。(注38)
世界じゅうのウクライナ人社会は、München にある離散者新聞による訴えにも反応した。その訴えは、「ウクライナでのボルシェヴィキの専横さを厳しく弾劾するのに役立つ」回想記を求めていた。(注39)//
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(08) このような努力の結果の一つが、Pidhainy が編集した書物、〈クレムリン黒書〉(The Black Deeds of the Kremlin)だった。
やがて二巻で構成されて—第一巻は飢饉20周年の1953年に出版された—、〈黒書〉は、飢饉その他のソヴィエト体制の抑圧的側面の分析とともに、数十の回想記を含むことになった。
執筆者の中には、Sonovyi がいた。
このときの彼の主張は、英語に要約して翻訳された。
「飢饉の真実」と題する彼の小論は、あからさまに始まっていた。
「1932-33年の飢饉は、ロシアによる支配のためにウクライナ反対派の基幹部を破壊しようとするソヴィエト政府によって必要とされた。
かくして、政治的動機があったのであり、自然が原因の産物ではなかった。」(注40)//
----
(09) 他の人々は、自分自身の体験を記した。
簡潔で鮮烈な回想記は、死者の素描や写真とともに、長い文字によって過去を思い出させるものだった。
Poltava の経済学者だったG. Sova は、「私は何回も、穀物、粉末の最後の一オンス、あるいは農民たちが取り去った豆類を見た」と記憶していた。(注41)
I. Kh-ko は、その父親が家宅探索の際に靴のゲートルの中にいくつかの穀物を何とか隠すことができていたこと、だがそのうちにやはり死んだこと、を叙述した。
「死体が至るところに散在していたので、父親の遺体を埋めてくれる者はいなかった」。(注42)
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(10) 編集者たちは〈クレムリン黒書〉を、国じゅうの図書館に送った。
しかし、カナダでの新聞記事やドイツでの冊子となった〈The Ninth Circle〉と同様に、ほとんどのソヴィエト学者や学界雑誌の主流によって、慎重に無視された。(注43)
情緒的な農民の回想記と半学問的な小論の混合物では、アメリカの職業的歴史家たちに訴えるところがなかった。
逆説的にも、冷戦はウクライナ人エミグレたちの行動の助けにならなかった。
彼らの多くが用いていた言語遣い—「黒い行ない」あるいは「政治的武器としての飢饉」—は、1950年代、1960年代そして1970年代の多くの学者たちにはあまりにも政治的すぎた。
執筆者たちは、物語を話す「冷戦の闘士」として冷たく拒否された。//
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(11) ソヴィエト当局が飢饉の物語を積極的に抑圧したことも、不可避的に、西側の歴史家や文筆家に大きな影響を与えた。
飢饉に関する確固たる情報が完全に欠けていたため、ウクライナ人の主張は少なくとも高度に誇張されたものだ、あるいは信じ難いとすら、感じさせた。
そんな飢饉があったならば、ソヴィエト政府はそれに対応しようとしただろう?
自分の国民が飢えているとき、どんな政府も傍観しはしないだろう?//
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(12) ウクライナ人離散者たちは、ウクライナそれ自体の地位によっても傷つけられた。
誠実なロシア史研究者に対してすら、「ウクライナ」という観念は、戦争後にはかつて以上に曖昧であるように思えた。
外国人のほとんどは、ウクライナの短い、革命後の独立の時代があったことを知らなかった。ましてや1919年や1930年の農民蜂起について、知らなかった。
1933年の逮捕と弾圧のことなど、少しも知らなかった。
ソヴィエト政府は、その国民はもとより外国人がソヴィエト連邦は単一の統一体だと考えるように仕向けた。
世界の舞台でのウクライナの公的な代表者は、ソヴィエト同盟の報道官であり、戦後の西側ではウクライナはほとんど一般的にロシアの一つの州だと考えられた。
自分たちを「ウクライナ人」と呼ぶ人々は、いくぶんか不誠実だと見られることがあり得た。スコットランド人やカタロニア人(Catalan)の活動家がかつて不誠実だと見られたのとかなり似て。//
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(13) ヨーロッパ、カナダ、アメリカ合衆国のウクライナ人離散者たちは、1970年代までに、自分たちの歴史家や雑誌をもつに十分なほど大きくなり、Harvard 大学のウクライナ研究所やEdmonton にあるAlberta 大学のカナダ・ウクライナ研究所の二つを設置できるほどに裕福になった。
しかし、こうした努力があっても、歴史学の主流を形成できるほどに強くはならなかった。
指導的なウクライナ人離散者のFrank Sysyn は、こう書いた。専門分野の「民族化」(ethnicization)で学界のその他の領域から遠ざかったかもしれない、ウクライナの歴史が二次的で価値のない研究対象のように見えるのだから。(注44)
ナツィによる占領と一定範囲のウクライナ人がナツィスに協力したという記憶もまた、独立ウクライナの擁護者を「ファシスト」と称するのは数十年経ってすら簡単だ、ということを意味した。
離散したウクライナ人たちが自己一体性(identity)を執拗に強調することすら、多くの北アメリカ人やヨーロッパ人には、「ナショナリスト」的で、ゆえに胡散臭いと思われた。//
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(14) エミグレたちが「紛れもなく偏見をもつ者」だとして拒否され、彼らの説明は「曖昧な残酷物語」だとして嘲弄される、ということがあり得た。
「黒書」の編纂はのちに、ソヴィエト史のある有名な研究者によって、学問的価値のない冷戦期の「時代的産物」にすぎないと叙述されることになる。(注45)
しかし、そのときウクライナ自体で、重要な事態が進展し始めた。//
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第三節、終わり。
=アン.アプルボーム・赤い飢饉—スターリンのウクライナ戦争(2017年)。
第15章第三節の試訳のつづき。
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第15章・歴史と記憶の中のホロドモール。
第三節②。
(07) Pidhainy はカナダで、ロシア共産主義によるテロル犠牲者(Victims of Russian Communist Terror)ウクライナ人協会の設立を始めた。
また、目立ったエミグレ組織者にもなり、しばしばエミグレ仲間たちに語りかけ、飢饉だけではなくソヴィエト連邦での生活に関する記憶も書きとめておくよう激励した。
他のエミグレ集団も、同じことをしたか、すでに行なっていた。
1944年にWinnipeg に設立されたウクライナ文化教育センターは、1947年に回想記録大会を催した。
第二次大戦に関する資料を収集することを意図していたが、提出された回想録の多くは飢饉に関係しており、やがてそのセンターは豊富な収集物を蓄えることになった。(注38)
世界じゅうのウクライナ人社会は、München にある離散者新聞による訴えにも反応した。その訴えは、「ウクライナでのボルシェヴィキの専横さを厳しく弾劾するのに役立つ」回想記を求めていた。(注39)//
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(08) このような努力の結果の一つが、Pidhainy が編集した書物、〈クレムリン黒書〉(The Black Deeds of the Kremlin)だった。
やがて二巻で構成されて—第一巻は飢饉20周年の1953年に出版された—、〈黒書〉は、飢饉その他のソヴィエト体制の抑圧的側面の分析とともに、数十の回想記を含むことになった。
執筆者の中には、Sonovyi がいた。
このときの彼の主張は、英語に要約して翻訳された。
「飢饉の真実」と題する彼の小論は、あからさまに始まっていた。
「1932-33年の飢饉は、ロシアによる支配のためにウクライナ反対派の基幹部を破壊しようとするソヴィエト政府によって必要とされた。
かくして、政治的動機があったのであり、自然が原因の産物ではなかった。」(注40)//
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(09) 他の人々は、自分自身の体験を記した。
簡潔で鮮烈な回想記は、死者の素描や写真とともに、長い文字によって過去を思い出させるものだった。
Poltava の経済学者だったG. Sova は、「私は何回も、穀物、粉末の最後の一オンス、あるいは農民たちが取り去った豆類を見た」と記憶していた。(注41)
I. Kh-ko は、その父親が家宅探索の際に靴のゲートルの中にいくつかの穀物を何とか隠すことができていたこと、だがそのうちにやはり死んだこと、を叙述した。
「死体が至るところに散在していたので、父親の遺体を埋めてくれる者はいなかった」。(注42)
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(10) 編集者たちは〈クレムリン黒書〉を、国じゅうの図書館に送った。
しかし、カナダでの新聞記事やドイツでの冊子となった〈The Ninth Circle〉と同様に、ほとんどのソヴィエト学者や学界雑誌の主流によって、慎重に無視された。(注43)
情緒的な農民の回想記と半学問的な小論の混合物では、アメリカの職業的歴史家たちに訴えるところがなかった。
逆説的にも、冷戦はウクライナ人エミグレたちの行動の助けにならなかった。
彼らの多くが用いていた言語遣い—「黒い行ない」あるいは「政治的武器としての飢饉」—は、1950年代、1960年代そして1970年代の多くの学者たちにはあまりにも政治的すぎた。
執筆者たちは、物語を話す「冷戦の闘士」として冷たく拒否された。//
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(11) ソヴィエト当局が飢饉の物語を積極的に抑圧したことも、不可避的に、西側の歴史家や文筆家に大きな影響を与えた。
飢饉に関する確固たる情報が完全に欠けていたため、ウクライナ人の主張は少なくとも高度に誇張されたものだ、あるいは信じ難いとすら、感じさせた。
そんな飢饉があったならば、ソヴィエト政府はそれに対応しようとしただろう?
自分の国民が飢えているとき、どんな政府も傍観しはしないだろう?//
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(12) ウクライナ人離散者たちは、ウクライナそれ自体の地位によっても傷つけられた。
誠実なロシア史研究者に対してすら、「ウクライナ」という観念は、戦争後にはかつて以上に曖昧であるように思えた。
外国人のほとんどは、ウクライナの短い、革命後の独立の時代があったことを知らなかった。ましてや1919年や1930年の農民蜂起について、知らなかった。
1933年の逮捕と弾圧のことなど、少しも知らなかった。
ソヴィエト政府は、その国民はもとより外国人がソヴィエト連邦は単一の統一体だと考えるように仕向けた。
世界の舞台でのウクライナの公的な代表者は、ソヴィエト同盟の報道官であり、戦後の西側ではウクライナはほとんど一般的にロシアの一つの州だと考えられた。
自分たちを「ウクライナ人」と呼ぶ人々は、いくぶんか不誠実だと見られることがあり得た。スコットランド人やカタロニア人(Catalan)の活動家がかつて不誠実だと見られたのとかなり似て。//
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(13) ヨーロッパ、カナダ、アメリカ合衆国のウクライナ人離散者たちは、1970年代までに、自分たちの歴史家や雑誌をもつに十分なほど大きくなり、Harvard 大学のウクライナ研究所やEdmonton にあるAlberta 大学のカナダ・ウクライナ研究所の二つを設置できるほどに裕福になった。
しかし、こうした努力があっても、歴史学の主流を形成できるほどに強くはならなかった。
指導的なウクライナ人離散者のFrank Sysyn は、こう書いた。専門分野の「民族化」(ethnicization)で学界のその他の領域から遠ざかったかもしれない、ウクライナの歴史が二次的で価値のない研究対象のように見えるのだから。(注44)
ナツィによる占領と一定範囲のウクライナ人がナツィスに協力したという記憶もまた、独立ウクライナの擁護者を「ファシスト」と称するのは数十年経ってすら簡単だ、ということを意味した。
離散したウクライナ人たちが自己一体性(identity)を執拗に強調することすら、多くの北アメリカ人やヨーロッパ人には、「ナショナリスト」的で、ゆえに胡散臭いと思われた。//
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(14) エミグレたちが「紛れもなく偏見をもつ者」だとして拒否され、彼らの説明は「曖昧な残酷物語」だとして嘲弄される、ということがあり得た。
「黒書」の編纂はのちに、ソヴィエト史のある有名な研究者によって、学問的価値のない冷戦期の「時代的産物」にすぎないと叙述されることになる。(注45)
しかし、そのときウクライナ自体で、重要な事態が進展し始めた。//
——
第三節、終わり。