Orlando Figes, Revolutionary Russia -1891〜1991, A History (2014).
第20章の試訳のつづき。
——
第20章・判決(Judgement)。
第二節①。
(01) ロシアが必要としたのは、おそらく裁判ではなく、真実と和解に関する委員会だった。それは、アパルトヘイト(apartheid)の犠牲者に公開の聴聞の機会を与え、暴力行使の加害者から恩赦の訴えを聴く、そうした目的のために設置された南アフリカの委員会のようなものだ。
以前の党官僚の特定のグループを訴追したり禁止したりするのが不適切であれば、公開の聴聞や過去に冒された犯罪に対する国家の謝罪を通じて、ロシア人が自分たちの過去に向き合い、ソヴィエト体制の犠牲者が被った悪夢を認識することが、議論の余地はあるとしても正当で、治療法になっただろう(「復古的正義」)。//
----
(02) 限られたかたちではあるが、この過程はGorbachev のもとでのグラスノスチによって始まっていた。
抑圧の犠牲者たちは名誉が回復され、氏名を明らかにすることが認められた。
ソヴィエト・システムの崩壊のあと、Yeltsin には、新しい民主主義と市民社会のために必要だった制度設計の一部として、このシステムを解明する機会があった。
彼は、この機会を掴まなかった。
そのための説明の一部は、つぎのように政治的だった。
KGB の力は強すぎて、その文書資料を公共の調査のために開示するよう強いることができない。憲法裁判所は新しいものなので、民主主義的役割を有効に果たすことができない。Memorial のような公共的団体はその力が依然として弱すぎる。
そして、西側からは何ら圧力が加えられなかった。西側は、経済の自由化にだけ関心があったのだ。
しかし、歴史は、一つの説明でもあった。
ソヴィエトの過去によって、国は二分された。
革命の歴史に関する合意はなく、nation が真実と和解を探求して統合することのできる、同意された歴史物語もなかった。
南アフリカでは、アパルトヘイトに対する決定的な道徳的勝利があり、退いた体制の歴史に対して統一した物語を課すことができた。
しかし、ロシアでは、1991年に、そのような勝利はなかった。
多くのロシア人が、ソヴィエト同盟の崩壊を、おぞましい敗北だと見た。//
----
(03) 真実と和解は、歴史的判断を意味する。
しかし、ロシアの人々が自分たちの国の歴史について、どのような評決を下し得ただろうか?
彼らは、ソヴィエト・システムは世界で最良でないとしても「正常な」(normal)ものだと信じて(少なくともある程度は受容して)自分たちの人生を生きていたのだ。//
----
(04) ナツィ・ドイツとの比較が、ときおり行われた。
西ドイツは、1945年以降、彼ら自身の近年の歴史に照らして、長くて痛々しい自己点検の作業を行ってきた。
ナツィ体制は、12年間だけつづいた。
しかし、ソヴィエト・システムは、四分の三世紀に及んだ。
1991年までには、ロシアの住民の全体がそのシステムのもとで教育され、そのもとで経歴を積み、彼らの子どもたちを育てた。彼らの人生をソヴィエトの偉業を達成するために捧げたのであり、それは彼ら自身と当然に一体だった。//
----
(05) ロシアの人々は、信念と実践のシステムとしての共産主義を喪失して、混乱した。
彼らは、道徳的空虚を感じた。
ある人々にとっては、宗教が空隙を埋めた。
正教は、マルクス・レーニン主義に代わる既成の選択肢だった。
正教は、1917年以降に失われたロシア的生活様式との再連結、祖先を抑圧したことについての後悔、ソヴィエト体制に関与してしまった道徳的妥協からの清浄化を提供した。
別のある人々にとっては、君主制主義が代替物だった。
1990年代初頭には、ロマノフ家へのロシア人の関心が復活するということがあった。
国外逃亡していたロマノフ家の子孫が帰ってきて、ロシアが立憲君主制になる、ということが語られた。
君主制主義者の復活は、ニコライ二世とその家族が1998年7月17日、彼らがボルシェヴィキによって処刑された後ちょうど80年後に、St. Petersburg のPeter & Paul 聖堂に再埋葬されたときに絶頂に達した。
二年後、皇帝一族は、モスクワの総主教によって聖人とされた。//
----
(06) 歴史で分裂したロシア人は、nation または国家の象徴のまわりで統合することができなかった。
ロシア帝国の三色旗(白・青・赤)が、ロシア国旗として再び採用された。
しかし、ナショナリストや君主制主義者たちは帝国軍隊の外套を好み、共産党員たちは赤旗に執着した。
ソヴィエトの戦時中の国歌は、19世紀の作曲家のMikhail Glinka が作った「愛国歌」に換えられた。
しかし、この「愛国歌」は人気がなかった。
この歌はロシアの競技者やサッカー選手を鼓舞せず、彼らの国際舞台での成績はnational な恥辱の原因になった。
Putin は、2000年に大統領に選出されてすぐ後に、87歳の作家のSergei Mikhailkov が1942年に元の歌詞を書いていた言葉に新たに戻した。
彼はこの復活を、歴史的な敬意と継続性について語って正当化した。
彼はこう言った。この国のソヴィエトの過去を否定することは、古い世代の人々から彼らの人生の意味を奪うことになるだろう。
民主主義者はスターリン時代の国歌の復活に反対した。一方で、共産党員は支持し、ほとんどのロシア人もこの回帰を歓迎した。//
----
(07) 十月革命を記念することも、同様に分裂の元になった。
Yeltsin は、「対立を消滅させ、異なる社会階層の間に和解を生むために」革命記念日を調和と再和解の日(Day of Accord and Reconciliation)に変更した。
しかし、共産党員たちは伝統的なソヴィエト的様式で革命記念日を祝いつづけ、多数の党員が旗を掲げてデモ行進をした。
Putin は、11月4日を国民統合の日として設定することで、対立を解消しようとした(1612年にポーランドによるロシア占領が終わった日)。
その日は、2005年から公式のカレンダーで11月7日の祝日となった。
しかし、国民統合の日は、理解されなかった。
2007年の世論調査によると、住民のわずか4パーセントだけが何のための日かを語ることができた。
人々の十分の六は、革命記念日がなくなることに反対していた。
——
第二節②へと、つづく。
第20章の試訳のつづき。
——
第20章・判決(Judgement)。
第二節①。
(01) ロシアが必要としたのは、おそらく裁判ではなく、真実と和解に関する委員会だった。それは、アパルトヘイト(apartheid)の犠牲者に公開の聴聞の機会を与え、暴力行使の加害者から恩赦の訴えを聴く、そうした目的のために設置された南アフリカの委員会のようなものだ。
以前の党官僚の特定のグループを訴追したり禁止したりするのが不適切であれば、公開の聴聞や過去に冒された犯罪に対する国家の謝罪を通じて、ロシア人が自分たちの過去に向き合い、ソヴィエト体制の犠牲者が被った悪夢を認識することが、議論の余地はあるとしても正当で、治療法になっただろう(「復古的正義」)。//
----
(02) 限られたかたちではあるが、この過程はGorbachev のもとでのグラスノスチによって始まっていた。
抑圧の犠牲者たちは名誉が回復され、氏名を明らかにすることが認められた。
ソヴィエト・システムの崩壊のあと、Yeltsin には、新しい民主主義と市民社会のために必要だった制度設計の一部として、このシステムを解明する機会があった。
彼は、この機会を掴まなかった。
そのための説明の一部は、つぎのように政治的だった。
KGB の力は強すぎて、その文書資料を公共の調査のために開示するよう強いることができない。憲法裁判所は新しいものなので、民主主義的役割を有効に果たすことができない。Memorial のような公共的団体はその力が依然として弱すぎる。
そして、西側からは何ら圧力が加えられなかった。西側は、経済の自由化にだけ関心があったのだ。
しかし、歴史は、一つの説明でもあった。
ソヴィエトの過去によって、国は二分された。
革命の歴史に関する合意はなく、nation が真実と和解を探求して統合することのできる、同意された歴史物語もなかった。
南アフリカでは、アパルトヘイトに対する決定的な道徳的勝利があり、退いた体制の歴史に対して統一した物語を課すことができた。
しかし、ロシアでは、1991年に、そのような勝利はなかった。
多くのロシア人が、ソヴィエト同盟の崩壊を、おぞましい敗北だと見た。//
----
(03) 真実と和解は、歴史的判断を意味する。
しかし、ロシアの人々が自分たちの国の歴史について、どのような評決を下し得ただろうか?
彼らは、ソヴィエト・システムは世界で最良でないとしても「正常な」(normal)ものだと信じて(少なくともある程度は受容して)自分たちの人生を生きていたのだ。//
----
(04) ナツィ・ドイツとの比較が、ときおり行われた。
西ドイツは、1945年以降、彼ら自身の近年の歴史に照らして、長くて痛々しい自己点検の作業を行ってきた。
ナツィ体制は、12年間だけつづいた。
しかし、ソヴィエト・システムは、四分の三世紀に及んだ。
1991年までには、ロシアの住民の全体がそのシステムのもとで教育され、そのもとで経歴を積み、彼らの子どもたちを育てた。彼らの人生をソヴィエトの偉業を達成するために捧げたのであり、それは彼ら自身と当然に一体だった。//
----
(05) ロシアの人々は、信念と実践のシステムとしての共産主義を喪失して、混乱した。
彼らは、道徳的空虚を感じた。
ある人々にとっては、宗教が空隙を埋めた。
正教は、マルクス・レーニン主義に代わる既成の選択肢だった。
正教は、1917年以降に失われたロシア的生活様式との再連結、祖先を抑圧したことについての後悔、ソヴィエト体制に関与してしまった道徳的妥協からの清浄化を提供した。
別のある人々にとっては、君主制主義が代替物だった。
1990年代初頭には、ロマノフ家へのロシア人の関心が復活するということがあった。
国外逃亡していたロマノフ家の子孫が帰ってきて、ロシアが立憲君主制になる、ということが語られた。
君主制主義者の復活は、ニコライ二世とその家族が1998年7月17日、彼らがボルシェヴィキによって処刑された後ちょうど80年後に、St. Petersburg のPeter & Paul 聖堂に再埋葬されたときに絶頂に達した。
二年後、皇帝一族は、モスクワの総主教によって聖人とされた。//
----
(06) 歴史で分裂したロシア人は、nation または国家の象徴のまわりで統合することができなかった。
ロシア帝国の三色旗(白・青・赤)が、ロシア国旗として再び採用された。
しかし、ナショナリストや君主制主義者たちは帝国軍隊の外套を好み、共産党員たちは赤旗に執着した。
ソヴィエトの戦時中の国歌は、19世紀の作曲家のMikhail Glinka が作った「愛国歌」に換えられた。
しかし、この「愛国歌」は人気がなかった。
この歌はロシアの競技者やサッカー選手を鼓舞せず、彼らの国際舞台での成績はnational な恥辱の原因になった。
Putin は、2000年に大統領に選出されてすぐ後に、87歳の作家のSergei Mikhailkov が1942年に元の歌詞を書いていた言葉に新たに戻した。
彼はこの復活を、歴史的な敬意と継続性について語って正当化した。
彼はこう言った。この国のソヴィエトの過去を否定することは、古い世代の人々から彼らの人生の意味を奪うことになるだろう。
民主主義者はスターリン時代の国歌の復活に反対した。一方で、共産党員は支持し、ほとんどのロシア人もこの回帰を歓迎した。//
----
(07) 十月革命を記念することも、同様に分裂の元になった。
Yeltsin は、「対立を消滅させ、異なる社会階層の間に和解を生むために」革命記念日を調和と再和解の日(Day of Accord and Reconciliation)に変更した。
しかし、共産党員たちは伝統的なソヴィエト的様式で革命記念日を祝いつづけ、多数の党員が旗を掲げてデモ行進をした。
Putin は、11月4日を国民統合の日として設定することで、対立を解消しようとした(1612年にポーランドによるロシア占領が終わった日)。
その日は、2005年から公式のカレンダーで11月7日の祝日となった。
しかし、国民統合の日は、理解されなかった。
2007年の世論調査によると、住民のわずか4パーセントだけが何のための日かを語ることができた。
人々の十分の六は、革命記念日がなくなることに反対していた。
——
第二節②へと、つづく。